シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがゆめ見た開墾・開拓・仏的コミュニティ建設計画

 国柱会仏国土建設の「行」はないと悟り、去ろうとしたとき、トルストイさんの影響の下、今後どうすべきかに関して宮沢さんが最初に考えたことは、故郷岩手県に自分たちの手で仏国土とまではいかないにしても、仏国土建設につながるような仏コミュニティを建設するということではなかったかと推測します。その計画書こそ、完成していれば、「蒼冷と純黒」だったのではないでしょうか。

 ただ宮沢さんにとって、この計画には大きな課題が待ち受けていました。というのも、宮沢さん自身がリーダーとして率先して進めることができる事業ではなかったと考えられるからです。少なくとも、宮沢さん自身はそのように考えていたように思えます。

 なぜならば、第一に宮沢さんの体力と健康問題があります。農業経験がそれまで全くなかったことも不安材料だったのではないかと思います。さらに経営才覚の必要もあります。この点でも、そもそも、「もうけて」経済的利益をあげるという行為自体に自信がなかったのかもしれません。それは、長男としての家業継承という問題への向き合い方を見ても予測されることでしょう。

 一般的に言っても、社会づくりには他者の存在が欠かせません。ましてや宮沢さんが考える仏国土的コミュニティということであれば、その他者には法華経に帰依していることが条件となるのではないでしょうか。岩手県仏国土的コミュニティを建設するための仲間を、心友である保阪さんと妹のトシさんを考えていたように思えます。

 「蒼冷と純黒」創作のヒントを、宮沢さんは、トルストイさんの『光あるうち光の中を歩め』という作品からえていたのではないでしょうか。トルストイさんのこの作品は、訳者である原久一郎さんの息子さんである原卓也さんの解説によれば、(トルストイさんがキリストさん本来の教えを体現している)「古代キリスト教の世界に生きぬく青年パンフィリウスと、さまざまな欲望や野心、功名心などの渦まく俗世間にどっぷりつかっている青年ユリウスという二人の人物を中心」として展開する物語です。さらに、後にパンフィリウスさんと結婚することになる美女のエウラーリヤさんという女性が主要な登場人物です。そして、彼女は、パンフィリウスさんと志を共有している女性です。

 さらに、この物語の主題は、私たちが生きている「俗世界における性的愛とか、私有欲、名誉心などといったものが、いかに力強くわれわれを金縛りにしているか」、「現世に絶望したり、自己嫌悪(けんお)におちいったりして、何度かパンフィリウスの住む世界へ走ろうと志しながら、……ふたたび俗世界に舞いもどって」しまうユリウスさんの姿を通して描こうというものです。

 そして、最後の最後で、ユリウスさんがパンフィリウスさんの生活の正しさを悟り、パンフィリウスさんたちが営んでいる古代キリスト教の生活共同体(コミュニティ)に自分の人生を託そうとするのです。さらに、この物語には、宮沢さんが自分の生涯の探究テーマとした「本統の幸福」についてパンフィリウスさんが次のように語っているくだりがあります。

 「僕は国務に関して、全く何一つ知っていないし、また理解してもおりません。僕たちが知っているのは、ただ一つだ、その代り確かに知っている。ほかでもありませんが、われわれの幸福はもっぱら他のひとびとの幸福の存在する所に存在する、で僕たちはこの幸福を追求しているという一事です。あらゆる人の幸福は、彼らの合一の中に存します。そしてこの合一は、暴力によらず、愛によって達成されます」と、パンフィリウスさんは述べているのです。

 自然と闘い生活の糧をえることが志をもった人の義務であるというトルストイさんのことばを胸にきざみ、志ざしを共有する仲間と共に「あらゆる人の幸福」を追求する仏的コミュニティを建設する、それが帰花後の宮沢さんの夢だったのではないでしょうか。そして、その仲間というのが、宮沢さんの短い人生の中では唯一志を共有化できると思われた心友である保阪さんと妹のトシさんだったのではないかと思います。

 そうだとすると、「蒼冷と純黒」における「蒼冷」は保阪さんであり、「純黒」とは宮沢さんであったと考えられるのです。すなわち、自分に代わって岩手の自然と大地を開墾・開拓する先導役を保阪さんに託そうと考えたのではないかと思います。

ただし、その宮沢さんの作品の主題は上記のトルストイさんの作品の主題とは異なっています。トルストイさんの作品では、俗世間の価値観にどっぷりつかっている生き方をしているユリウスさんが、パンフィリウスさんたちの古代キリスト教の生き方をしている生き方こそ、真の生き方であると気づき、その仲間に参加していくかというのがテーマでした。宮沢さんの「蒼冷と純黒」の主題はそれとは違うものとならざるをえなかったのです。

 すなわち、俗世間とは異なった真の生き方のできる世界の創造ということで志を共有化している者同士が、しかし、信じている神を異にしている関係にあるというのが、「蒼冷と純黒」の作品だからです。異なる神をいただいている者どうしがはたして「すべての人の幸福」を実現するという共通の目的に向かって協力しながら歩んで行けるのかどうか、それが問題だったのです。しかも、キリスト教を信じている「蒼冷」さんに先陣をゆだねなければならなかったのです。

 この作品が完成していたなら、宮沢さんはその問題にどのような決着をつけていたのでしょうか。それは、非常に興味をそそられるテーマです。これも推測になりますが、このときは、宮沢さんはこの問題に納得する答えを見つけることができなかったのではないでしょうか。

 それよりも、現実には、上記の計画実現の命運を握っていた保阪さんに、計画をうちあけ、協力を依頼したものの、きっぱりと断られてしまったのではないかと思います。そして、その顛末を描いた作品が「図書館幻想」だったのではないかと考えます。この計画をうちあけ、協力を依頼にいった宮沢さんを、保阪さんと思われる「ダルケは振り向いて冷ややかにわらった」だけだったのです。

 保阪さんには保阪さんのゆめがありました。生まれ育った自分のふるさとに「神の国」を建設するというのがそれです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン