シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

社会学の目

 現代社会の中で明るく、生き生きと、そして周りの人たちも明るく笑顔にしながら生きている人を発見する旅は、社会学の目を携えての旅にしようと思います。それは、現代社会の中でそうした生き方をしている人がいるということを、その人個人の資質や力という観点からではなく、より多くの人たちにそうした生き方をすることを促すことができるという社会の性質や力に注目したいからです。社会学は、自殺など一見すると個人的な事情によって起こると見られがちな出来事も、私たちが生活している社会の性質や力が大きく作用しているというようにとらえる学問です。そうした社会学の目で、私たちをより生き生きと生かしている社会の発見を行っていければと思います。

 エーリッヒ・フロムの次の一文はそうした社会学の見方を分かりやすく示してくれています。フロムは言います。個人の「精神の健康は、個人の社会への『適応』という意味では定義できない。反対に社会が人間の欲求にどのように適応したか、つまり精神の発達を促進したり、妨害したりする社会の役割によって定義されなければならない。個人が健康であるかどうかは、まずなによりも個人的な事柄ではなくて、その社会構造に依存している。健康な社会は、仲間の人間を愛し、創造的に働き、理性と客観性を発達させ、自分の生産力の経験にもとづく自我の感覚をもつように、人間の能力を助成させる。不健康な社会とは、相互に敵意と不信とを生じさせ、人間を他人が利用し、搾取する道具に変え、他人に服従するか、自動人形にならないかぎり、人間から自我の感覚を奪ってしまう社会である」と。

 「健康な社会」を発見することがシニアノマドの旅の目的です。では、なぜ「健康な社会」を発見することを目指そうとしたのでしょうか。これも、教員時代の社会学の授業での経験に理由があります。あるとき学生から社会学は暗い学問ですねと言われたことがあります。なぜ今の社会は問題だらけかのような話ばかりするのですかと。確かに社会学現代社会論を、ざっと見れば、学生の言うことも当たっているかもしれません。格差社会論、リスク社会論、排除型社会論、個人化と自己責任の社会論、社会的無縁化と社会的孤立の社会論などなど。それらの社会論は、現代社会が「健康」ではないと言っているようです。

 それは、先にも述べたように、社会学は私たちが生きている社会が「健康」か「不健康」かを診断する学問だからです。そして、「不健康」という診断を下したらどこに原因があり、どのような問題症状が起きるのかについて明らかにしようとします。そのことで、自分たちが生きている社会改善を図って行けると考えているのです。しかし、学生によれば、現代社会がそんなに病んでいるならば、自分たちが何とか治してあげようというような気持にはならないというのです。そうした気持ちになる以前に、暗い気持ちになり、生きるためのテンションが大きく下がってしまうと。社会学を学ぶことで、生きるためのテンションが下がり、社会に出ていこうとする意欲がなくなっては元も子もありません。現代社会にも学生たち若い人たちが生きるためのテンションがあがり、明るく元気になるような「社会的事実」はないか、何としても探し出していかなければならないと感じました。

                 

                 竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン