シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「法華文学」創作への船出

 国柱会の一員として仏国土建設に生涯を捧げるという夢を断念せざるをえなくなった宮沢さんは、法華経の流布者としての活動に邁進していくことになります。その活動とは、いわゆる「法華文学」の創作のことになります。通説では、それを薦めたのが、宮沢さんが国柱会の門をたたいたとき応対してくれた高知尾智耀さんだったと言われています。午前中4時間だけ印刷所での仕事をして、その後図書館で創作活動を続けています。

 ではこの上京時に宮沢さんはどのような作品を創作していたのでしょうか。このことに関しては、『宮沢賢治『初期短篇綴』の世界』の著者である榊昌子さんが詳細に論じています。それはその著書の第十二章「宮沢賢治は東京で何を書いたか」というものです。榊さんによれば、そのときの作品に関する先行研究として、恩田逸夫さんの論考「宮沢賢治における大正十年の出郷と帰宅――イーハトブ童話成立に関する通説への検討を中心に――」があり、その論考を参照しているそうです。

 そしてその論考は、「種々の根拠を示して八月中旬帰郷説を提唱し」、「滞京中の作と確認できるものが極めて少ないことを」明らかにしているとのことです。それまでは、帰郷は9月とされ、「滞京中、ひと月に三千枚もの原稿を書き、花巻に提げて帰ったトランクには、ぎっしり童話の原稿が詰まっていた」と言われていたのです。

 滞京中の作品群は、以下のものだったそうです。短歌49首と短唱。後者は、「表紙に『東京』と書かれたノート」があり、「短歌九首と二十の短唱、散文タイトル・メモが書かれている」といいます。次に散文です。「電車」と「床屋」そして、「滞京中の散文作品については、前記『『東京』ノート』に、次のようなメモがある」そうです。「図書館(ダーケル博士)」と「床屋の弟子とイデア界」がそれらです。

 さらに、「戯曲」です。それは、断片のものであり、「蒼冷と純黒」で、「一度は清書された作品が、何らかの理由で破棄され、原稿用紙二枚分……が、書簡用紙に転用されて残ったものであった」のです。そして、「童謡と童話」です。前者に関しては、「『愛国婦人』大正十年九月号に掲載された童謡『あまの川』をさすものとみられ」るそうです。後者に関しては、「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」です。しかし、それは、「在京中に書かれた作品の中で最大の謎となっている」と言います。なぜなら、それらの二作品は、「大正七年八月頃に」、兄から「読んで聞かせられたことをその口調まではっきりおぼえている」との弟清六さんの証言があるからです。

 榊さんのご著書を読むまでは、宮沢さんの童話作品のほとんどは国柱会に入会し東京に滞在している間に創作されたものであるというように漠然と認識していましたので、実際はそうではなかったということを知って、驚きました。同時に、宮沢さんに関する研究は本当に微に入り細に入りとことん研究しつくされているのだなと感じた次第です。

 では、国柱会の一員として仏国土建設に邁進するという願いを断念せざるをえなくなった中での「法華文学」とはその後どのような展開を遂げていくのでしょうか。俄か勉強でいつどのような形でその影響が作用していったのかについてはブラックボックスなのですが、その展開の方向性に大きな影響を与えたのは、ウィリアム・ジェイムズさんとレフ・トルストイさんだったのではないでしょうか。

 ところで、宮沢さんの文学に影響を与えた人はあまたいる中で、なぜジェイムズさんとトルストイさんの二人だけを取り上げるのでしょうか。しかも、ジェイムズさんはアメリカの心理学者の方ですし、トルストイさんはロシアの小説家・思想家の方で、二人には何らの関係もなさそうに見えるのです。

 それにもかかわらず二人は、宮沢さんの「法華文学」のテーマ、方法、そして生き方にまで大きな影響を与えていったのではないかというのが、ここでの仮説なのです。それは、「苦しむ一切の衆生を救う」という宮沢さんの本願の東京時代以降の行方と大きく関わっているからなのです。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン