シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

『春と修羅』の心象スケッチとは

 宮沢さん自身のことばによれば、『春と修羅』は「或る心理学的な仕事」をめざしている素材創作のための作品群であると言えるかと思います。さらに言えば、そのある心理学的な仕事とは、新仏経典の創造ではなかったかというのが仮説です。その仕事の準備として、心象スケッチという方法を用いて「いろいろな生活を発表」しようとしたのが『春と修羅』であったと考えられるのです。

 そして、そうした企てを後押ししたものが、W.ジェイムズさんが著した『宗教的経験の諸相』だったのではないかと思います。そこで、その著作の中でジェイムズさんがどのようなことを論じているのかを、『春と修羅』創作への影響に焦点を当てて参照することにしようと思います。

 文学作品であれば個人の心情の個別的記述が多くの人たちによってより普遍性をもつものとして受け取られるということはあるかも知れません。しかし、心理学的な仕事をめざしている科学的な作品となれば、普通は個別的、個人的記述だけで何かを論じるようなことは避けられるべきこととされるのではないかと思います。

 ところが、ジェイムズさんの場合は、まさしくその個人性ということを大切にする方法を心理学的仕事に用いているのです。ジェイムズさんの『宗教的経験の諸相』の訳者は、桝田啓三郎さんですが、そのことに関して訳後の解説の中で次のように言及しています。

 すなわち、「この書を貫いている個人的体験を重んずる根本的な態度は、のちに『プラグマティズム』で『私自身は、神の証(あかし)は第一義的には内的な個人的経験のうちにある、と信じている』(拙訳、岩波文庫版、八四ページ)と言われているのと同じく、父の影響をしめすもので、ジェイムズの生涯の思索を支配したもの」なのですと。

 しかも、ジェイムズさんが研究しようとしている「宗教的経験」は、普通の衆教信者のそれではなく、新たな宗教を創造するような天才的な宗教者のそれなのです。ジェイムズさんは言います、

 「普通の信者というものは、仏教徒であれ、キリスト教徒であれ、マホメット教徒であれ、それぞれの国の因襲的儀式に従っている。彼らの宗教は、他人に作ってもらったものであり、伝統によって伝承され、模倣によって固定した型にはめこまれ、習慣によって維持されているものである。こういう二番煎じの宗教的生活を研究したところで、ほとんど益するところはないであろう。私はむしろ、すべてこのような他人の示唆によって生じた感情や模倣的行為の模範となった根源的な経験を研究しなくてはならない」のですと。

 既成の宗教的生活は堕落してしまっていると考えていたトルストイさんと同様の感じをいだいていた宮沢さんは、このジェイムズさんの主張を共感をもって受けとめたものと考えられるのです。トルストイさんは既成の宗教的生活に代わって原始キリスト教の教えへの回帰を主張したのですが、宮沢さんの場合は、自らが模範となる新たな「根源的な経験」を提供しようとしたのではないでしょうか。

 そのための創作方法が心象スケッチだったのです。その点に関するジェイムズさんの議論を、さらに参照してみましょう。『宗教的経験の諸相』はエディンバラ大学自然宗教に関するギフォード講座でジェイムズさんが行った講義録です。その中で、ジェイムズさんは、その講義の主題を、「純然たる個人的宗教のみに限定したい」と述べています。

 なぜならば、宗教意識の本質は、「人間そのものの内的なもろもろの性向、すなわち、人間の良心、人間の受けるべき報い、人間の無力さ、人間の不完全さ」により、「神の好意を失ったり得たりすること」だからだと言うのです。そうしてみると、「個人的宗教は、それを不完全なものと考えることをやめない人々にとってさえ、やはり根源的なものと思われるはず」なのです。

 そして、ジェイムズさんは宗教とは何かを定義します。「宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合にだけ生ずる感情、行為、経験(個々人以下傍点による強調あり:引用者)である」のですと。しかも、そうした個人的・心的な宗教的経験によって、さまざまな宗教が創られてきたのです。

 さらにジェイムズさんは、その宗教の定義にある「神的な存在」とはいかなる具体的な神ではなく、「宇宙の本質的に霊的な構造」こそが究極の源泉であると論じていたのです。しかも仏教はその典型例だと言うのです。すなわち、「世間で一般的に宗教的だと呼ばれておりながら、積極的に神というものを仮定しない思想体系がいろいろある。仏教がその例である。一般に考えられているところによれば、もちろん、仏陀自身が神の地位に立っている。しかし、厳密な意味では仏教の体系は無神論的である」のです。

 「何はともあれ、結局、私たちは宇宙にまったく依存している」のです。宮沢さんが信じていた仏教論によれば、仏陀もひとりの人間だったはずです。そのひとりの人間が宇宙の真理を悟り、我がものとすることで、仏陀と呼ばれる神的存在になっていったというのがその教えであったのではないでしょうか。宮沢さんも同じように神的存在になることは可能なはずですし、仏教はそれを推奨する教えでもあるのではなかったかと思います。そして、ひとりの人間が仏陀になる物語こそ、仏教で言う経典なのではないかと思います。

 またジェイムズさんは、エマソンさんの宗教に関する思想を参照して、「宇宙の霊魂」の表現様式は文学的であることが相応しいと述べています。ジェイムズさんは言います、

 「宇宙は整然たる秩序をもつ神の霊魂であり、この宇宙の霊魂は道徳的であり、人間の霊魂の中にある魂でもある。しかし、この宇宙の霊魂が、眼の輝きや皮膚の柔らかさのような一つの性質にすぎないものかどうか、それとも、眼の見るはたらきや皮膚の感触のような自己意識的な生命であるかどうか、ということは、エマソンの文章では、はっきり決定されていない。宇宙の霊魂は、あるときは一方に、あるときは他方に傾きながら、両者の境界をゆれ動き、哲学的要求を満たすというよりもむしろ文学的要求をみたしている」のですと。

 このジェムズさんの言説は、仏教の無常論・無我論に親和性をもっているように思えます。すなわち、仏教の無常論・無我論によれば、私という存在はあるのでもなく、かといって無いのでもなく、いっときも休むことなく変化しつづける存在であり、その変化しつづけるなかで個人が感じる心象の中に宇宙の真理が映しだされていくものだったのではないでしょうか。宮沢さんはその変化しつづける心象をスケッチし、記録しつづけることで、新たな仏経典を創造しようとしたのではないかと思います。

 

                 竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン