シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さん実業家をめざす?

 宮沢賢治さんの人と作品を紹介する著作物は膨大な数に上りますが、その中の本の少しのものを読んだだけでも、宮沢さんが実業家になる夢をもっていたのではないかということに興味が惹かれます。そしてその夢が実現していたら宮沢さんはどのような人生を歩んでいたのだろうか考えるだけでワクワクします。

 例えば、吉田司さんの本に掲載されている宮沢さんに関する年表に、「実業団有志で構成された『東海岸視察団』に加わり、釜石などの産業状況を見学」とあります。当時宮沢さんは高等農林学校の学生であり、21才でした。

 同年表によれば、さらに宮沢さんが23才のとき、「父に東京で職業を持ち、人造宝石の製造販売をしたいという希望を手紙で表明し」ています。しかし、その希望は父親に受け入れてもらうことはできませんでした。堅実な商人であった父親の目から見ると、宮沢さんの希望は危なっかしいもののように考えたのかもしれません。

 しかし宮沢さんの「人造宝石の製造販売」という職業構想は単なる安易な思いつきという性格のものではなかったと考えられるのです。宮沢さんは小さいころから「石っこ賢ちゃん」と呼ばれていた位に自然石の採取と研究に強い興味をもっていました。そして、高騰農林学校研究科の時期には、さらに単なる研究という性格を越えて実業家になるための研究にのめりこむように取り組んでいたのではないかと思われるのです。

 このことに関して、宮沢さんの祖母と義兄弟となる父をもつ関登久也さんが著した『宮沢賢治物語』の中に次のようなエピソードとして紹介されています。それは、「花巻市に居住されている歯科医の金野英三さん」の宮沢さんの思い出に関する文章です。

 「宮沢君は鉱業方面の問題に就いては、常に私の好い相談相手であった。

 花巻の呉服屋に大津屋という老舗がある。此店ではかつて呉服の側ら砂金を商っていたが、当時猿ヶ石川方面から買い集めた砂金には、白い物が混入しているので、上ぼせ(東京方面に売る)に値安になるので、幾らか安く買わねばならぬということであった。

 此事を聞いた同君の明敏な頭脳には、何かピンと響いたのである。早速、其砂金を手に入れて、先ず検鏡をしてみたところが、砂金粒の中に光輝さんぜんたる白色の金属がまじっていることを発見した。これは結晶並びに分析の結果、イリジユウムとオスミユウムとの合金のイリドスミンと称する貴金属であった。君は至って活淡な方であったけれども、事物の研究とこうした資源の開発に対しては極めて熱心で、それから此種の砂金の採取せらるる河川の流域の岩石の研究に夢中になつた」のですと。

 そうした金野さんの思い出を参照にしながら関さんは、もし宮沢さんがよい社会的機会に恵まれていたら有力な産業開発者となっていたかもしれないと推測しています。「岩手県にイリドスミンのあることを初めて発見したのは、実に賢治であります。金野さんの言われる如く、地質や鉱業方面にも造詣(ぞうけい)の深かったことは、これはまぎれもない事実で、もし賢治が今も世にあったなら、近年問題になりつつある岩手の開発事業に、大きな力をつくしたことだろうと思われます」と。

 このような知識や関心、そして熱意もあった鉱業方面の起業を父親の許しが得られないという理由だけで、なぜ宮沢さんは全く行動にうつすことなく断念してしまったのでしょうか。一般的には封建的で家父長的な父親の力に屈したというように見られてきたのではないかと思います。これまで参照してきた岡田さんも次のように論じています。

 「就職の問題については父ともしばしば語り、妹の看護に上京した時にも、家業の転換として長男である自分の職業をあれこれと探索してはいたが、結論は出なかった。父との対立の中で、いかに調和を望むにしても、もどかしいほど無力な二十五歳の賢治である。常に自己を家の一員としてとらえているのである」のですと。

 しかし宮沢さんの父親ほど宮沢さんを愛し、評価し、支え、そして応援した人はいなかったのではないでしょうか。病弱な宮沢さんを、何かあったときに助け、支えるために自分の身近においていたかったのではないかと考えます。宮沢さんもそのことを痛いほど感じていたのではないかと思います。

 社会学的に見ると、父親以外に宮沢さんの才能と夢を理解・評価し、励まし、応援する人が、その時は亡くなっていた妹さんを除いては全くいなかったということこそ、宮沢さんが自分の夢を追いかけるという決断をしきれなかった要因なのではないかと推測できるのです。人生の重要な決断の際、自分の理解者・応援者がいるかどうかは大きいのではないでしょうか。

 「エール」というNHKの朝ドラで、福島の呉服屋の跡取りで音楽家を目指す主人公には、父親以外に主人公の才能と夢を評価し、応援した人が存在していました。後に人生上のパートナーとなる人と小学校時代の恩師や友人たちがそうした人たちです。残念なことに宮沢さんにはそうした人物はいなかったのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン