シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

花巻に戻り農学校の教師になる

 岩手県の大地を開墾・開拓し、仏的コミュニティを建設するという夢は、このままでは叶いそうにないと知ったとき、ではどうすべきか宮沢さんは大いに迷ったのではないかと思います。そのときのことを振り返ったものと考えられる「過去情炎」という作品があります。それは、

 「截られた根から青じろい樹液がにじみ

  あたらしい腐植のにほひを嗅ぎながら

  きらびやかな雨あがりの中にはたらけば

  わたくしは移住の清教徒(ピュリタン)です

  ……

  いまはまんぞくしてたうぐわをおき

  わたくしは待つていゐたこひびとにあふやうに

  鷹揚(おうやう)にわらつてその木にしたへゆくのだけれども

  それはひとつの情炎(じやうえん)だ

  もう水いろの過去になつてゐる」

 この夢見ていたときのことを振り返った精神状態は、自ら「情炎」と名づけていることからも、かなり高ぶっていたのでしょう。なぜそれほど気持ちが高ぶっていたのか、さまざまに推測と解釈ができるのではないかと思います。ただこのとき、何をおいても帰郷しなければならない事態が生じます。それは、妹のトシさんが発病し、病臥に伏しているとの知らせを受け取ったことでした。

 この知らせを受け取るや、宮沢さんは、それまで書き溜めた作品を新しく買ったトランク一杯に詰めて、ただちに帰郷したのです。そして花巻に戻った宮沢さんは、花巻農学校の教師になるのです。それを取り計らったのは、またしても父親の正次郎さんでした。

 そのときの経緯をこれまでも参照してきた岡田純也さんの記述で確認しておきたいと思います。岡田さんによれば、「妹としの発病で帰郷した賢治は、再び東京へ戻ろうとはしなかった。というより、看病中も引き続いて童話原稿を執筆する賢治に業(ごう)をにやしていた父が、折よく稗貫郡々長の葛博と花巻農学校校長の畠山栄一郎とが賢治の家に持ってきた花巻農学校教師の就職口にとびついたからである。もちろん賢治とて不賛成ではなかった」のです。

 そしてこの教師時代に、宮沢さんは自分の人生上最も充実した日々を送ることになるのです。その内容に関しても、少々長い引用になるのですが、岡田さんの論述を参照しておきたいと思います。岡田さんの論述によれば、

 「賢治の短い生涯中、最も愉快な明るい日であった、と彼自身が後に言っているように、この農学校在職中の賢治にはその生涯全般にわたってつきまとっている痛ましさがない。初登校した十二月には、生前の賢治が原稿料を貰った唯一の童話『雪渡り』が雑誌『愛国婦人』に掲載されている。出発から幸先(さいさき)が良かった。また教育は彼の性格に向いていたようだ。生徒たちにはしたわれた。更に小さな学校であったことが幸いして、賢治の奔放(ほんぽう)なあらゆる教育方法が承認された。上京中のがむしゃらな貧しい生活の後だけに、適度の快適な労働は楽しいものであった。からだも健康であった。そして、更に自費出版ながら『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行と、意気まさに軒昂(けんこう)たるものがあった。

 賢治はこの農学校に大正十五年三月まで在職した」のでした。

 農学校の教師という仕事は、このときの宮沢さんにとって、文字通りうってつけの、そして渡りに舟の仕事だったのではないでしょうか。なぜならば、まず自分自身が仕事をすることで自分の生活の糧を稼ぐことができます。また、農業というものについて経験を重ねることができます。

 しかし、宮沢さんにとってより重要だったと思われる理由は、トルストイさんが「神の国」を建設のために極めて重要視していたのが、時代を担う子どもたちへの「教育」だったからです。法華経の布教者として生きて行きたいと常々願ってきた宮沢さんにとって「教育」する経験は貴重なものとなるはずだったのです。

 そのことを意味することは、岩手県の大地を一から切り開き、開墾し、仏的コミュニティ建設を実行するという計画は「過去炎上」となってしまいましたが、岩手県の自然を相手に闘い、仏的コミュニティを建設したいという願いは、まだあきらめてはいなかったということではないでしょうか。そうした宮沢さんにとって、そのための力を貯えていた時期こそ、農学校での教師時代だったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン