シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

『春と修羅』を読んでみる(3)

 『春と修羅』創作の方法とは宮沢さんが日々の生活の中で感じている心象の記録、すなわち「心象スケッチ」です。ところで、その心象とはあくまで宮沢さんの主観の世界ですので、それで普通は客観的世界の法則と考えられる宇宙法則というものを明らかにするということができるものなのでしょうか。

 学問の世界では、客観主義かそれとも主観主義かという認識論上の議論が対立的に論じられてきました。しかし、仏教の世界では、そうした二項対立的な見方ではない見方があるようです。集英社の「仏教を読む」シリーズで『[維摩経]沈黙の教え』を担当した鎌田茂雄さんはそうした見方をその著書の中で紹介しています。その見方は「不二法門」というものだそうです。

 鎌田さんの解説に耳を傾けてみたいと思います。「不二法門」の見方とは、「善と悪、生死と涅槃(ねはん)、煩悩(ぼんのう)と涅槃(ねはん)の対立を超えた立場に立って世界を観(み)」る見方です。そして、世界を二項対立的に見る見方に束縛されている状態から解放され、「不二法門」的見方ができるようになることを「不可思議解脱」と言うのだそうです。

 すなわち、束縛と解脱は対立的なものですが、「真の解脱は束縛と解脱とを対立的に見ないで、より高次な次元に立ってこれを観るのです」。いわゆるそれは「自縄自縛」の状態からの解放を意味します。なぜなら「わたしたちの心をかんじがらめに縛って動きがとれないようにしているのは」自分自身にほかならないからなのです。

 また仏教では宇宙法則というものを自然科学のように人間の主観とは全く別の、そして外にある客観的必然性的諸規則と捉えるのではなく、独自の意志=霊意をもつ永遠の生命体の法=真理と捉えているようです。さらに鎌田さんの『維摩経』の解説によれば、その「宇宙の霊性は肉眼では見ることはできませんが、第六感においてとらえることができる」のだそうです。ただし、そうしたことができる人とは、「選ばれた人しかいない」のだそうですが。

 宮沢さんも自己の法華経信仰の土台にはそうした宇宙意志=法=真理という仏教的真理観をもっていました。そのことを1929年12月(日付不詳)の小笠原露さんへの手紙の下書きの中で表明しています。またその文章は農学校の教師時代以降の宮沢さんの人生行路を理解する上でも重要なヒントが示されていますので、少々長い引用となるのですが、ここで必要となる参照を超えている部分を含めて引用をしておきたいと考えます。

 「やうやくあなたも私の弱点がはっきりお見えになったやうで大へん安心いたしました。何べんも申しあげてゐる通り私は宗教がわかってゐるでもなし確固たる主義があって何かしてるでもなしいろいろな異常な環境(質屋とか肺病とか中風とか)から世間と違った生活のしやうになった(強い人ならばならなくて済む訳です)だけのことでいまでもその続きなのです。文芸へ手は出しましたがご承知でせうが時代はプロレタリヤ文芸に当然遷って行かなければならないとき私のものはどうもはっきりさう行かないのです。心象のスケッチといふやうなことも大へん古くさいことです。そこで只今としては全く途方にくれてゐる次第です。たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したい考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学のいづれによって行くべきかという場合私はどうしても前者だといふのです。すなわち宇宙には実に多くの意識の段階があり最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。ところがそれをどう表現してそれにどう動いて行ったらいゝかはまだ私にはわかりません」(新校本『宮澤賢治全集第十五巻』)。

 宮沢さんを愛し、宮沢さんと同じように行動したいという小笠原露さんへのそうした思いを断念してほしいとの返答を意図した手紙の下書きがこの引用文なのでしょう。そしてその中で、宮沢さんは、自分はそれまであらゆる生物の幸福を実現しようとする宇宙意志の存在を信じてきたことを告白しているのです。

 その宇宙意志というものを『春と修羅』の中で宮沢さんはどのように探究しようとしていたのでしょうか。鎌田さんが指摘していた第六感というのではなかったようです。すなわち、心象スケッチという方法でした。そして、宮沢さんはその方法による見方の特徴を、『春と修羅』の「青森挽歌」という作品の中で「すべてあるがごとくあり」という一句で表現していました。宮沢さんは言います、

 「まだいってゐるのか

  もうじきよるはあけるのに

  すべてがあるがごとくにあり

  かがやくごとくにかがやくもの

  おまへの武器やあらゆるものは

  おまへにくらくおそろしく

  まことはたのしくあかるいのだ」と。

 

                 竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン