シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんと自己犠牲

 前回のブログで、木村さんの著書で論じられていたインフルエンザの大流行はカゼを引いても仕事や学校に行かなければならないという社会的空気が漂っているからであるという現在の日本社会の状況を取り上げました。その木村さんの議論をフォローしていく中で、ふと宮沢さんは「自己犠牲」をどのように考えていたのだろうかという問いが襲ってきたのです。

 「自己犠牲」ということばは、これまで宮沢さんの代名詞のように言われ、また宮沢さんの人柄を象徴することばとして論じられてきたように思います。今回出会った本は、谷口正子さんの『仏教とキリスト教の中の『人間』 『歎異抄』・宮澤賢治石牟礼道子ほか』です。そしてこの著書で谷口さんは宮沢さんと自己犠牲の関係を興味深く論じているのです。しかも、キリスト教と仏教に共通する宗教的根底のテーマとして論じているのです。

 谷口さん自身、カトリックを信仰しているのだそうです。その信仰の姿勢は、頑なに自分の宗教的派閥の教えの正統性だけを強調するというものではなく、他の宗教や宗派の教えにも関心をもち、すべての宗教の根底に共通する「人間」を追及しようとするものなのです。事実谷口さんは仏教学についても学んでいるのです。そうであればこそ、宮沢さんの理解を深める絶好の好著ではないかと受け止めました。

 宮沢さんも、仏教とキリスト教の両方の教えに真剣に向き合った人ではないかと思います。ではこの両宗教に共通する「人間」としての基盤とは何なのでしょうか。その問いに対する谷口さんの回答こそ、「自己犠牲」なのです。谷口さんは言います、

 宮沢さんの「作品から宗教的な要素を探っていくとき、二つの最も大きなテーマが浮かび上がる。一つは大乗仏教の大悲の思想、自己犠牲の思想と言ってもよい」のです。「二つ目は、これと密接に結びついた、縁起(依他起性)の思想に根にもつ《共同体》という考え方で」すと。

 さらに谷口さんは「自己犠牲」を宮沢さんのデクノボーへの希求と結びつけ次のように論じています。「《デクノボー》はむしろキリスト」であり、「人間の行為を損得勘定でしか見えない人々にとっては、自分で罪を犯したわけでもないのに、他者のためだけに自分を犠牲にしたキリストはこの上ないデクノボーではないのか」と言うかもしれません。

 しかし、「筆者(谷口さん)は《デクノボー》という言葉を、自嘲でも敗北の表現でもなく、外部から見た場合の蔑視表現」〔( )内は引用者によります。〕であると考えます。そして、「賢治は《それでいい、むしろそれこそ望む》と考えていたのではないかと推察したい」のですと。

 すなわち、宮沢さんは、「その時点で行うべき自己犠牲を理屈抜きで受容できる人、それを《デクノボー》とよんだ」のです。まさしく、「雨ニモマケズ」の詩は、「大悲・愛」の例として挙げ」られると、谷口さんは言います。

 なるほど宮沢さんのデクノボーと呼ばれることへの希求は「自己犠牲」の思想と関連していることをあらためて考えさせられました。ただ次のような疑問も湧いてきたのです。それは、宮沢さんはいつどこでもだれに対するものでも「自己犠牲」というものがすべての人のまことの幸せにつながるものと考えていたのだろうかという疑問です。宮沢さんはそのことに大いに悩んでいたのではないかと感じるのです。

 宮沢さんも生きた近代社会以降の社会はとくにですが、人間社会(人間社会だけでなく生き物の世界)というのは実に多くのさまざまな利害関係が複雑に絡み合い錯綜している世界です。そうした世界の中すべてのもののまことの幸せにつながる「自己犠牲」とはどのようなものなのでしょうか。繰り返しになりますが、宮沢さんにとって、それが大きな問題だったように感じます。自分の命がかかっている場合にはとくにそうだったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン 

カゼをひいたらすぐに、安心して休める社会を実現する

 木村さんの本を読んでいて一番驚いたことは、かぜやインフルエンザはワクチンをはじめとする薬では治せないということです。それらの薬は一定程度予防してくれ、病気になったことで生じる私たちにとってとても不快に感じるさまざまな症状をやわらげてくれるだけだというのです。

 現在の新型コロナ騒動において、そのウイルスに効くワクチンや新薬が開発され、普及すれば自ずとその流行は収まり、以前の生活を取り戻せると単純に考えていたので、木村さんの指摘は青天のへきれきだったのです。ウイルスに効くワクチンや新薬の開発が流行を抑える切り札だと信じていたのです。ではなぜそれでは流行を抑えることができないのでしょうか。この疑問に関する木村さんの回答は、

 「いわゆるカゼというのは、ウイルスによる感染症だ。原因となるウイルスは、少なくとも200種類は存在するといわれており、しかも、カゼの半数の原因ウイルスであるといわれるライノウイルスには、少なくとも100種類の遺伝学的に異なるウイルス株があるとされる。この数百というウイルスをすべて個別に識別して駆逐してくれる薬剤を作ることは事実上、不可能であるし、そもそもカゼという自然治癒する病気を根絶するために、多額の研究開発費を投じて薬を開発しようと考える製薬会社が現れることもないだろう」というものです。

 しかも、せっかくワクチンを開発しても、それを使用する中でそのワクチンをスルーする変異のウイルスが生まれてきてしまうというのです。そして、この現象は現在の新型コロナの流行の中でも起きてきているのではないでしょうか。私自身も、3回目のワクチンを接種したのですが、報道によれば4回目は効かなくなるだけでなく、副反応の方が大きくなると言われているようですし、自分が打ったワクチンが効かなくなる新型コロナのウイルスの変種が次々と生まれてくることも予想されるとも言われています。

 ではそうした性格をもつインフルエンザ流行へはどのように対応すればよいのでしょうか。木村さんの提言は極めてシンプルです。すなわち、インフルエンザに罹ってしまったら、安心して休み、治療に専念できる社会を実現すればよいのです。木村さんは言います、

 「カゼやインフルエンザでつらい間は、そもそも『仕事にならない』のだ。つらい間は身体を休めるしかない。罹(かか)った人は、自身の安静のためと、周囲に感染を拡げないためという2つの理由のもと、仕事や勉強など気にせず堂々と休んだ方がいい。いや、休まねばならないのだ」とです。

 とは言っても日本社会はこれまでかなり重度のカゼに罹っても気軽に休めない社会だったのではないでしょうか。ましてや自分の子どもや親が病気になったからといって休むことなどもってのほか社会だったのではないでしょうか。

私事になりますが、スコットランドに滞在していたとき、滞在先のホームステイの人は自分の飼い犬の調子が悪いという理由で仕事を休んでいました。しかも、それを仕事先も社会も認めているようすだったのです。

 日本にはかなりひどいカゼに罹っても無理をして出社し、仕事をこなさなければ白い目で見られ、ひどいときには差別や排除の事由になりかねない空気が漂っているのではないでしょうか。そうしたとき休みをとること自体になぜか後ろめたい気持ちになってしまう位、私たちはそうした空気に馴染んでしまってもいるのではないでしょうか。

 さすがにインフルエンザに罹ったときには、会社に行かないようにとはなっているというのですが。しかし、そのときはそのときでそれがズル休みでないことを証明するために(自分の病気を治すためではなく)医者にかかりインフルエンザであることの証明書をもらわなければならないのですが。

 しかし、木村さんによれば、それがまたインフルエンザの流行を一層進めてしまう大きな要因なのだそうです。木村さんは指摘します、

 「普段と具合が異なっていたり、調子が悪いなら、自宅で安静にし、人には不用意に接触しないのがインフルエンザ対策としてもっとも重要なことなのだ」。「逆にインフルエンザが心配だから」、インフルエンザに罹っていないことの証明書をもらうためという理由のために「軽微な症状で医療機関に行くのは非常に危険だ。医療機関は本物のインフルエンザ患者さんが大勢いる、感染リスクが最も高い場所だからだ」というようにです。

 現在の新型コロナの流行との関係でこの木村さんの指摘を念のために敷衍しておくならば、非常に危険な感染症の場合には、いつでも、気軽に、そして安心して罹患の検査ができる検査のための専門機関の体制が整っていることが重要になるということではないかと考えます。

 そのことと関連して、上述の著者の中における現在の日本の医療体制と政府による医療政策についての木村さんの議論に耳を傾けなければならないと感じています。それは現在のそれらの状況は、<カゼをひいたらすぐに、安心して休める社会>とは程遠い状態にあるだけでなく、真逆の方向に動いていることを論じているのです。

 ここではその議論にふれる余裕はありません。関心ある方はぜひ木村さんの著書を手に取って読んでいただければと思います。

 その議論の結論部分だけに言及しておくならば、現代の日本の医療体制は、高い医療費を払えるだけのお金をもっているかいないかを基準とする選別的な医療体制へと急速に変質していると木村さんは警告を発しています。

 お金だけの問題だけでなく、現在の新型コロナの流行に関わる混乱と騒動を見ていると、人間関係弱者、交通弱者やインターネット弱者の人たちが予防、検査、そして治療から取り残され、放置されているのではないかと危惧される状況になっているように感じます。そのことはいずれ社会に跳ね返ってくるのではないかと思います。なぜならば、そうした状況とは、新型コロナの感染源が社会的に温存されつづけるということを意味しているからです。

 木村さんは自著のなかでそうした感染症と社会のあり方との関係性に警鐘をならそうとしていたのだなと気づきました。まさしく、木村さんの著書は、現在の新型コロナの流行の混乱と騒動の予言の書であるといえるのではないかと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

新型コロナの流行は社会の在り方を映す鏡

 個人的なことになりますが、現在の新型コロナの流行による社会的混乱と騒動は、丁度自分が定年退職し、今度こそ心おきなく自由に自分がやりたかったことを思う存分やってみたいと夢を描いているときに始まったのです。やってみたいと夢見ていたこととは、ノマドワークとしてフィールドワークをつづけることです。

 意気込んで準備をし、さあこれからという時期に新型コロナ騒動が勃発したのです。それ以来、自分の夢はその騒動に翻弄されつづけ、当初期待していた生活とは全く違った生活を余儀なくされています。

 ただそのことでよいこともありました。ひとつは、その時間を活用して宮沢賢治さんという一人の人物の人生にじっくり向き合えたことです。もうひとつが、自分自身の日々の生活を自分自身で面倒をみるという生活を楽しめたことです。そのお陰で、少なくとも自宅にいるときには、ルーティン化した生活を心ゆくまで楽しむという経験をすることができています。

 ルーティン化した日常生活の柱は、そのための買い物を含め食事を作り食べることと寝ることです。新型コロナ騒動が終わったあとのフィールドワーク継続のための健康と体力を維持するためのウォーキング、そして読書です。そしてこのルーティン化した日常生活のお陰でそれまでは日々目の前の忙しさに追われ、いくら願ってもえられなかった、ものごとをじっくり考えてみるための時間という人生の財産を手にしています。

 そうした生活の中、ふとこのブログでも取り上げた若者の支援活動をしている橋本正彦さんのところ出会ったひとりの青年のことが心に浮かびます。その青年は、仕事をやめ、毎日図書館に通い、読書三昧の生活をおくっている人でした。そして、青年が、その生活は楽しく、そのため毎日が充実していると話していた記憶が甦ってくるのです。

 そのときは今の青年は自分のころの青年ともっている感性がだいぶ違うなと感じていただけでした。しかし、現在おくっている生活に慣れてくるにつれ、その青年は豊かな感性の持ち主なのではないかと思うようになっています。なぜなら、若い時期にすでにじっくり物事を考える余裕をもった時間を大切にする生活の価値を感じとり、実際体現しているからです。

 そのような想いに耽っていたとき、いつも通っている図書館の書棚で、木村知さんの著作である『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』と出会ったのです。出会ってすぐに、「病気は社会が引き起こす」というタイトルに惹かれたのです。

 タイトルだけを見たときには、木村さんは社会学者の人なのかなと思いました。なぜなら病気をその原因と考えられる細菌やウイルスとの関係で論じるのではなく社会との関係で論じようとしているのが上記の著作だと思ったからです。例えば、社会思想家のエーリッヒ・フロムさんは自身の『正気の社会』と題する著作の中で次のような主張を提示しています。

 「個人が健康であるかどうかは、まずなによりも個人的な事柄ではなくて、その社会構造に依存している」。それゆえ、多くの人が病気となり健康を害している場合には、病んでいるのは個人ではなく社会なのであると。

 そのような見方をすることを仕事としてきたことから、木村さんの著作も社会学者の方のものではないかと早合点してしまったのです。しかし、読み始めてすぐに、木村さんが現役のお医者さんであることを知るのです。そこでがぜんこの本への興味が湧いてきたのです。それは、自然科学の分野に属しているお医者さんである木村さんは、インフルエンザの流行と社会との関係をどのように論じているのだろうかという興味です。

 もうひとつこの本をぜひ読んでみたいと思わせる事柄がこの本にはありました。それは、この本の出版年月日が、2019年12月10日であることです。その年月日といえば、現在の新型コロナによる社会的混乱と大騒動がまさに露になろうとしている時期ではないかと気づいたからです。

 直感でもしかしたらこの本には現在の新型コロナの流行による社会的混乱と大騒動を予言するようなことが書かれているかもしれないと感じたのです。実際に読んでみると、その直感は当たっていたのです。

 そして読み進めれば読み進めるほど、今回の新型コロナの流行は、現代社会のあり様を映し出す鏡の役割を果たしているなと強く思うようになっていったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

科学と宗教、そして社会づくり

 「真理(法)探求」の人とは、道元さんのことではないかと考えます。師の死に目に立ち会うことより「真理(法)探求」の修行を優先するようお弟子さんに諭したとされる逸話がその象徴となるのではないでしょうか。

 宗教における「実践」は、宗教的悟りを求める人すべての人を表している用語ではないかと思います。なぜならば、歯を磨いたり顔を洗ったりすることを含め、日常生活における生活すべてが修行のための「実践」であると考えられているようだからです。

 しかし、反権力的社会変革という性格をもつ社会づくりの「実践」の人ということに着目すれば、時代や社会の中でふさわしい人を数多くあげることができるかもしれません。宮沢さんが師として信仰した日蓮さんもそうした人のひとりでしょう。なぜならば当時の権力による弾圧を受けながら、法華経の行き渡った社会を実現しようとしていったのですから。

 しかし、他方で、日蓮さんの場合は、自分の仏教の教えこそ正しい教えであり、そのことを認め、国の宗教として自分の教えを採用し、国中に流布することを進めることを権力に求めていこうとしていたのであり、決して時の権力への反権力者、または打倒権力者ではなかったとも言えます。

 これからはせっかく京都を訪ねていたということもあって、京都という社会が生んだ、反権力的社会変革という性格をもつ「正義」と結びついた「実践」の人として、山本宣治さんという人に注目していくことにしようと思います。その理由は、山本さんが思いのほか多くの宮沢さんの境遇との共通点を有していることを知ったからです。

 短い期間ではありましたが折角京都に滞在する機会をもてたので、1日だけに過ぎませんでしたが、府立図書館を訪れることができました。京都で興味あるテーマに出会えたらまた図書館に通うということになるかもしれないと考えたからです(しかし、残念なことに京都を去ったあと、感染力の強いオミクロン株の新型コロナが猛威をふるい、この執筆時点では全国的な急拡大がつづいており、残念ですがまたしばらくの間は自分の家でじっとしていなければならないようです。)。

 訪問してみて図書館には興味ある文献が沢山あることが分かりました。その一つひとつを紹介することはしませんが、社会学にとっても興味深い京都の「街衆」に関する文献では京都の「町衆」や彼らの「自治組織」の形成に日蓮宗の影響があったことが論じられており、さすが京都、地域社会づくりに宗教が深く関わっているのではないかという希望をもつことができました。社会づくりと宗教との関係性についてのテーマに、京都はことかかないことがあらためて分かりました。

 そして、そのとき出会った文献の中に山本宣治さんに関する文献もあったのです。それらの文献の立ち読みによれば、山本さんも裕福な家族に生まれています。また両親とも熱心なクリスチャンで、山本さんもその影響を受けて育ったのです。さらに病弱であったことも宮沢さんとの共通点です。

 さらに山本さんの小さかったころの夢は、家が「花やしき」(花かんざし屋)であったこともあって、社会をきれいな花でいっぱいにしたいというものであったと言います。1906年には園芸家をめざして大隈重信さんの家に住み込みで、園芸修行を行っています。さらに、1907年からは、カナダのバンクーバーにわたり、園芸のほか約30種類の職業を転々とした生活経験もしています。

 1889年に生まれ、1929年に死亡しており、山本さんはほぼ宮沢さんと同時代を生きた人物であると言ってもよいのではないかと思います。ただ科学と社会主義への向き合い方において二人は異なっていました。

 科学について見ると、宮沢さんは、「農民芸術概論要綱」において、「近代科学の実証」においてそれを論じたいと科学を肯定的にとらえている一方で、近代社会に入り宗教に置き換わった「科学は冷たく暗い」とその負の性格を感じています。山本さんは、カナダからの帰国後生物学者への道を歩み、その研究成果に基礎をおいたさまざまな社会政策を提言するようになっていきます。

 当時日本社会にも浸透してきていた社会主義への向き合い方についても違いが見られます。宮沢さんも一時期当時日本においても影響力をましていた社会主義に大きなシンパシーをもち、地元で労農党支部が開設された際には協力を惜しまなかったと言われています。

 山本さんの場合は、さらに一歩踏み込み、自身が党員となって活躍するようになります。そのため、山本さんは右翼団体から狙われ、1929年3月刺殺されその短い生涯を終えたのです。そうした経歴をもつ山本さんと宮沢さんの人生の歩みを比較することは、科学と宗教、そして社会づくりに関する宮沢さんの向き合い方の特徴を究明するためにも意味のあることではないかと感じた次第です。

 ただ現在のオミクロン株の流行状況では直ちにその作業を進めることはできそうにありません。じっとその機会が訪れるのを待ちたいと思います。ところで、蛇足的余談となるのですが、宮沢さんはあまり京都との縁はなさそうだと勝手に思い込んでいたこともあり、何らの下調べもせずに京都に来てしまっていました。

 しかし、京都から戻ったあと、小倉豊文さんの『宮沢賢治雨ニモマケズ手帳』研究』』を眺めているときに、折角京都へいったのであればぜひ訪ねておけばよかったと思われる場所があることを知ったのです。

 「雨ニモマケズ」手帳の137から138頁には、「元政上人」についてのノートが記されています。小倉さんの解説によれば、元政さんは、「江戸時代の日蓮宗の僧侶」で、「父母に対する奉養心の深いことでも名高い」人です。とくに、1659年、元政さんが37歳のときには、「母を奉じて見延詣で」をしています。妄想になりますが、宮沢さんの「銀河鉄道の夜」におけるジョバンニを想起してしまいます。

 そしてこの元政さんは、「一六五五(明暦元)年京都の南郊の深草村に深草山瑞光寺を創建」しています。しかも、死に際しては「遺言して墓石を建てさせず、竹三本を植えしめた彼の墓は、京都市伏見区の瑞光寺の側に現在も遺言通りにある」のだそうです。できればこの場所を訪れておけばよかったなという思いを強くしています。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

祈りの人としてあった宮沢賢治さん

 ここまで宮沢賢治さんの人生を辿ってきました。宮沢さんは何を求めて生きてきたのか、社会学の目で確かめたいというのがその目標でした。本来であれば、全国を旅しながら生き生きと生活している人に出会い、その方の人生と活動に関する話を聞き、それをこのブログで紹介するというノマドワークをしたかったのですが。新型コロナの流行でそれが叶わず、自分の終活も兼ねての作業でした。

 しかし、いま、宮沢さんの人生のもつ豊饒な特異性のおかげで、多くの非常に興味あるテーマに出会うことができたと感じています。とくに仏教をはじめとする宗教について関心をもって学ぶことができました。それはほんの入門書的な文献による学びにすぎないものでしたが、新鮮に感じることができるものでした。

 ところで、昨年末ぐらいから日本においては新型コロナの流行が落ち着きを見せていたことで、いよいよ再度実際に旅に出てのノマドワークができるようになるのではないかと期待が膨らみました。そこで、手始めに、年末年始の時期京都の街を旅することにしたのです。

 せっかく少しは仏教について学んだことで、それが地域の人々の日常生活にどのように根付いているのかを感じてみたいと考えたからです。そのためのフィールドとして選んだ地が京都です。

 その理由は、京都は全国的にも著名な寺社が多く存在しており、ある意味での宗教都市的性格をもっているのではないかと考えたからです。それが人々の日常生活の中にどのように現れているか実際に少しでも体験できればなと思った次第です。

 宿泊するホテルも、あるお寺と組んで朝の祈りの勤めの体験をコンセプトにしているところを選んでみました。その初日、京都駅を降りホテルに向かって歩いているときに、さっそく期待していた京都らしさに出会うことができました。

 それは東本願寺の敷地に沿った歩道を歩いているときのことです。仏教の教えが4つの側面に書かれている小さな灯篭が歩道に沿って等間隔でたくさん立ててあったのです。そのとき夕刻でそれらの灯篭は教えの文字を浮かび上がらすようにオレンジに輝いていたのです。

 それらの教えの中で社会学との関係で興味あるものもあります。メモすることをしなかったので正確ではありませんが、「人間として生まれてきた意味について考えよう」や「人は縁に生まれ、縁に生き、縁に死ぬ」というような明りに浮かび上がった文字に目がとまりました。

 また滞在中、各お寺での定時の祈りの勤めに誰でもが参加できる機会が身の回りに数多くあることにも興味が惹かれました。それらの機会のいくつかに参加する体験をもちましたが、そのひとつに六波羅蜜寺の夕刻のお勤めに参加した経験が印象深く心に残っています。

 ただご住職の方々がお経を読誦するのを見守るだけでなく、そのときはご住職の方の法話もありました。その中に六波羅蜜寺を開いた空也上人が当時流行していた疫病にどう立ち向かったという話もあったのです。それは呪術的なものではありませんでした。空也上人は人々が日常的に使用している井戸と疫病患者数の関係性をつきとめ、多くの疫病患者が出ている井戸を封鎖するとともに新たな井戸を掘ることを勧めたというのです。

 さらに疫病で亡くなった方々を当時の死者を葬る作法であった土葬ではなく火葬することに取り組んだとの話もありました。まだウイルスなどの概念の存在しなかった当時にあって空也上人は実に科学的な対処法をとったものだなと驚きを感じながらその話を聞いていました。

 なぜならば空也上人の当時京都の街に流行していた疫病への対処のさいの思考法が科学そのものだと感じたからです。それは、宮沢さんの人生を辿るために仏教について学んでいて感じたことと重なっているものだったのです。私たちの社会科学における統計的分析法の出発点は、やはりヨーロッパ社会で疫病が流行したとき、下水道の水の流れと疫病流行のスポットの間の因果的関係性を探求することからはじまったと言われているのです。

 宮沢さんは、法華経と科学を総合して岩手県仏国土建設を行おうとしてきたことはこれまで見てきたところです。それよりもはるかな過去に空也上人が疫病の流行に際し、科学的思考法を基礎に対処していたとは、実に新鮮な驚きでした。仏教と科学との関係性(とくに社会学との関係性)を探求することも興味あるテーマなのでないかと思えてきています。

 また京都に滞在しながら、社会づくりと宗教との関係性にも興味が湧いてきました。それは、宗教者の中に直接何らかの社会づくりに関わった人も多く存在していたのではないかと、宮沢さんの人生を辿りながら気になっていたテーマとも重なるものです。

 そのテーマを探究していくときに重要になると思われる用語は、「祈り」、「真理(法)探求」、「実践」そして(反権力としての)「正義」などではないだろうかと思いを巡らせています。六波羅蜜寺におけるご住職の法話の中でも、「祈り」こそが人間の最高の力なのです話されていました。なるほどなと感じながらその話を聞いていました。

 それらの用語によって宮沢さんの人生を表現するならば、宮沢さんは「祈り」の人であったのではないかと感じます。仏国土を建設することで仏法の行き渡った世界を実現し、すべての人を幸せにしたいと願い、祈った人生だったのではないかと思います。宮沢さんが考える仏国土建設のための「実践」も試みましたが、残念なことに当時の社会意識や権力の介入によってその「実践」は挫折することになってしまいました。

 そのため宮沢さんは、自分の死が迫ってくる中で、仏国土建設のための自分の最後の仕事として、法華経の流布を図り、将来第2、第3の宮沢賢治さんが現れ、自分の意志を継承して仏国土建設に邁進してくれることを祈ったのではないかと想像します。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

すべての人に気にかけ・大切に思い・困ったときに支援の手をさしのべてくれる人がいる世界を願う

 家族や地域社会の人という身近な人に対する菩薩的行為によって、一体「世界全体が幸福」になる世界は実現するものなのだろうかという疑問が湧くかもしれません。そうした疑問に関しては、宮沢さんは、身近な人に対する菩薩的行為を積み重なっていくことが仏国土建設につながる道であると答えることができると気づいたのではないかと推測します。

 そのように推測するのは、宮沢さんが菩薩的行為を行い、まことの生活と幸せを実現しようとする人は自分だけでなく実に多くいるではないかという思いに至ったと考えられるからです。宮沢さんの童話の作品で言えば、「グスコーブドリの伝記」にそのことが示されているのではないでしょうか。

 この作品の最後は次のような文章で締めくくられています。すなわち、「そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪(たきぎ)で楽しく暮らすことができたのでした」とです。ブドリの自己犠牲的行為は、まさに新たなブドリ、しかも沢山のブドリを生むことにつながっていたのです。

 この文章では、社会全体が何らかの危機に直面したときには、自分の身を犠牲にして地域の人々の幸せを実現しようとする英雄が次々と生まれてくることを示唆しています。ドストエフスキーさんの「カラマーゾフの兄弟」の中でも、「長老」が自己の欲望にまみれているカラマーゾフ家族の中でキリスト的生活をおくっているアリョーシャと僧院の僧たちに最後の説教において次のようなことばをかけていました。

 煩悩と欲望が渦巻く「今のような時代には、そういう人たちの中にでも善良な人がありますでな。このような人達のためには、こういうて祈っておやりなされ。『どうぞ神様、誰も祈ってくれ手のないすべての人をお救い下さりませ。また、あなたに祈ることを欲せぬ人々をも、お救い下さりませ。』」と。さらに「長老」は、いい続けます。

 「それから即座にこういいなさるがよい。『神様、わたくしがこのようなお祈りを致しますのは、決して高慢心のためではありませぬ。わたくしは誰よりも一番けがれた人間でござります……』とな。衆生(しゆじょう)を愛さねばなりませぬぞ」とです。

 「長老」が仲間たちに諭そうとしたそのような思いを、宮沢さんもまた「雨ニモマケズ」の書付を行っていたときに共有していたのではないかと考えてしまいます。それは、宮沢さんが直接「カラマーゾフの兄弟」のこの部分を読むことで影響を受けたということではないにしても(清水正さんは宮沢さんの「銀河鉄道の夜」という作品は「カラマーゾフの兄弟」を参考にしているのではないかということを指摘しています。)、法華経の行者たることを志し、羅須地人協会以下の活動を経験し、さらにそのことで病により病床に閉じ込められるなかで次々と湧き上がってくる自己のそれまでの人生の振り返りのなかから自然に湧き上がってきた思いなのでしょう。

 それでも、「誰も祈ってくれ手のないすべての人」を含め、直接関りをもつことができるすべての人の苦悩を自分の死の間際になってもあらためて志そうとする宮沢さんの法華経の行者としての思いのすごさに、圧倒される自分を感じざるをえません。何とすごい人だったのだな、宮沢さんという人は。

 宮沢さんが終生願ったものは、すべての人が幸せに生きることのできる世界であり、自己の死に直面してもなお、気にかけ・大切に思い・困ったときに支援の手をさしのべてくれる人が誰にも存在しているような世界をめざして働きたいと願いつづけていたのです。その宮沢さんの絶筆の短歌とは次のようなものです。

 「病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり

   みのりに棄てればうれしからまし」

 この宮沢さんの最後の歌は、自分が法華経の行者たらんとして身命をかけて生きてきて、自分が仏法のために死に、それまでの自分の活動が地域の稲作・生活のみのりのためになっていてほしいと願った歌であると言われてきたものです。実際、その年の花巻地方の作柄は豊作であったというのです。

 

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人との共感がむずかしくなる世界の中で人とのかかわりを求めて生きる

 人と人、そして人と社会との関係性を探究することを使命としている社会学にとってひとつの大切な課題は、自己利害的欲望が渦巻く現代(市場経済)社会において共感的で、さらに宮沢さんが好んで使用したことばで言えば「まこと」の、すなわち仏法にかなった人間関係や人と社会との関係性を創造する道を探求することではないかと考えてきました。

 そうした社会学の視点で、宮沢さんの晩年における「農民芸術概論要綱」の視点から「雨ニモマケズ」の視点への転換を、宮沢さん個人のそうした「道」の内面的探索の展開史という面から眺めてみるとどのように言うことができることになるでしょうか。

 この問いに関しては、自分は何としても仏法に叶った正しい生き方ができるような(阿弥陀仏様や観音様のような)「偉大な」人間になりたいという「自己欲求」優先の姿勢から人が人である限りどのような人であっても、すなわちすべての人が必ず直面する「生老病死」という他者の「苦しみ」へ寄り添うことで、その「苦しみ」を少しでも和らげてあげたいとする他者の「苦しむ」気持ちへの同じ一人の人間としての共感優先の姿勢への転換であったと答えることができるのではないかと思います。

 たとえそうした生き方が世間からは「デクノボー」と呼ばれるようになるとしてもです。しかも、それは一般的に他者の苦しみに共感し、他者の苦しみの救いや幸せのために「祈る」という行為者ではなく、具体的な個々人に対して具体的な共感する他者として関わることによって、苦しんでいる人が自分には自分を大切に思い、自分の苦しみに寄り添ってくれる他者がいるということを実感し、少しでも喜びの気持ちがもて、苦しみから救われるきもちになれるよう身をもって関わる行為者たらんとするものであったのではないかと考えます。

 その具体的な実践例を示しているのは、ドストエフスキーさんの「白痴」の主人公であるムイシュキン公爵ではないかと思います。ドストエフスキーさんはこの作品の中で、ムイシュキン公爵が不幸のどん底に沈んでいたマリーさんという若い女性を精神的に救い、不幸にして亡くなる前には、深い喜びと幸福感を得ることができるような、住んでいる地域の人たちとの関係性を生み出してあげるというエピソードを描いています。

 「彼女は私たちの村の者でした」。母親は病気を患う「よぼよぼのお婆さん」です。貧しく小さな家で、日常品を売ることで口すすぎをしていました。マリーさんは20歳のその娘さんです。マリーさんはある日フランス人のセールスマンに誘惑され、つれていかれ、あげくに捨てられてしまうのです。

 「彼女は袖乞いをしながら、泥だらけになって、上から下までぼろをさげて、ぼろぼろの靴をはいて家に帰って来ま」す。しかし、娘の行動に激怒した母親から勘当同然に扱われ、食事もろくにたべさせてもらえず、つねに激しいことばで罵倒されるだけなのです。しかも、マリーさんは肺病を患ってもいたのです。

 母親だけでなく、村人たちもマリーさんをのけ者にし、いじめ抜くのです。すなわち、「村の者はみんな彼女をいじめて、誰も前のように仕事をさせてやろうとも」せず、「彼女に唾を引っかけたような具合だったのです。男たちは彼女を女として認めることさえやめ、いつもひどいいやらしいことをい」い、村の「女たちは彼女を責め、罪を数えたて、蜘蛛(くも)かなにか眺めるように、軽蔑の目を投げかけるのでした」。

 マリーさんはといえば、「自分でもそれを万事もっとものことだと思い、自分はなにかいちばん下等な、賤しい人間だと思っていたので」す。それでもマリーさんは、母親の死ぬ間際の時期には、病んでしまった母親の足を毎日洗って看病するのです。しかも、そのことに対して母親はやさしいことばの一つもかけることはなく、マリーさんは耐え忍ぶばかりだったのです。このマリーさんの行いは、宮沢さんが師と仰いだ日蓮さんが嘆いた世間の親子関係とは真逆の関係であり、日蓮さんが求めた関係性です。

 日蓮さんは、世間の親子関係を次のように嘆いたといいます。「親は十人の子をば養えども、子は一人の母を養うことなし。あたたかなる夫(おとこ)を懐(いだ)きて臥(ふ)せども、こごえたる母の足をあたたむる女房はなし」(戸頃重基さんの著作『鎌倉仏教 親鸞道元日蓮』)というようにです。

 そうした(日蓮さんが嘆いたのとは真逆の親子関係の状況にあった)マリーさんを知ったムイシュキン公爵は、マリーさんに次のように寄り添うのです。少々長くなりますが、要約せず全文引用(筑摩書房版『ドストエフスキー全集7』訳者は小沼文彦さんです。)しておきたいと思います。

 ムイシュキン公爵は、「マリー一人きりのときに会おうと長いこと苦心しました。やっとのことで、村はずれの、山路にかかる裏道の、垣根の脇の木陰で、私たちは会ったのです。その場で私は(全財産を売り払ってつくったお金)八フランを手渡して、もうこれ以上は工面できないのだから、大切にするよう言いました。それから彼女に接吻して、なにかよかなぬ下心があるなどと思わないように、また私が接吻するのはなにも恋をしているからではなく、彼女をとても可哀そうに思うからなのだ、そしてはじめから私は彼女を罪があるなどとは少しも考えたことはなく、ただ可哀そうな女(ひと)だと思っていただけなのだと言いました。ここで私は慰めてもやり、またみんなに引き比べて自分をひどく下等な女だとどと考えてはいけないと、思い込ませてやろうとしたかったのです」[(全財産を売り払ってつくったお金)は引用者によります。]というようにマリーさんに寄り添ったのです。

 そうしたムイシュキン公爵のマリーさんに対する行為は、すぐに村人たちに知れわたると同時に、大いなる誤解を招くことになるのです。そのため、その後村人たちは以前よりより一層、公爵だけでなく、マリーさんにもつらくあたるようになっていくのでした。村の人たちはムイシュキン公爵に石や「きたないもの」を投げつけ、「一から十までマリーが悪者にされ」たのです。そのため一見すると公爵の行為がマリーさんをより不幸に陥れる結果をもたらしたと見えるかもしれません。

 そうした状況の中で公爵がとった行動は、「マリーがどんなに不仕合せな女であるかみんなに話してやる」ことです。それは毎日毎日つづきます。やがて、「ときには足をとめて私(ムイシュキン公爵)の言うことを聞」[( )は引用者によります。]くもの、マリーさんに「愛想よく挨拶する」ものも現れてくるようになります。村の人たちが「マリーを可哀そうだと思うようになったのです」。

 マリーさんを世話をする者も出てきます。最初にそのために立ち上がったのは村の子どもたちです。「あるときのこと二人の少女が食べ物を手に入れて彼女のところに持って行ってや」ることもあります。そのとき、マリーさんは「泣き出してしまったそうです」。「マリーはもう幸福でした」。極めつけは、村の子どもたちが大勢でマリーさんのところに通い、「彼女に抱きつき、接吻して……大好きだよ、マリー!……と言って、あとは一目散に駆けて帰って来る、ただそれだけのために駆けつけるのでした」。

 現代社会で果たしてそうした奇蹟は起こるものでしょうか。それにしても小説の中とはいえ、ムイシュキン公爵のマリーさんに対する共感的行為が村の人たちのマリーさんに対する優しい関係性を生み出し、マリーさんに心からの幸福感をもたらしたのです。宮沢さんがこの小説を読んだならば、意地悪をしている村人たちにも「慈悲」の心があり、ムイシュキン公爵のマリーさんに寄り添う行為がその心をひきだしたと解するのではないかと想像してしまいます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン