シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

意味ある人生をおくる道を探す旅

 現在世界中が新型コロナ禍にあり、生き生きと生きている方々に出会う旅をすることが非常に難しい状況にあります。無理をすればできないことはないのかもしれませんが、できれば出会う人と気持ちよく出会い、話を聞きたいなと思うのです。少し実際の旅は自重しようと思います。そこで、しばらく、想像上の、または仮想空間上の旅をつづけたいと考えてみました。

 その旅とは、宮沢賢治さんの人生の旅を追体験する旅にしようと思います。なぜならば、宮沢賢治さんこそ、想像上の、または仮想空間上の旅人と言えるのではないかと思うからです。そしてその旅のテーマは、「意味ある人生をおくるための道を探す」です。それは、宮沢賢治さんは、どうしたら自分は意味ある人生をおくることができるのかという問いに真摯に向き合い、悪戦苦闘してその道を求めた人物であると考えるからです。そろそろ終活の時期を迎えている自分には相応しいひとつの旅の形かなと感じます。

 ところで宮沢賢治さんはどのような人生をおくった人なのでしょうか。そのことに関しては、言うまでもなくこれまでさまざまな分野のさまざまな人たちにとって紹介されてきています。それだけ宮沢賢治さんは、多くの人から愛され、注目されてきた人なのだなと感じます。また彼の人生や作品は思わず論じてみたいと惹かれてしまうような魅力あるものなのだろうなと想像します。

 しかし、そのため宮沢賢治さんの人生を理解しようとすると、多大な難しさも感じます。まず文学者であったことで、文学に通じていなければなりません。さらにその文学の基底には彼個人の特異な感受性があったと言われています。そのため、人間の心理や精神医学的な知識も求められるかもしれません。また宮沢さんは幼少期から仏教に親しみ、精神的に自立・自律する時期に法華経に出会い、その後法華経の教えに従って人生をおくった人でもあります。それだけでなく、人生を終えなければならないと覚悟した時期には、法華経を社会に広めることが自分の生きる目的であったと振り返っています。そのため宗教学、とくに仏教に通じている必要もあるのではないかと考えます。

 残念なことに、宮沢さんの人生の旅を追体験したいのですが、それら3つの分野に全く不案内な自分であることを感じざるをえないのです。そのためこれまで通り、社会学の目を通して宮沢さんの人生を追体験してみようと思います。繰り返しになりますが、社会学は社会と個人との関係性に着目します。同時に生活の中の人間関係のあり方に注目します。

 そこで以下の3つの側面に注目して、宮沢さんの人生を追体験していきたいと思います。ひとつの側面は、宮沢さんが生きた時代と社会の状況はどのようなものであったのかというものです。二つ目の側面は、その時代と社会を宮沢さんはどのような心的態度によって生きようとしたのということです。時代と社会状況と心的態度のぶつかり具合や葛藤などが体験の主題になるのではないかと考えます。そして、三つ目の側面は、宮沢さんはどのような人間関係の中で生き、そして生きていく中でどのような人間関係を形成し、築いていったのかということになろうかと思います。

 早速それら3つの側面に着目しながら、宮沢さんの人生の追体験の旅に出発してみようと思います。旅の出発点として、宮沢さんが生きた時代と社会における宮沢さんの社会的位置の確認をすることから始めたいと思います。宮沢さんはイーハトーヴ社会に生きたひとです。では宮沢さんはそのイーハトーヴ社会でどのような社会的位置を占める人だったのでしょうか。この点に関しては、宮沢賢治さんに関する最も厳しく、批判的な議論を行った論者の一人である吉田司さんの指摘を取り上げようと思います。吉田さんは『宮澤賢治殺人事件』の著者の方です。その本の中で、吉田さんは宮沢さんの社会的属性に関して次のような指摘を行っていました。

 「『花巻では、宮澤一族は〝肺病一族(ハイマキ)〟といわれていた……』

 ハイマキはこの地方の『差別語』であり、宮澤一族にとってぬぐい難い汚名、烙印(らくいん)となった。こ~して花巻の金持ち階級の栄光とハイマキの悲惨、愚劣、修羅(=人間以下)としての対立、その光と闇(やみ)の乱反射が、宮澤賢治の生涯をいっそう謎(なぞ)深く難解なものにしているといって良い」というのです。

 何と辛辣な指摘でしょう。想像するに多くの宮沢賢治論者は、そうした事実を知っていたとしても、そのことをクローズアップすることはなかったのではないでしょうか。なぜ吉田さんはそのことを主題にしようとしたのでしょうか。関心をもたれた方は吉田さんの前掲書をお読みいただければと思います。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン