シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

トルストイさんが百姓になることで目指したものは何だったのだろうか

 田舎に戻ったトルストイさんは都会での慈善活動の失敗の原因は何かを徹底的に探究します。そして、最初に到達した結論は、都会の貧困者の非誠実的な性格というものでした。トルストイさんは論じます。

 「都会の貧民に対する自分の態度を残らず思い起こしているうちに、私は、自分が都会の貧民を救えなかった原因の一つは、貧民たちに誠意がなく、私に対して不正直だったことにあった、と気づいた。彼らはいずれも私を人間としてではなく、手段として見ていた。私には彼らと接近することができなかった。これは自分にその能力がないのかもしれない、とも考えた。しかし、誠意のないところに救助は不可能だった。自分の立場をすっかり話そうとしない者をどうして救えようか?」というように考えたのです。

 そこでトルストイさんは、「最初、私はこの点で彼らを非難した(他人を非難すること――これはじつに自然である)」のです。しかし、トルストイさんは、「当時私の家に客に来ていたシュターエフという人物」と語り合う中で、自分の間違いに気づかされるのです。その語り合いは、自分の行きついた結論にシュターエフさんの共鳴を期待してのことでした。

 ところがシュターエフさんのトルストイさんのとった慈善行動への指摘は彼が予想もしなかったものだったのです。シュターエフさんは指摘します。

 「わかっています、わかっていますとも、ですが、あなたは見当はずれのことをしておいでです。いったいそんなことで人が助けられるものでしょうか?歩いて行くと、二十カペイカ玉をくれとせびられる。そこでそれをくれてやる。これがいったい、慈善でしょうか?それより、精神的な慈善を与えておやりになることですな。それを教えてやることですよ。物をくれてやるのが何でしょう?それはただの厄介払いにすぎないじゃありませんか」と。

 ではどうすればよいというのでしょうか。シュターエフさんは続けます。「私は金持ちじゃありませんが、すぐにでも二人ぐらいは引きとりましょう」。トルストイさんもすぐにそうしなさい。そして「われわれはいっしょに仕事にも出かけるのです。そうすれば相手は私の働きぶりを見て、どういうふうに暮らすべきか学ぶでしょう。またお茶も一つのテーブルで飲むようにすれば、私やあなたからの話も聞けるわけです。これこそが慈善というもので、それをやらないあなた方の団体なんかはまるで空っぽですよ」と言うのです。

 トルストイさんは、これらのシュターエフさんの言い分の「正しさを認めないわけにはいかなかった」のでした。そして、自分の都会での慈善活動の風景を次のように振り返ります。

 「たしかに私は高価な毛皮外套を着ていたり、自分の馬に乗っていたりするし、長靴さえなくて困っている人に二万ルーブルの私の邸宅を見せつけたりする。彼らはきっと、私が惜しげもなく五ルーブリの金をくれてやるのはただ私にそんな気まぐれが起こったからにすぎないことを見てとるだろう。私がそんなふうに金をやれるのも、自分ではだれにも与えることなしに、他人からばかりたやすく取り上げたために手もとに余分な金がたくさんあるからにすぎないことを相手が知らぬはずはない」のではないでしょうかと。

 この気づきを得て、トルストイさんは、「私が民衆から取り上げ、現に取り上げつつあるものに対して、この教養と才能をもっていかにして償うべきか?」「私は『何をなすべきか?』」という問いに納得いく回答を見つけ出そうとしていくのです。

 そして、得た回答とは、以下のものでした。民衆から取り上げてきたことについて、「自分自身に対してうそをつかぬこと」、「他人の前に己れの正義、特典、特長などを認めることを拒否し、みずからを罪あるものと認めること」、そして、「人類の永遠の、疑いなき法則を履行すること――己れの全存在をもって自他の生活維持のために自然と闘うこと」の三つのことを実行するというものでした。

 これらの回答をトルストイさんはさらにどのように敷衍して論じていたかについて、トルストイさん自身のことばを引用しておこうと思います。なぜならば、それは、帰花後の宮沢さんの行動を理解することにつながると考えられるからです。少々長い引用となりますが、宮沢さんの人生理解にとって重要と思われますので、要約ではない形で紹介させていただきます。

 「自分の第一の、疑いない仕事は、みずから養い、みずから着せ、みずから暖め、みずから建てることであり、そのことの中で他人に奉仕することである」、「この一事においてのみ人は己れの本来の肉体的および精神的要素を完全に満たすことができるのである」。「自分と肉親を養い、着せ、守ることは肉体的要求の充足であり、同じことを他人にすることは――精神的要求の満足だからである」。

 「生活の資を得るために自然と闘うという義務がつねにあらゆる他の義務の中でも第一の、疑いなきものとなる」。「自他の生活を維持するために自然との闘いに参加するという義務は、人間の理性にとっては必ずつねに第一のものとなるであろうという理由は、人人にとっては何よりもその生活が必要であり、したがって人人を擁護したり、教えたり、その生活をより快適なものとするためには、生活そのものを守らなければならず、もしこの闘いに参加しなければ、つまり、他人の労力を搾取するならば、それは他人の生活を破滅さすことになるからである」と、トルストイさんは主張していました。

 そして、トルストイさん自身、百姓となることで「私自身に必要なこと――私のサモワール、私のペーチカ、私の水、私の衣服など――すべて私がみずからなし得ることを行う」ことにしたのです。「聖書にも人の掟として――額に汗してパンを食(は)み、苦痛のうちに子を生むべし――と説かれてある」のです。

 そして、そのことを教えてくれたのは、「詩人でも、学者でも、説教家でも」なく、「いずれも農民だった――シュターエフとボンダリョフ」さんの二人だったというのです。トルストイさんが目指したのは、農業者としての農民というだけでなく、文筆家としての、芸術家としての、科学者としての、そして宗教家としての農民でした。すなわち、トルストイさんは現代的百姓をめざしたのです。

 なぜならば、「その時はじめて、現代社会に存在しているあやまれる分業はなくなり、人間の幸福を侵さない分業が打ち立てられるだろう」ことを展望することができると思われたからなのです。

 宮沢さんも、できることならトルストイさんが歩もうとした同じ道を歩みたかったのではないでしょうか。しかしそうするには宮沢さんには大きなハードルが立ちはだかっていたように思えます。そこに宮沢さんの「おれはひとりの修羅なのだ」と叫ばざるをえない苦悩があったのではないかと推測します。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン