シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

『春と修羅』を読んでみる(4)

 「すべてがあるがごとくにあり」ということを心掛けている観察法に依る心象スケッチがどのようにして宇宙意志の把握につながっていくのでしょうか。それは、鎌田さんが言う第六感ではなさそうです。むしろ「わたしたちのような凡夫」はどのようにしたら宇宙意志に近づくことができるかということに関する鎌田さんの解説が参考となるでしょう。

 鎌田さんはその答えを、「菩薩がありとあらゆる形に身を現ずるということを、日常生活の中で考え」ることで次のように提示しています。すなわち、「それは相手の立場になってものを考え、同感し、共感できる人間になることです。どんな相手に対しても平等に接しあえる人間になること」なのです。

 「さらに、『不可思議解脱』に住する菩薩は、ありとあらゆる世界のさまざまな音声を聞くことができるようになります。音にはよい音もあるし、いやな音もあります。どんな音もみな仏の声に変えることができるのです。あらゆる音を無常(むじょう)の音、苦(く)の音、空(くう)の音、無我(むが)の音に変えることができるのです」。

 ここまで個人の心象が宇宙意志というものをどのように捉えるのかに関する鎌田さんの解説を参照してきましたが、その内容は社会学における感情コミュニケーションの理論そのものであることに気づかされます。社会学においてもあらゆる人間関係の基礎には感情交流・コミュニケーションがあると考えます。その理論の中心的概念が共感(sympathy)なのです。それは、まさしく鎌田さんによれば、菩薩の他存在とのコミュニケーションの在り方を示すものです。

 相手の立場に立って相手の気持ちを想像し、それが当人の感情と一致する程度によって感情のコミュニケーションが成立するというのが共感であると社会学も考えてきました。しかし、社会学の場合は、その概念は人間関係に限定されています。ところが仏教の場合は、宇宙におけるあらゆる存在とのコミュニケーション原理、それが共感の意味するところのようです。

 「すべてはあるがごとくにあり」とは、言い換えれば、すべての存在は宇宙意志に支えられて存在しているということではないでしょうか。それだからこそ、個人の心象は共感力によってすべての存在とコミュニケーションが可能となると言うのでしょう。そうした心象スケッチによる森羅万象を対象とした「詩」作は、文学論として見るときどのような特質を帯びることとなるのでしょうか。

 「すべてがあるがごとくにあり」という姿勢によって宇宙における森羅万象と向き合うという姿勢は、文学論としてみると、ときに弱点となるようです。事実、『春と修羅』の多くの作品は、文学的な詩として見た場合、あまり評価に値しないと論じられることがあるようです。

 これまで読むことができた先行する研究書の中では、2020年発行の『宮澤賢治論』の著者である中村稔さんがそうした指摘を行っています。中村さんは言います、

 「宮沢賢治が天才的詩人であり、いくつかの絶唱ともいうべき作品を遺したことは知らいる」のですが、「『春と修羅』という詩集を通読し、私(中村さん)はごく少数の作品を除き、いかなる感興も覚えない作品でこの詩集が占められていることに驚いている」[( )内は引用者によります。]のですと。

 具体的な作品に対する批評にも厳しいものがあります。「屈折率」に対しては、「この作が一人よがりの作であることは否定できまい。詩情のふくらみもここには欠けてい」ます。「くらかけの雪」は、「作者本人にとっては切実な感情かもしれないが、内容が乏しい。末尾の一行も蛇足のようであ」りますと。非常に厳しい批評のように思えます。

 そして、中村さんは『春と修羅』に関して総括的に次のような批評を行っています。「いったい『春と修羅』全編をつうじ、感興に乏しい作が多いのは、作者と妹トシを除き、人間が描かれていないことにあ」ります。「『春と修羅』における宮沢賢治は人間を風景の中の一要素としてしかその詩の中で描かなかった」のです。

 『春と修羅』を詩集として見ると、文学的にはときとして厳しい、批判的論評を浴びせられる場合もあるのでしょう。しかし、それは実は新仏教経典創造のための素材創作品であると見れば、「すべてがあるがごとくにあり」という「観想」法を文学的に表現することは、まさしく目的に適った方法であると言えるようなのです。

 『空と無我 仏教の言語観』の著者である定方晟さんは、そのことを「仏教の悟りとは『平凡への回帰』」であると論じています。すなわち、

 「仏教の悟りが恍惚とは無縁であることは、わたしは自信をもっていうことができる。仏教者にとっては、真理は平凡なもの、日常的なものである。だから、かれらはかれらが到達した境地を示すのに、次のような言葉を愛好する。『日日(にちにち)これ好日(こうにち)』……、『廓然無聖(かくねんむしよう)』……、『平常心(びようじようしん)これ道(どう)』……、『柳はみどり、花はくれない』」というようにです。

 さらに定方さんは、「宋の詩人蘇東坡(そとうば)の詩も」例示のために紹介しています。和訳した文だけ引用しておきたいと思います。

 「廬山(ろざん)は霧雨(きりさめ)、浙江(せつこう)は海嘯(しおつなみ)

  まだ見ていないときは見たくてたまらなかった

  やっと見てきたが、とくに変わったことはない

  廬山は霧雨、浙江は海嘯」

 宮沢さんも、「真理は平凡なもの、日常的なもの」ということを心掛け、日々観察し、自分の心に浮かんでくる心象風景をそのままスケッチしていっていたのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン