シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

信仰と世俗倫理・人情(3)

 宮沢さんの人生の歩みを社会学の目で見ると、信仰と家族との関係も重要なテーマとなるように思います。宮沢さんの人生の歩みを少しでも理解するために仏教関係の本を読みながらそのテーマの重要性に気づくことになったからです。

 個人的な理解になりますが、仏教には親・兄弟・姉妹よりも仏(および師)の教えに従うこと、そして苦しむ人たちの救済と幸福祈願を優先する哲学があるように思えます。そうした哲学を信仰することが、他の家族メンバーや自分の自然感情とどのような衝突や葛藤を生み出すのか、社会学的興味に惹かれます。

 再度道元さんに登場していただくなら、彼は、「父母のため、師匠のためなどと恩愛の道に執(とら)われて、無益なことをして、徒(いたずら)に時を過ごして、仏道の修行をさしおいて、空しく時を空費してはならない」との教えを強調したと言います。

 親鸞さんは、「父母のために念仏を称えたことはない」のだそうです。『親鸞 救いの言葉』の著者である宮下真さんはその理由を次のように解説します。

 「すべての生あるものは、みな死んでは生まれ変わること(輪廻転生:りんねてんしょう)をくり返しているあいだに父母、兄弟ともなる縁が生じている。いずれもみな自分が仏に成ったときには平等に救うべき人たちなのだ。一切のいのちは大いなる縁でつながりあっていて、父母だけが特別なのではない。まして念仏というのはこの世を生きる者のために仏から届けられたものであって、亡き人の追善供養に利用するものではない。だから孝行のためにと念仏を称えたことは一度もない」のですと。

 さらに、「亡き親も仏に護られていると安心するなら念仏を称えてもいいではないかと、という凡人の考えをエゴだときっぱり否定するのもまた親鸞」さんなのです。こうした仏教における家族関係に関する倫理は、血縁関係にある者へ特別の感情をもち、優先してしまう人情や祖先崇拝という習俗をもつ日本人の生活倫理と衝突し、ときには激しい葛藤を引き起こさせるのではないでしょうか。

 事実、宮沢さんは、自己の世界観形成の過程においても、お互いに支え合い、磨き合ったであろう妹のトシさんが亡くなったとき、その感情の衝突・葛藤を経験することになります。宮沢さんは、そのためトシさんが亡くなったあとの「喪の仕事」に相当の時間を要しています。すべての人の幸福と救済をめざすことは、ことばとしては簡単かもしれませんが、感情的には非常に高いハードルが存在していると言えるのではないでしょうか。

 また宮沢さんは、輪廻転生論から、ただ単に人間にだけ憐れみと平等意識をもっただけでなく、命あるすべてのものに憐れみと平等意識をもっていたと言われています。そのことが宮沢さんの食生活に大きな影響を与えたのです。

 そのことに関しては、松岡幹夫さんが自著『宮沢賢治法華経 日蓮親鸞の狭間で』の中で宮沢さんの「共生倫理」として体系だって論じています。このテーマに関心のある方は松岡さんの本を参照していただければと思います。

 松岡さんは、宮沢さんは「食べられる動物等への同情心にあふれていた」とし、友人の保坂さんへの次のような手紙を紹介しています。「私は春から生物のからだを食ふのをやめました……。もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。……一切の生あるもの生なきものの始終を審に諦(つまびら)かに観察したら何か涙でないものがありませうや」というのがそれです。

 このことから松岡さんは、宮沢さんは「過去世に自分もまた動物だったと信じ」ていたのではないかと推測するのです。その上で松岡さんは、宮沢さんの人物像と思考構造に関し重要な指摘を行います。

 「賢治がベジタリアンになったのは、自分と食べられる動物との一体化感情のゆえである。そこでは、まず〈自己〉への執拗な関心があり、その〈自己〉が無限のつながり――大乗仏教でいう『縁起』の世界――の中であらゆる他者へと拡散し、食べられる動物にも涙する自分となっていく。これが賢治の思想構造である」というのがその指摘です。

 松岡さんは言います。「賢治の一生は他者に尽くし抜いたイメージで彩られている。『賢治ボサツ』と呼ぶ人もいるという。しかし、私は逆に、賢治ほど自分のことばかり気にして生きていた人も珍しいと思っている」のですと。私もそうした実感をもっています。宮沢さんの「永訣の朝」という心象スケッチにいままさに死に直面している妹トシさんの次のようなことばが記されています。「(うまれでくるたてこんどはこたにわりゃのごとばがりでくるしまなぁよにうまれでくる)」というのがそれです。しかし、このことばは宮沢さん自身についても同じことがあてはまるものだったのではないかと感じてきました。

 宮沢さんの人生の歩みに関して同じ実感をもっている方がいるのだなと受け止めました。それは、宮沢さんが自己中心的な人であったということを指摘しようとするものでは決してないのです。個人的な考えですが、宮沢さんは自分がどう生きていったらよいのかという自分の内なる声が止むことのなかった人生の迷い人だったからこそ、「自分のことばかり気にして生き」ざるをえなかったのではないでしょうか。

 宮沢さんは私たちが生活しているこの娑婆世界に仏国土を建設することを自己の使命としていたことと関連して、彼が生きていた時代の経済・社会制度およびそれらを包括している政治体制とどのように向き合ったのだろうかということも、宮沢さんの人生の歩みを社会学の目で見るとき、重要なテーマではないかと思います。

 この点に関して言えば、階級闘争を含む経済利害的・政治的・権力闘争的争いごとに関することがらからは心的距離をおき、善悪や是非論的判断を留保し、観察者としての立ち位置をキープしていたのではないかと推測します。

 なぜそうした心的姿勢を取り続けたのでしょうか。その大きな要因のひとつは、やはり自分が地方財閥の一員に属していたという社会的立場にあったからではないでしょうか。小さいころから規制の社会・政治体制を批判・否定する危険思想に染まらないよう心配され、育てられてきています。それでも、宮沢さんは、自分の社会的立場に「罪」の意識を感じていました。

 1932年の母木光さん宛の手紙の中でそのことを次のように告白しています。「何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの、社会的被告のつながりにはいつてゐるので、目立つことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです。じつにいやな目にたくさんあつて来てゐるのです」と。

 とりわけ宮沢さんが「救済」の対象として心を寄せようとしていた貧しくて社会的弱い人たちから、より敵意とあざけり、そして差別的な視線を向けられてきたことにたえず心を痛めていたのではないでしょうか。

 もう一つの要因としてやはり仏教の教えに忠実に従おうとしたからではないかと考えます。道元さんは、「仏道を求め、仏道を修行する者にきびしく要求したのは、人情を捨てること」でした。そして、その捨てるべき「人情」の最たるものとは、善悪・是非の判断だったのです。

 「世間の人が善だ、悪だというようなことを全部忘れて、さらに自分でこれは善いこと、これは悪いことと考えるようなつまらぬことも全部捨て去り、ただひたすら仏教に随っていきねばならない」というのが道元さんの教えでした。

 なぜなら善悪や是非の判断には自己利害と私心が入り込むからなのです。「とくに是非の判断になると、どうしても、己の利、自分の立場、自分に都合のよい観点からこれが判断される。一言でいうならば私心がつくのである」というのです。

 そしてこの自己利害と私心を妥協なく押し通そうとすることで争いごとが生じます。「夫(そ)れ自(みずか)らを是(ぜ)とし、彼(かれ)を非(ひ)とす、己(おのれ)を美しくし、人を悪(にく)む。物然(ものしか)らざることなし。もつて皆然(しか)るが故に、世を挙(あ)げて紛紜(ふんうん)(みだれる)として自ら正す者なし」というのが世の常なのです。

 世の争いごとへ向き合う宮沢さんの心的態度もそうした仏教の教えに従っていたのではないでしょうか。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン