シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さん、新仏経典創作に挑む

 一度たりとも疲れを感じることがなかったくらい、楽しく、喜びに満ちた教員時代を送っていた宮沢さんは、しかし他方では、岩手県の自然と向き合い、切り開くことで、新たな仏国土を建設するという悲願実現のための行動にはただの一歩すら踏み出せてはいないことに忸怩たる思いをいだいていたのではないでしょうか。

 宮沢さんは、1924年4月20日、『春と修羅』という作品を自費出版します。そしてこの作品の中に、その忸怩たる思いが表明されているように思えます。これまでこの作品は、文学界や社会的には詩集として受け取られ、宮沢さんの代表作のひとつとして研究されても来ました。

 これまでも度々参照させていただいてきた岡田純也さんも、この作品を自著の中で次のように紹介していました。「賢治は詩集出版の意志を固めると、一人でことをはこんでいった。丸善の四百字詰原稿用紙百五十枚に浄書して、花巻の吉田印刷に持ちこんだ。なれない田舎の活版所のために、活字がそろわず印刷にもだいぶ手間どった。表紙は、賢治の希望した鋼鉄色の粗い布地が見つからず、黄土色のものになってしまった。背文字は、歌人の尾山篤二郎に頼んで書いてもらった。装幀のアザミの絵は、農学校の劇上演の時に背景を書いてもらった阿部芳太郎に頼んだ。序文は大正十三年一月二十日賢治自身が書いた」のです。

 「こうして出来あがった『春と修羅』は賢治を大いに喜ばせた。背文字に詩集と記されていたのをブロンズの粉でぬりつぶしてから、賢治は自己の分身心象スケッチを世の人々の前におくったので」す。すなわち、「賢治は詩集『春と修羅』一千部を自費出版し、知人や名のある詩人たちに送ったので」す。

 以上のような岡田さんによる『春と修羅』の紹介を参照しても、『春と修羅』は詩集であり、文学的作品であると認識され、受け取られていることが分かります。しかし、宮沢さんは、『春と修羅』を詩集としてのみ世に問おうとして編んだのでしょうか。岡田さんの紹介にもある、宮沢さんは「背文字に詩集と記されていたのをブロンズの粉でぬりつぶし」たのはなぜか、その意味をもう少し問い詰めてみてもよいのではないかと考えます。

 1925年2月9日付けの森佐一さんあての手紙の中で、なぜそうした行動を行ったのに関して、宮沢さん自身が打ち明けています。その中で、まず、『春と修羅』とはどのような作品なのかについて次のように語っています。

 『春と修羅』に掲載されている諸作品「これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書きとって置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません」というのがそれです。この言説によれば、『春と修羅』は、詩集ではなく、「或る心理学的な仕事」の企てのための素材という位置づけの作品だということになろうかと思います。

 しかし、その「仕事」に関しては、当時かなりの自信と気負いがあったのではないかと思います。なぜならば、宮沢さんは、上記の引用文につづけて次のように書いているからです。すなわち、「私はあの無謀な『春と修羅』に於いて、序文の考えを主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画」したというのです。「歴史や宗教の位置を全く変換しやう」という企画とは、何という大きな野望でしょう。

 そして、『春と修羅』の内容とは、その企画を「基骨としたさまざまの生活」を「発表」するものであるとも述べています。宮沢さん自身のこれらの言説から『春と修羅』とは宮沢さんにとってどのような意味をもつものだったのかに関して大胆に推測してみるならば、『春と修羅』は新仏経典創造への挑戦だったのではないかと思います。

 その内容は、すべての人が幸福となる極楽浄土は死後の世界ではなく、現に人々が生きている現世にすでに存在しつづけてきたし、それを誰もが実感できるようにしようと奮闘することが菩薩道であることを示したいというものではなかったのではないでしょうか。

 宮沢さんはその試みを『春と修羅』を発表することで、とくに宗教家の人たちに見てもらい、賛同をえたいと考えていたのではないかと思います。しかし、誰も宮沢さんのその試みを理解した人はいなかったのです。

 宮沢さん自身のことばによれば、「私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれませんでした」という結果に終わってしまったのでした。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン