シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんはどのような教師であろうとしたか(1)

 宮沢さんは、農学校の教師時代、どのような教育をめざし、どのような教師であろうとしたのでしょうか。この点でも、宮沢さんはトルストイさんの教育論から大きな影響を受けていたものと考えられます。

 トルストイさんが生き方でなによりも重視したのは、他人の労働を利用し、搾取する人間にはなるなということでした。教育論でそれを言えば、自分の生活は自分の力と労働によって実現しようとし、実際に実現できる人間に育てなさいというものではないかと思います。トルストイさんのそのことに関する主張は、

 「科学の奉仕者、つまり真理の奉仕者であり教師である人が自分自身でやれるはずのことを他人にやらせながら、時間の大半を美食や、喫煙や、無駄話で、自由主義的な饒舌や、新聞・小説の耽読や、観劇などにすごしていることが不思議に思え」ます。それは堕落であり、科学者であり、教師でもある自分は、「労働によって自他の生活に奉仕するという人間の義務からの免除を結びつけて」もよいとする特権意識に他ならないのですと。

 「何をなすべきか、という問いに対」する第一の答えは、「私自身に必要なこと――私のサモワール、私のペーチカ、私の水、私の衣服など――すべて私がみずからなし得ることを行うということ」なのです。

 さらにトルストイさんは言っていました。次世代を育てる教育にとって重要なことは、「人間の疑いない第一の義務は自他の生活のために自然との闘に参加することだということが理解される」ようにすることなのですと。このトルストイさんの言説は、農学校における教育活動に相応しいものであったと言えるのではないでしょうか。

 また、トルストイさんは、科学や芸術のもっている力を大変重視しました。ただし、それらは他者の労働に寄生し、他者の労働を搾取する生活の上に成り立つものであってはならないと強く主張していたのです。それゆえ、高等教育によって養った科学や芸術の力は「民衆」の生活に役立ち、奉仕するものでなければならないと言い切っていました。

 すなわち、「科学や芸術による民衆への奉仕は、人々が民衆の中で、民衆と同じように生活しつつ、なんらの権利をも主張することなしに自分の科学上や芸術上の奉仕を民衆に提供し、それを取るも取らぬもそれは民衆の意志次第になった時にはじめて行われることになるので」すと。

 このトルストイさんの主張は、あたかも宮沢さんが高等農学校の教師の職を辞し、本統の百姓になると言って羅須地人協会の活動を始めることを予言しているかのような言説なのではないでしょうか。

 ただし、トルストイさんの教育に関する議論には、宮沢さんが望んでもそれまで実現することができなかったことも含まれていました。その言説は、トルスロイさんが都会で貧困者たちの子どもたちの教育する試みを行っていたときの教訓でもあったものです。すなわち、子どもたちを「立派な勤労生活へと向けようとした私の努力のすべては、われわれやわれわれの子供たちの手本によって無にされてしまった」ことでした。

 トルストイさんはそのときの教訓を次のように振り返っています。「いろいろな学問を教えることもじつにたやすいことである。だが、自分のパンを稼ぐことを教えるのは、われわれのように自分が自分のパンを稼いでいないどころか、その反対のことをしている者にとっては、困難などころか、不可能なこと」なのですと。

 「というのは、われわれは自らの実例や、この少年の生活の、われわれにとってはなんらの犠牲にも値しない物質上の改善によってさえも、彼にその反対のことを教えているからである。犬っころならばこれを取り上げて、甘やかして育て、十分に食べさせ、物を運ぶことを教え込み、これを愛玩することができ」ます。

 しかし、「人間は、ただ甘やかして育て、十分に食べさせ、ギリシャ語を教えるだけでは十分とはいえない――人間には生きること、つまり、他人からはなるべく少なく取り、自分からはなるべく多く与える、ということを教えなければならない。が、われわれが少年を自宅へ引きとったり、あるいはそのために設けられた収容所へ入れたりすれば、その反対のことを教えないわけにはいかない」のです。

 こうしたトルストイさんの言説は、宮沢さんに、はたして自分は、「自分のパンを稼ぐ」こと、そして自分の労働で他者に奉仕するという「りっぱな勤労者生活」を生徒たちに教えることができる教師となりえるかどうかを問わずにはいられなくしたのではないのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン