シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの仏国土建設の道

 宮沢さんは、新文明建設者としてふさわしい自分になるための自己研鑽に励むとともに、実際にこの娑婆世界に極楽浄土の仏国土を建設するための活動にも踏み出します。その第一歩が、国柱会へ入会し、その一員として仏国土建設に邁進することでした。しかし、それは、現実にはその教えはあるものの、仏国土建設への活動がないことに失望し国柱会での活動から身を引くことになります。

 そこで次に、宮沢さんは自分が得意とすること、自分が意欲をもって取り組めることによって仏国土建設へ向けた貢献をしていくことをめざすことになります。それが、演劇を上演し、童話を創作していく芸術・文化的な活動だったのです。

 これまでも何度か言及してきたのですが、いかにより多くの人々に「真の生き方」に気づいてもらうことができるのかが仏国土建設の鍵となるのです。宮沢さんは、その生涯を振り返ってみると、より多くの人々に自分たちの生き方に向き合い、意識化し、「真の生き方」に気づいてもらうための努力を積み重ねてきたと言えるのではないでしょうか。

 そのための方法として、宮沢さんは、童話を創作するなどして、無主義で、ご都合主義的な道徳によって生きている生き方を正し、「真の生き方」を示そうとしたのではないかと思います。さらに、造園などを通して現世における極楽浄土の世界とはどのようなものとなるのかを示そうともしたのではないかと考えられるのです。

 しかも、宮沢さんは、現実に苦しんでいる人々を救済する活動にも踏み込んでいきました。それは、自分の命をかけての冷害などの自然災害との闘いであり、借金づけになっている郷土岩手の地域経済を救うための(東北砕石工場のセールスマンとなっての)経済活動だったのではないかと思われるのです。

 ではそうした仏国土建設の活動の中で宮沢さんが発信しつづけたメッセージとは何だったのでしょうか。それは、自然環境をも含めこの世のすべての存在には仏性という精神性が宿っているということ、その精神性の花を咲かせ、現実のものにすることによってこの世に極楽浄土を建設することができるということ、そのためには、この世に生を受けたすべてのものが明るく、楽しく、そして美しく生きていけるようにならなければならないということではなかったかと感じます。

 そうした仏国土建設の道を歩んでいったことで、徐々に宮沢さん自身も、修羅であった存在から成仏していく存在へと変化していったのです。それは自分が救済しようとしてきた岩手県社会の人々にたいする見方の変化となって現れていました。それらの人々に対しては、かつては何かにつけて怒りと批判の対象になっていました。しかし、徐々にではありますが、厳しい経済的状況や気候変動的状況の中でも自分たちの叡智とわざによって生きつづけるための道を切り開き、踏み固めていた姿に目と関心が向いていくことができるようになっていったのではないかと感じます。

 それは、社会学の関心で見ると、仏国土建設の道を歩むことによる宮沢さん自身の自己形成・確立の過程として捉えることができるように思えます。同時に、そのような社会づくりと社会づくりにかかわりつづけることによる自己形成という関係性を探究していくことは、社会学にとって興味あるテーマであるように感じます。

 宮沢さんの場合、仏国土建設という社会づくりの原点に、つねに、人が明るく生き生きと生きている、さらに幸せに生きている姿を見ることが、自分にとって一番の喜びであり、幸せであるとの心情があったのではないかと思います。そして、そのことが、これまでさまざまに論じられてきた宮沢さんの生きざまとそこから生まれる数々の文学作品を生んできた土台だったのではないかと感じます。

 宮沢さんの自己形成の軌跡が、修羅からデクノボーへ、そして教え導く者から寄り添い、共感することで支える者へという自己形成の軌跡を描くことになった原点でもあったのではないかと考えます。

 そのことで、社会的に孤立し、孤独な存在者としての宮沢さんはどのように変化していったと見ることができるのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんの自己研鑽(修行)の道

 宮沢さんの人生は、阿弥陀仏さんにも匹敵するような偉大な人物にたるために、それからはほど遠い存在でしかない現実の自分自身と闘いつづけなければならなかった人生だったように思えます。それは、「無主義な無秩序な世界」に替えて「新文明を建設」するためでした。

 そのためには、この世界の「一切の現象を自己のなかに包蔵する事」ことができるようにならなければならないと宮沢さんは考えていました。しかも、そのための方法は、「一切現象の当体妙法蓮華経」を唱えることで「世界と我と共に不可思議の光に包まれる」経験を積んでいくことだったのです。

 宮沢さんは非常に繊細な感情のもちぬしだったのでしょう。しかも、とても敏感に人の気持ちを感じてしまうだけでなく、意識的に人の感情を気にし、読もうとしてしまうところがあったのではないかと思います。しかもごく自然にそうしてしまうところがあったのではないでしょうか。

 そのことは、宮沢さんという人間は、人がいまどのような感情でいるのかを察するだけでなく、その人の感情によって容易に傷ついてしまう、ないしは容易に怒りの感情が噴出してしまう人だったように思います。しかも、一方では、そうした自分を責めてしまうところもあったように感じます。ある意味、宮沢さんには(自分一人の力ですべての人を救い、新文明を建設することができると考えるような)傲慢さと(ちょっとしたことでも自分を責めてしまう)自己卑下の感情が同居していたように思えます。

 宮沢さんの詩の作品の中に、「恋と病熱」があります。そしてその作品は宮沢さんの上述のような非常に繊細な感情を映し出しているのではないかと感じます。

 「けふはぼくのたましひは疾み/鳥(からす)さへ正視ができない/ あいつはちやうどいまごろから/ つめたい青銅(ブロンヅ)の病室で/透明薔薇(ばら)の火に燃される/ほんとうに、けれども〔妹〕よ/けふはぼくもあんまりひどいから/やなぎの花もとらない」

 この詩を詠んだとき、宮沢さんは誰にどのような恋をしていたのか、いろいろ推測されているようです。ただはっきりしていることは、そのことで宮沢さんの心がすっかり乱れてしまっていることです。後に、最愛の妹を亡くし、あれだけ悲しみに明け暮れ、嘆いた宮沢さんが、このときは病室で熱病に喘いでいる妹のことさえその苦しみを和らげるように対応するだけの余裕を失ってしまっています。宮沢さんはそうした自分の心の乱れを、忠実に詩にし、すべての人の苦しみを救う者としての自分の心の弱さを率直に表現しているのです。

 そうした自分の心の弱さに向かい合い、見つめつづけることが、宮沢さんの新文明建設者としての自己形成のための道だったのではないかと考えます。その方法が、心象スケッチという方法でした。しかも、その方法は、希望のもてる方法でもあったはずです。なぜならば、見つめつづけるなかで、いつの日か自分は妙法蓮華経を唱えることでこの世界の「一切の現象」を我が心に包蔵することのできる不可思議な光に包まれる瞬間を迎えられるはずであるという確信が宮沢さんにはあったからです。

 そしてその心の軌跡は、宮沢さんにとって新たな仏経典を創造する道でもあったと思われるのです。なぜならば、仏経典の内容のひとつは、いかにして凡夫としての人が悟りの道を歩み、仏となっていくかを記すものであったからです。宮沢さんは不可思議な光に包まれ一瞬にして悟りをえて仏となる瞬間までの自分と自分をとりまく一切の環境世界との交信の記録をとりつづけること、それが新文明を建設することのできる自分に生まれ変わるための自己研鑽の道だったのだと考えられるのです。

 ただそうした目標の実現という点から見れば、残念なことですが、そうした瞬間が訪れることはありませんでした。そのことで、宮沢さんは、自分の心象スケッチを綴りつづけるだけでなく、自分がめざす理想社会である仏国土建設の道を試行錯誤しながら歩んでいくことにもなっていくことになるのでした。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんが向き合わなければならなかった修羅とは

 宮沢さんの人生の軌跡をたどり、その中で宮沢さんの人間性のすばらしさを知れば知るほど、なぜ宮沢さんが自分を「修羅」との自己認識をしなければならなかったのかという疑問があらためて募ってくるのでした。そこで、ここでは、これまでの考察を踏まえて、暫定的な仮説をたてておければとの思いに至った次第です。

 宮沢さんは、そのことを、「春と修羅」の冒頭のところで、次のように著していました。

 「まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ/ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅(しゆら)なのだ」とです。この文章には当時の宮沢さんの苦悩がいかに強かったのかが綴られています。しかも、それはまるで、いかに自分自身がなさけない存在になりさがってしまっているか、そしてそうした自分と闘わなければならないということを自分自身に言い聞かせているようです。

 その苦悩とは、社会学的に見ると、社会的存在としての信条と個としての存在の心情との矛盾についての苦悩であるように思えます。宮沢さんはこのときすでに心友保阪さんとすべてのみじめな衆生を救うとの誓いを交わしていました。そのためには、自分は阿弥陀仏にも匹敵する「偉大」な存在にならなければならないと考えていたのではないでしょうか。そのため、宮沢さんはその自分にとっての理想の自画像と、一方で宮沢さんはまだ自分のことや自分の身の回りのことや人との関係においてさせ、ままならない状態に陥っていたのです。そのことで、宮沢さんは、自分の理想自我と現状とのあまりの溝の深さに懊悩しなければならなかったと推測されるのです。

 宮沢さんは、その自分たちの志を、1918年3月20日ごろの保阪さん宛の手紙の中で次のように著しています。少々長くなるのですが、宮沢さんの当時の思いを確認するためにもできるだけ長く引用しておおくことにしたいと思います。

 「私共が新文明を建設し得る時は遠くはないでせうがそれ迄は静かに深く常に勉め絶えず心を修して大きな基礎を作つて置かうではありませんか。あゝこの無主義な無秩序な世界の欠点を高く叫んだら今度のあなたの様に誤解され悪まれるばかりで、堅く自分の誤った哲学の様なものに嚙ぢり着いて居る人達は本当の道に来ません。私共は只今高く総ての有する弱点、裂罅を挙げる事ができます。けれども『総ての人よ。諸共に真実の道を求めやう。』と云ふ事は私共が今叫び得ない事です。私共にその力が無いのです。

 保阪さん。みんなと一緒でなくても仕方がありません。どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間に深く無上の法を得るために一心に旅をして行かうではありませんか。やがて私共が一切の現象を自巳(ママ)の中に抱(ママ)蔵する事ができる様になつたその時こそは高く叫び起ち上り、誤れる哲学や御都合次第の道徳を何の苦もなく破つて行かうではありませんか」(『【新】校本宮澤賢治全集第十五巻』)というのがその文章です。

 あらためてこの文章を読んでみると、この手紙を書いていたとき、宮沢さんの意気込みと自負心がいかに強かったかを感じます。またそうであれまあるほど、高等農林学校卒業後に自分の進路さえ決めかね、自分が嫌だと感じていた実家の質商の店番をしなければならないような宮沢さんにとってあまりにもなさけないような現状について深く苦悩しなければならなくなってしまったのです。それでは、ますます自分が救いたいと考えていた東北の農民の人たち、とくに貧しい農民の人たちから恨まれ、白眼視されなければならなくなっていくばかりとなってしまうのです。

 繰り返しになりますが、そこには、「誤れる哲学や御都合次第の道徳を何の苦もなく破つ」ことのできる力をもった自分の自己像と現実の自分とのあまりにも大きなギャップが存在しています。そのギャップをうめていくこと、それが、当時の宮沢さんに課せられた自己形成のための大きな課題だったのです。

 宮沢さん自身その課題を自覚し、先に引用した文章の中で、自分はいまから「無上の法を得るために一心に旅」をすると表現していました。この一心の旅を悟りに向けた旅とすると、宮沢さんが目指した方法は非常にユニークだったと思われます。なぜならばその悟りをえるための修行法が既成の宗教者のそれとは異なる新しいものだったからです。

 まず何をめざして修行するのかということですが、「一切の現象を自己のなかに包蔵する事」です。そのために、宮沢さんは、はじめに自然科学を含む既成の学問分野の知識をすべて自分のものとすることを考えたのではないかと推測します。すなわち、勉強することが修行だったのです。しかし、それは、高等農林学校までしか進学できなかったことで早々に断念しなければならなかったのです。

 そこで次に考えた方法が、働き生計をたてながら、自学するという道ではなかったと思います。しかし、これも父親の認めるところとならず、断念しなければならなくなります。その結果が、自分が嫌っていた実家の質商のための店番をするという状況に陥ってしまうことになったのです。

 しかし、宮沢さんにはまだ道は残されていました。それは、法華経を我がものとすることです。宮沢さんによれば、法華経には、過去、現在、そして未来を含めて「一切の現象」とその真理が存在しているのです。宮沢さんは言います。「万物最大幸福の根原妙法蓮華経」、「一切現象の当体妙法蓮華経」とです。

 そして、この法華経を唱えるとき、宮沢さんは「一切の現象を自己のなかに包蔵する」ことができるものと信じていたのです。先述の同じ手紙の中で、保阪さんに向かって次のように呼びかけています。

 「保阪さん 私は愚かな鈍いものです 求めて疑つて何物をも得ません 遂にはけれども一切を得ます ……南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです あゝその光はどんな光か私はしりません 只斯の如く唱へて輝く光です」とです。

 宮沢さんは法華経を唱えるとき、不可思議な光が世界の一切の現象と共に自分を包み込み、そのことによって自分は「一切の現象を自己のなかに包蔵する」ことができるようになると信じていたのです。その資格と力が自分にはあるとも信じていたのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「産業組合青年会」考(2)

 これまでずっと、宮沢さんの詩の作品であると言われてきた「産業組合青年会」という作品をどう理解したらよいのか疑問に思ってきました。それは、この作品には、私自身にとっては全く無関係に思えた二つの内容が存在しているからです。その二つの内容とは、以下の文章です。

 一つ目は、「祀られざるも神には神の身土があると/あざけるやうないつろな声で/さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ」という部分です。二つ目は、「部落部落の小組合が/ハムをつくり羊毛を織り医薬を領ち/村ごとのまたその聯合の大きなものが/山地の肩をひととこ砕いて/石灰岩末の幾千車かを/酸えた野原にそゝいだり/ゴムから靴を鋳たりもしよう」という部分です。

 そしてこれら二つの部分の関係については、「しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半/祀られざる神には神の身土があると/老いて呟くそれは誰だ」とあるのですが、この文章だけでは、「老いて呟」いている思いと「熱誠有為な村々の処士」への思いとはどのように関係しているのかについては全くわかりませんでした。

 この疑問を和田さんがご自身の著書『続・宮沢賢治のヒドリ――なぜ賢治は涙を流したか』の中で私にも理解可能な内容で解説してくれていたのです。この本に出合えたとはなんと幸運なことなのでしょうか。

 和田さんによれば、一つ目の文章に関わる意味は、「神仏分祀社格によって合併、廃社する……そのことへの応答がこのように現れている」と推察できるのです。二つ目の文章に関しては、

 「『処士会同の夜半』は集まった『産業組合』の若者が村で農業に従事している実直な青年を指しているのであろう。一般には処士は仕官などしない人。道家思想などの無為自然を求め隠棲する隠士に対置する。ここでは青年会で活動する青年への敬意を表すことばとしたのであろう」と推察できるのです。

 そうした和田さんの解説を読むと、宮沢さんは、産業組合青年会の場で、心にあったことは、当時の国家官僚・エリートの人たちに対する憤りだったことが理解できます。当時の国家官僚の地方の人たちを見下し、蔑視し、差別する意識に抗う宮沢さんの感情を感じます。

 社格が低いといって廃社し、世界恐慌や冷害によって苦しんでいる東北農民を悪者扱いしたりする国の政策に抗しがたい憤りが噴出しているのを感じます。「祀られざる神には神の身土がある」のです。

 そうした状況の中でも、お互い支え合って自分たちの生活を再建しようとしている農業青年たちへ敬意を払い、エールを送ろうとしている宮沢さんの気持ちを感じます。この作品には、それまでの宮沢さんとは違った宮沢さんがいます。

 和田さんの解説に出会うまでは、宮沢さんは、自分を理解せず、白眼視さえしている地域の農民たちに対し、詩作を通して怒りや苛立ちの心情を著してきたのではないかと思ってきました。そうした思い込みもあってなのでしょう、これまで「産業組合青年会」の作品を理解できないできたのです。

 和田さんは、さらに、ここで参照している彼の著書『続・宮沢賢治のヒドリ――なぜ賢治は涙を流したか』の中で、宮沢さんが駅前派出所の前で「モラトリアム」を絶叫したエピソードを紹介しています。それによると、宮沢さんは、

 「『いま岩手県を救う道はモラトリアムをやることです』と大声をあげる。年譜(堀尾青史編)昭和六年七月十日の項にある。いっしょにいた小原弥一が問い返すと『岩手県は(農家は)謝金だらけです。その借金を返さないことなんです』と説明をはじめ、その声があまりに大きいので駅前派出所の白鳥巡査がとびだして」きたと言います。

 世界恐慌や冷害によって苦しんでいる自分の身近な東北の農民の人たちを必死になって、自分の命を削っても何とか救おうと奮闘してきた宮沢さんの心の叫びが、「いま岩手県を救う道はモラトリアムをやることです」という叫びだったのでしょう。その叫びは、自分の力だけでは何ともならない悲惨な社会的状況というものがあり、それは社会的にしか救済できないことへの意識化の表明でもあったように感じます。

 とくに、当時の国の東北の農民の人たちの惨状への応答はどうあらなければならないかについての、宮沢さんの抑えようとしても抑えきれない思いの表明でもあったのではないかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「産業組合青年会」考(1)

 多くの人に慕われ愛されていると言っても、空海弘法大師)さんと宮沢さんには大きな違いが存在しています。空海弘法大師)さんの場合、生前からときの権力者の人たちにも慕われ、何かと頼りにされていたようです。それに対して、宮沢さんの場合は、生きている間は、宮沢さんが属していた社会階級的属性と自身の奇人的・変人的行動によって宮沢さんの志が身近の人たちからさえも理解されていたとはとても言えない状況だったものと推察されるのです。

 とくに、宮沢さんが心を寄せ、救い・支えたいと願っていた貧しい農民の人たちから慕われ、愛され、何かと頼りにされるということは、一部の人たちを除いてはなかったと言われてきました。むしろ反対に、羨まれ、嫉妬され、嘲り、蔑まれていると宮沢自身が大いに悩まざるをえない状況だったのではないでしょうか。社会的孤立と孤独感の中で宮沢さんは、貧しさとその上さらに次々と襲ってきた自然災害の被害によって当時苦しんでいた同じ地域の農民の人たちを何とか救いたいと奮闘していたのです。

 そうした自他の認知上の大きなギャップを抱え込みながら、なお宮沢さんは当時の地域の、とくに農民の人たちに寄り添い、何とか窮状を救いたいと願いつづけていたのです。そこに宮沢さんの悲哀と、しかしなお偉大さが示されているように感じます。そうした宮沢さんの心情を理解しようと努め、宮沢さんがいかに農民の人たちに寄り添い、共感しようとしていたのかを探究しつづけている方が、これまでも何度か参照してきた和田文雄さんなのではないかと思います。

 和田さんは、そのことを、なぜ宮沢さんは「ヒドリのときに涙をながさなければならなかったのか」という問いを探究することによって証明しようとしてきました。そしてその結論として、当時の日本農本主義、それにもとづく東北農民の「匡救」という救済政策、そしてその政策を立案・作成した国家官僚・エリートに対する強烈な批判意識が宮沢さんに存在していたというものです。和田さんは主張します、

 当時の国家官僚・エリートの人たちの「昭和の農業恐慌や冷害被害に苦しんだ東北の農業・農家・農業者を匡して救うという思いあがりはとおらない。匡は型にはめて型どおりにすることで、もとは、『其の悪を匡救す』である。冷害や世界の経済不況、国内の統治の不全が農家農業に農村疲弊をもたらしたので、それがどうして農家の悪となるのか、匡救の土木工事の手間賃を貰ったら、役場の人に未納の税金を差し引かれたと、病人を抱えた農家の主婦が訴えた事実が残っている。それがヒドリの実態である。このときながす涙を賢治さんは『ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ』と書きのこした。その人たちの姿こそが雨にも、風にも負けない百姓の勁(つよ)い姿なのである。この姿に目をそむける人がいる。だが、なが年、耕した人の語り伝え、古老たちが相い伝えてきた旧聞をしらべよと命じ、またそれに忠実であった人々の努力のあとを常陸国風土記に見ることができる」(和田文雄『続・宮沢賢治のヒドリ――なぜ賢治は涙を流したか』コールサック社、2015年)のですと。

 当時の東北農民の「恐慌や冷害被害」による痛みや苦悩は、自分たちが招いた痛みや苦悩であると悪者あつかいする国家官僚・エリートの人たちに対する憤りと、悪者扱いされている東北農民の人たちへの限りない宮沢さんの共感があったのだと、この和田さんの文章は伝えています。また多くのことを和田さんから学びました。感謝です。

 そうした和田さんの考察に接したことで、これまでそれをどのように理解したらよいかについて分からなかった宮沢さんの作品をどのように読んでいけばよいのかについてもその方向性が見えてきたように感じます。その作品とは、「産業組合青年会」です。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

人に寄り添い、見守ることで支えるという生き方(2)

 空海弘法大師)さんと宮沢さんのすごさを、両者が自分の死んだあとでも、すべての人を痛みや苦しみから救ってあげたいと願い、そのための具体的な行動をとっていたということに感じます。

 それは、空海弘法大師)さんであれば、京都の東寺の五重塔の建立ですし、宮沢さんであれば、花巻と盛岡を囲むように連なって林立している山々に法華経を埋め込む埋経という行動です。それらは、空海弘法大師)さんと宮沢さんのすべての人を救いたいという願いを具体的な形にする社会的装置だったのです。

 京都にはこれまでも何度か足をはこんでいます。また、そのときは、東寺にも行きます。なぜならば、当時は京都駅に近いこともあって宿泊先からの朝の散歩コースの一つになるからです。終活を考えるようになり、その一環として宮沢さんに関心をもつようになる前は、東寺における建造物やそこに安置されている仏像の意味をあまり考えたことはありませんでした。

 東寺の建造物や仏像を見ても、歴史的にも古くかつ巨大なことで、本当にすごいなという感想をもつことがせいぜいでした。また社会学者の目で見たときには、それらは、社会的権威を誇示するためのもの以外のなにものでもないと思っていました。

 社会的権威とは、権力やお金、そして名声などを資源として、他の人たちを圧倒し、自分たちが行っていることの正統性を納得させ、支配する社会的規範です。しかし、宮沢さんに関心をもつようになってから、人々から心から信頼され愛されることも社会的権威の資源ではないかと考えるようになってきました。しかも、それらの資源こそ、社会的権威を持続可能なもの、永続的なものにするのではないかと考えるようになってきました。

 さらに、人々からしかも心から信頼され愛されるためには、人々の期待や願い、思いを裏切らないで応じてつづけていくことが重要になるでしょう。しかし、それは凡人には非常に難しいことなのではないかと思います。なぜならば、すぐに、どこかで、人々の期待や願い、思いを何らかの形で裏切ってしまう存在が凡人だからです。すなわち社会的権威は、容易にその化けの皮が剥がれるものなのです。

 でもそれでもいいのです。なぜならば、誰にとっても完ぺきで完全な人(この世に存在しているすべてのものを幸せにできる存在)はこの世には存在しないからです。しかし、あの世に入った人はそのことを限りなく可能とすることができるようになるのかも知れません。

 なぜならば、死んでしまった人の存在は限りなくリ理想化されるか、限りなく悪者化されるか、いずれにしてもそれまで生きてくる中でのさまざまな人生上の出来事の枝葉がそぎ落とされ、その人物の幹の部分が象徴化される形で後の人々に受容されていくからです。

 空海弘法大師)さんや宮沢さんの社会的受け止めもそうした象徴化された受容となっているのではないでしょうか。すなわち、生涯すべての人を痛みや苦しみから救いたいと願いつづけ、行動しつづけた人であるとです。

 そうした象徴化を促す働きをするものが上記の社会的装置なのではないかと、社会学的には考えます。最近京都歴史探訪というBSのテレビ番組を見ました。それは、空海弘法大師)さんの生誕1250年の記念番組で、東寺と高野山をめぐり、空海弘法大師)さんの人物像を浮かび上がらせようとするものでした。またまた、大いに勉強することになりました。

 その中で、とくに東寺の五重塔の開設に目を開かせられたのです。東寺の講堂にある巨大な仏像群は「立体曼荼羅」を表しており、視覚的に仏の教えを広めるためのものであると紹介されていました。

 それに対し、五重塔は、その壁面は東西南北の方向を向き、それぞれに異なる仏像が配置され、すべての人を痛みや苦しみから救うべく寄り添い、見守り、祈りの「電波」を送りつづけるためのものだと言うのです。

 何と言うことでしょう。空海弘法大師)さんは、自分の死後もすべての人を救うための活動をしつづけるための社会的装置を建設・創作していたのです。宮沢さんの法華経の埋教もそれと同じ願いがこめられていたのではないかと感じています。

 

                 竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

人に寄り添い、見守ることで支えるという生き方(1)

 前回、空海弘法大師)さんと宮沢さんの生き様に共通するもの、それは、人の痛みや苦しみに、「寄り添い、見守る」ことで支え、心からそれらの痛みや苦しみから救ってあげたいという思いがあり、そのための行動をとるという生涯をおくったということではないかと述べました。

 しかし、自分一人だけの面倒を見て生きていくだけでもいっぱいいっぱいになってしまうような(とくに精神生活面で)余裕のない生活状態を余儀なくされてしまう現代社会では、そうした他者との関係性を築いていくことは非常に困難なことなのではないでしょうか。例えば、夫婦、親子、兄弟など同じ家族同士の間でもそのような関係性を創ることは難しいと言わざるをえないように感じます。

 今どきは、テレビニュースで、親子、夫婦、恋人間の殺人事件に関するニュース報道を目にしない日がないという状況となっています。老々介護の末、かつては愛し合っていたであろう相手を殺害してしまうというような報道に接すると、とてもいたたまれない気持ちになります。

 現代社会の中ではお互いの気持ちに寄り添い、共感しあって共に生きていくことがいかに難しいことになっているのか、それらの社会的悲劇の噴出が示してくれているように思います。

 むしろ、人間関係における気持ちの働く傾向性が、お互い相手をいかに自分の思い通りに動かすか、または動いてもらうかということになっているのではないでしょうか。「思いやり」という精神は現代社会の中では、「僥倖」の人間関係と言っても過言ではないのかも知れません。

 寄り添い、見守り、共感し合うことによって生まれる人間関係の反対が、支配・被支配の人間関係です。それは、身近な、例えば友人、恋人、そして家族という人間関係の中にも容易に生じる人間関係です。それだけ、現代社会においても、手っ取り早く相手を自分の思い通りに動かしたいという誘惑がいたるところに存在しているのです。精神科医信田さよ子さんは、身近な人間関係におけるそうした関係性を、「コントロールゲーム」と呼んで、さまざまな警告を発しています。

 それでも、不特定多数の、痛みや苦悩を抱えている人たちに寄り添い、見守ることで支えようとする人がいるのも人間世界のすごいところではないかと感じています。その例は枚挙にいとまないくらい存在しています。

 その中で、「夜回り先生」と呼ばれている水谷修さんという方の活動にずっと惹かれるものを感じてきました。なぜならば、水谷さんの「夜回り」の活動こそ、寄り添い、共感し、見守ることで痛みと苦しみを抱えている子どもたちを支える活動そのものではないかと思ってきたからです。

 その活動は、さまざまな理由でこの世界のどこにも自分の居場所を見つけることができず、寂しさを抱え、夜の繁華街にたむろせざるをえない子どもや若者たちに寄り添い、求められれば、いつ何時でも相談に応じるという活動なのです。そのため、水谷さんは夜に一度も寝たことがないというのです。

 その文献が何であったかわからなくなっているのですが、その水谷さんの活動を紹介した文章を読んだことがあります。そのには、水谷さんは教師ではなく、神そのものであると評されていました。自分もそう感じます。

 水谷さんは夜回りをしながら、痛みと苦しみを抱え自分の居場所を失っている子どもたちにどのようなことばをかけているのだろうかと思っていましたが、図書館で、『こどもたちへ 夜回り先生からのメッセージ』という本に出合うことができました。その本の中で、水谷さんは自分の活動について次のように記しています。

 「いつも夜の街を歩き回り、路上で見かけた子どもたちに声をかけています。それは、『子どもたちを救うために』などという大げさな理由ではなく、ただ黙って子どもたちのそばに立ち、彼らの話をゆっくり聞くためです。子どもと話すことが好きで、私にとっての〝夜回り〟は私と、夜の街に沈んでしまいそうな子どもをつなぐ細い糸です」とです。

 人を救いたいとの思いで生涯を駆け抜けてきた宮沢さんも、最後に行き着いた境地は、水谷さんと同じで、苦しんでいる人に寄り添い、見守ろうということではなかったかと、この水谷さんの文章を読んでいて感じるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン