シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人間の居場所を求めて

 これまで、できれば常に精神的にゆとりをもち、心おだやかに、温かい気持ちで生活したいと願ってきました。ただ残念なことにそうしたことを実感することはほとんど出来ませんでした。

 現代社会を生きていると、常に何かに追われ、急き立てられるような気持と漠然とした不安を抱えながら生きなければならないことを、これまで痛感してきました。目の前にニンジンをぶら下げられ、ムチうたれることでただやみくもに疾走している馬のように、自分の意志・意思とは無関係に、日々何かをせずにはいられないような衝動に突き動かされながら生きてきたような気がします。自分自身を生きているという実感をもてていなかったような気がします。そして、生きていること自体に非常に疲れを感じる毎日だったように思えます。

 ではなぜ現代社会の中では、精神的にゆとりをもち、心おだやかに、温かな気持ちで生活することが出来ないのでしょうか。自分自身を生きているという実感をなかなかもてないのでしょうか。

 現代社会においては不確実性と不安定性という社会的リスクが増大しているからであるというのが、ポーランド出身の社会学ジグムント・バウマンさんのそれら問いに対する回答です。不確実性・不安定性のリスク社会という現代社会においては、私たちは安心感・安全感の得られる自分の居場所を見つけることが出来ないと、バウマンさんは言うのです。

 現代社会は、まさに、「人間社会における人間の居場所の特徴となっている安定感の欠如、脆さ、不安定さ、不確実性によって」、「物事が有する永続性への日々の基本的信頼が、まさに日々の人間の経験によって裏切られている」のです。

 そして、この安心・安全・安定感をもたらしてくれる「人間の居場所」の欠乏は、私たちが、「競争力、そして、『自由競争』による最も高い利益の追求を、適切な行動と不適切な行動、正しい行動と誤った行動を区別するための中心的な(独占的でさえある)基準の地位にまで祭り上げた」ことによって起こっているというのです。

 そして、現代社会における不安定性・不確実性のリスクが私たちにもたらすものとは、「とりわけ気力をそぐ、憂鬱なものと感じられている」精神性であると、バウマンさんは言います。この「現象は、地位、資格、生計の不安定性…、生活の継承と将来の安定性に関する不確実性…、自らの自我、そしてその延長――財産、近隣、コミュニティ――の安全性の欠如…が結びついた(私たちが日々感じている)経験」[( )内は引用者による]。

 「自らの自我、そしてその延長」には、家族の存在を入れる必要があるでしょう。その上でさらにバウマンさんは、不安定性・不確実性のリスクは、私たちの精神性に、「過去を忘却し、現在を軽んじ、未来を恐れる傾向」をもたらしていると言います。

 こうした性質をもつ現代社会において、日々生き生きと生きている人に出会う旅とは、社会学の目で見れば、私たちが日々精神的にゆとりをもち、心おだやかに、そして温かに暮らすことを促してくれる「人間の居場所」探しの旅と言うことができるのかも知れません。さらに言えば、その旅は、あらためて私たちが生き生きと生きる上で地縁・血縁という社会関係がもっている可能性を探求する旅ではないかと思うのです。

 ただ地縁・血縁という社会関係が、常に、どこでも、誰にたいしても、安全・安心を与えてくれるものではないということは当然です。これらの社会関係にも、他の社会的諸関係と同様に、一方で、諸個人間の協力・協働、支え支えられるという互恵性という側面があり、他方では、位階制と上下の関係構造をもち、個人を支配し、個人の自由を抑圧するという側面があると意識されてきました。

 とくに個人の自立と自由に非常に高い価値をおく現代社会においては、地縁・血縁という社会関係は、古く、時代錯誤的なものと見なされるのかも知れません。またその社会関係は個人を束縛し、個人の自由を奪うものと認識されてきたのかも知れません。さらに、その社会関係は往々にして社会的不公正や不正の温床となってきたものではないかと考えられもきたと言えます。

 しかも、個人化の進む現代社会においては、地縁・血縁の前者の側面は消失してしまったと見られてきました。愛情という親密な感情によって結ばれていると期待される家族関係においてさえ、個人を支配し、個人の自由を束縛・抑圧する側面が目立つようになってきているように思えます。そうした状況の中で、果たして、「人間の居場所」と言われるような地縁・血縁の形を見つけることはできるのでしょうか。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン