シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

夢まぼろしに終った降誕700年の奇蹟

 日蓮さんの降誕700年の日が過ぎしばらくしても何ら奇蹟の起こる兆しは見えなかったのです。それだけでなく、期待していた父や心友保阪さんへの折伏も不成功に終わってしまいました。むしろ折伏の中で、とりわけ心友保阪さんとの間で大きな心の傷を生んでしまったと言われています。

 折伏という自分の信仰を伝道する方法は、それだけ人間関係を損なう可能性を秘めているものだったのではないでしょうか。とくに日蓮さんが要求する折伏は、異なる宗教を信じている人に対しては、なおさら激しく相手を否定し、攻撃しかねないものだったようです。

 世の乱れは人々が間違った教えを信仰していることでなくならないというのが日蓮さんの考えだったのです。日蓮さんの教えは、「破邪顕正(はじやけんしよう)」という教えであり、「重悪は即ち勢力を以て折伏す」ることを主張するものだったのです。『鎌倉仏教』の著者戸頃さんによれば、「勢力とは実力」を意味する攻撃的なものだったのです。その攻撃性は、国柱会を設立した田中さんの教えになると、「悪人はどしどし殺すべきである」というかなりエスカレートした過激なものとなっていたのです。

 日蓮さんのそうした攻撃的な姿勢は『立正安国論』によく示されているそうです。それは、「天災地変や内憂外患の危機の根源を思索した結果、とくに法然の念仏を禁止して、国土全体が正法たる『法華経』に帰依しなければ、安国にならないことを諫諍(かんそう)する、壮年の血気あふれた論書である。それは、『立正』の確立によってのみ『安国』の理想が実現されることを主張し」ていたのです。

 宮沢さんが生きていた時代と社会は、ある意味「天災地変や内憂外患の危機」の時代と社会でした。その危機にどのように向き合ったらよいか、宮沢さんは、無意識ではあったかもしれませんが、日蓮さんの向き合い方に共感したのではないかと思います。しかし、その代償は大きなものでした。父や心友である保阪さんとの関係性を、もしかしたら「本統」(宮沢さんが好んで使っていた用語です。)に破綻させるものだった可能性もあったのではないかと推測されます。

 法華経布教のための童話などの出版のための段取りをつけたいということも、このときの宮沢さんの上京の目的にあったのではないかと思います。通説では、宮沢さんが童話などを書き始めたのは上京時に応対した国柱会幹部の高知尾智耀さんから特技をいかして布教することを勧められたことによるものと言われています。しかし、宮沢さんは上京以前に童話等による布教の方法に自分の役割を定めていたのではないか考えます。しかも、もしそれが自活のためのものとなれば最善だとも、少なくとも潜在的には願っていたのではないかと推測します。

 上京によってその夢実現の足場を築きたいと考えていたのではないでしょうか。1921年の上京前後の手紙でその思いの跡をたどってみようと思います。「私ならば労働は少なくとも普通の農業労働は私には耐え難いやうです。……あゝ私のからだに最適なる労働を与えよ。……われは物を求むるの要なくあゝ物を求める心配がなくなったなら、私は燃え出す。本当に燃え出して見せる。見せるのではなく燃えなければならない」(1919年7月:保阪さん宛)のです。

 「見よ。このあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛のすがた。……その最中にありて速やかにペン、ペンと名づくるものを動かすものはもとよりわれにはあらず。……人あり、紙ありペンあり夢の如きこのけしきを作る。……謹みて帰命し奉る 妙法蓮華経。南無法蓮華経」(1919年8月20日前後:保阪さん宛)。

 「来春は間違いなくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮らし様をするかもしれませんが前の通りつき合って下さい。今度は東京ではあなたの外には往来したくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから」(1920年8月14日:保阪さん宛)です。

 「私の出来る様な仕事で何かお心当たりがありませんか

  学術的な出版物の校正とか云ふ様な事なら大変希望します

  今や私は身体一つですから決して冗談ではありません……

勉強したいのです 偉くなる為ではありません この外には私は役に立てないからです」(1921年中旬:保阪さん宛)。

 「昨日帝大前のある小印刷所に校正係として入り申し候」(1921年1月28日:保阪さん宛)。

 「さあこゝで種を蒔きますぞ。もう今の仕事(出版 校正 著述)からはどんな目にあってもはなれません」(1921年1月30日:関徳弥さん宛)。

 「私は書いたものを売らうと折角してゐます。……

  なるほど書く丈なら小説ぐらゐ雑作なにものはありませんからな。うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる」(1921年7月13日:関徳弥さん宛)。

 以上の手紙だけを見ても宮沢さんの「勉強」・執筆・出版へかける心情を感じることができるのではないでしょうか。しかし、このときにはその心情が現実に実を結ぶことはありませんでした。宮沢さんはそのことにも相当失望したのではないかと感じます。

 少し横道にそれることになりますが、宮沢さんは法華経の伝道師になろうと決心したときに、なぜ出家するという道を選ばなかったのでしょうか。それが宮沢さんの本願を実現するのに相応しい道のように思えるのですが。「今の時代は僧の身では、かえって真剣に耳を傾けて」(1918年2月2日:父宛)もらえないと考えたからのようです。だとすると宮沢さんは具体的にどのように法華経の教えを社会に広めようとしたのでしょうか。

 もともと宗教は教えを広めたり、修行するために芸術的なものを含めさまざまな方法がとられてきたのではないかと思います。NHKの宗教の時間:「『観無量寿経』をひらく」の講師である釈さんは、「十六の観法」という「観無量寿経」における物語の主人公である「韋提希」さんの「浄土往生」までの釈迦さんの教えを説明しています。さらにコラムで「絵解き」などの教えを流布する方法について紹介しています。

 その中のひとつである「譬喩を用いて教えを語るダールシュターンティカ(譬喩者)」という人たちの紹介に興味が惹かれました。釈さんによれば、この人たちから「部派仏教から大乗仏教への橋渡しをする重要な部派であ」る「サウトラーンティカ」と呼ばれる人たちが出てきたそうなのです。

 宮沢さんが意識的・自覚的にそうしようとしたかどうかについては確証がありませんが、「ダールシュターンティカ」の人たちのような形で、法華経の流布を図ることが自分の使命であると考えていたのではないかと思います。

 さらに、ここで先取りすることになりますが、宮沢さんの『春と修羅』を端緒とする一連の心象スケッチによる創作は、宮沢さんを主人公にした「修羅の成仏」物語という新しい仏経典の創造を意図したものだったのではないかと思います。それというのも、仏経典の主内容のひとつは、それ自体がさまざまな仏さんの「成仏」物語となっているからです。そうした数々の仏経典の中で、法華経はお釈迦さん自身の成仏物語となっており、その意味で多くの人たちから特別なものと認識されてきたのではないかと考えます。

 1921年2月16日にもし日蓮さんのような奇蹟が起き、宮沢さんの夢がかない、「成仏」できていたとしたら、『春と修羅』以降の作品は全く違ったものとなっていたかもしれません。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン