『春と修羅』を読んでいてあらためて強く感じることは、心友の保阪さんと妹のトシさんの二人は、やはり宮沢さんにとって特別の存在であったのだなということです。宮沢さんと二人との関係は、恋する心になぞられて表現されています。実際に、宮沢さんは二人を愛していたのでしょう。
「小岩井農場」の作品にそのことが描かれています。かなり長い引用となるのですが、この部分はこれまで多くの文学者や研究者たちによって注目され、論じられ、解釈されてきたところでもあり、煩を厭わず引用する作業をしようと思います。
「底の平らな巨(おほ)きなすあしにふむのでせう
もう決定した そっちへ行くな
これらはただしくない
いま疲れてかたちを更(か)へたおもへの信仰から
発散して酸(す)えたひかりの澱(おり)だ
ちいさな自分を劃(くぎ)ることのできない
この不思議な大きな心象宇宙のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といっしょに
まことの福祉にいたらうとする
それを一つの宗教風の情操であるとするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたったもうひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移(ぜんい)のなかのさまざまな過程に従って
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといっても
それがほんたうならしかたない
さあはっきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまっすぐに起(た)て」
この文章は宮沢さんいついて論じる視角の違いによってさまざまな理解が示されてきました。その中では、近親愛や同性愛についてのものではないかという説が有力視されてきたのではないかと思います。例えば、今野勉さんは、保阪さんへの同性愛を表現したものではないかと、『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』の中で次のように自論を展開しています。
かつて宮沢さんには、「時には性欲に支配されたりすることがあっても、人間には誰でも仏の魂を持っているのだという信念があった」のです。それゆえ、「保阪への熱い思いは、万象と共に生きるという『宗教情操』から始まった、と思いこんでいた。しかし、よく考えてみると、それは自分のほんとうの心を偽る口実であって、保阪が見抜いたように、そして自身も口にしたように、それはけだものの願いであり、性欲だったのではないか」と気づいたのですと。
そうした説に対し、上記の作品を書いたとき、澤田キヌさんという女性にたいして恋をしており、上記の文章はその気持ちを分析的に表現したものであるとの見解もあります。その解釈を提示した方は、『宮澤賢治と幻の恋人 澤田キヌを追って』の著者である澤村修治さんです。
澤村さんによれば、「『病熱』体質であった賢治は、ミネから露までの間(盛岡農林学校生、同研究生、浪人、農学校教師、羅須地人協会初期。一八歳から三〇歳)にも、さかんに『恋』をしていた」のです。そして「農学校教諭となった賢治の前に登場」したのがキヌさんでした。キヌさんへの思慕は特別で、「やがて本人に思慕を伝えるまでに至る」のでした。
ただし澤村さんによれば、「冬のスケッチ」の作品中の「恋人」は、「他の女性との『恋愛』体験も、作中の『恋人』イメージづくりにモザイク的に参加したはず」なのでした。「こうして、この間の濃淡さまざまな恋愛体験を併せて咀嚼し、文芸作品へと煮詰めきった賢治は、『小岩井農場』での有名な分析的把握にまで到達する」のでした。それが上記の文章だと言うのです。
今回だけの検討だけでも、宮沢さんという人や彼の作品については実にさまざまな角度から、さまざまに解釈され、論じられてきたのだなと感じます。それが可能になるというところに宮沢さんに関する探究の面白さと醍醐味があるのでしょう。
そこで、上記の文章をこれまでの考察を踏まえ、私なりにどう理解したかについて紹介してみようと思います。すでに冒頭に書いたように、上記の文章の中の「恋愛」に関する部分は、宮沢さんが同じ菩薩道を歩みたいと願った心友の保阪さんと妹のトシさんを念頭においたもので、後半の「性慾」に関する部分は、澤村さんが論じていた宮沢さんが異性として魅力を感じた女性たち、とくにこの作品を作ったときに恋心を抱いていた澤田キヌさんを念頭において叙述したのではないかと推測してみたいと思うのです。
いずれにしても真実は宮沢さんだけが知っているということでしょう。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン