シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

父の助け舟―父と二人だけの旅―

 国柱会での活動に行き詰まりを見せていたとき、正次郎さんは賢治さんに対しどのような行動をとったのでしょうか。残念なことにそのときのことに関しては、門井さんの『銀河鉄道の父』の中では描かれてはいません。この時期の正次郎さん-賢治さんの親子関係に着目して詳しく論じているのは、栗谷川虹さんです。そして、その著作は、『宮沢賢治の謎をめぐって―『わがうち秘めし異事の数、異空間の断片』』です。

 賢治さんが上京して後、「正次郎は心配して何度か小切手を送ったが、賢治はそのつど受取人の名を消し『謹んで抹(まつ)し奉る』と書いて送り返していました」。というのも、上京後すぐに期待していた日蓮さん降誕700年の奇蹟が実現せず、あたかも花巻に帰りたい気持ちがあるかのような手紙を正次郎さんに送っていたからです。その手紙とは、1921年2月24日の日付のものでした。

 そしてその手紙には、「寒い処、忙しい処父上母上はじめ皆々様に色々御迷惑をお掛け申し訳けございません。……御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します」と記されていたのです。あれだけ熱狂していた国柱会に奉仕するという姿勢が全く消え去っています。

 正次郎さんは、心配して送ったお金を返送してくる行為に対しても怒って賢治さんを突き放してしまうようなことはありませんでした。むしろ賢治さんには、本心では父を頼り花巻に帰りたい気持ちもあることを察してか、賢治さんの気持ちを解きほぐすため二人だけの旅の提案をしたのです。栗谷川さんによれば、

 「四月初め正次郎自身が上京し、伊勢参りから比叡山伝道大師千百年遠忌(おんき)、南河内磯長(しなが)村叡福寺聖徳太子千三百年遠忌参詣の関西旅行に誘う」のでした。賢治さんも喜んでこの提案を受け入れ、父正次郎さんに同行したと言われています。

 この旅がどのようなものであったのか、もし関心があれば栗谷川さんの著作のページをめくっていただければと思います。ここでは、国柱会における仏国土建設の活動への失望を乗り越え、その後どのように生きていくかということを、賢治さんは旅をとおしてどのように考えたのだろうかということに関してだけ、参照しておくことにします。

 この点に関して、栗谷川さんはこの旅の最後の日に詠まれた三首の短歌が重要なヒントを与えてくれると言います。その日、「八日、関西での最後の日です。……二人は興福寺より春日大社に参詣、奈良公園を通って、さる沢の池にでました」。そこで詠まれた三首の短歌が以下のようなものでした。

 さる沢のやなぎは明くめぐめども、いとほし、夢はまことならねば(B798)

 さる沢のやなぎはめぐむこのたびこそ、この像法の夢をはなれよ。(B799)

 さる沢の池のやなぎよことし又むかしの夢の中にめぐむか。(B800)

 ではこの三首の短歌はどのようなことを意味しているものなのでしょうか。栗谷川さんは余白のメモをも参照して次のように解説しています。賢治さんが上京後の出来事をどのように振り返ったのかを知るために重要と思われますので、長文となりますが中心となるところを引用しておきたいと思います。

 「注目すべきは『その像法(ぞうほう)の日は去りしぞと』です。すでに『像法の夢』は無いのだ、と賢治は何度も繰り返しているのです。……夢から覚めよ、と賢治は自分自身に向かって言っている。メモの書入れも像法は砂に没したと否定されています。また『まことならねば』は、後の心象スケッチ『春と修羅』の『まことのことばはここになく』にも通じていると思われます」。

 「像法は、正法後の五百年間で、教えと行だけがあって、証を得るものがなくなり、末法は像法後の一万年で、教のみがあって、行も証もない時代となる」のです。すなわち、国柱会の時代は末法の時代となっており、仏国土建設の教はあるが、それを現実化する行はすでに無くなっていると賢治さんは考えたのです。

 そのことは、賢治さんはお父さんとの旅を通して、国柱会の一員として仏国土建設に生涯を懸けることを断念する気持ちをかためたことを意味していたのではないでしょうか。そして、いつ花巻に戻っても受け入れてもらえるとの感触ももつことができたのではないかと思います。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン