シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校教師を辞める(3)

 1925年前後の時期、すでに言及したことなのですが、宮沢さんは静かな、しかし大きな時代変化の歴史的うねりの動きを感じていたのではないでしょうか。トルストイさんの代表作のひとつである『戦争と平和』の「エピローグ」の冒頭、次のように書きだしています。

 「一八一二年から七年がすぎた。荒れ騒いだヨーロッパの歴史の海はそれぞれの岸におさまった。それはしずまったかに見えた。しかし人類を動かす神秘的な力は(その運動を定める法則が、われわれに知られていないために、神秘的なのである)、その活動をつづけていた」。

 「歴史の海の表面は凪(な)いでいるかに見えたが、時の流れと同じように、とどまることなく、人類は動いていた。さまざまな党派の人間の集団が結びついたり、はなれたりして、国家の成立と崩壊や、民族の移動のもろもろの要因が醸成されていった」のですと。

 宮沢さんが農学校教師を辞めようとしていた1925年前後の時期もまた同じ歴史の海の流れが感じられる時代だったのではないでしょうか。吉田司さんが作成した宮沢さんに関する年表によれば、1925年という年の出来事とは以下のようなものでした。

 「四月 治安維持法公布

  七月 中国広州の嶺南大学に学んでいた草野心平が帰国、草野の勧誘で同人誌『銅鑼』の同人になる

  ……

  一二月 農民労農党結成(書記長浅沼稲次郎)即日結社禁止」

 この年表が示しているのは、この時期、宮沢さんが虚無主義社会主義に接近していったことではないかと思います。文学的には、トルストイさんだけでなく、ドフトエフスキーさんの影響をも意識するようになっていったように感じます。

 この頃宮沢さんが社会主義に接近していったことに関しては、さまざまな側面から論じられてきたようですが、これまで度々参照させていただいてきた岡田さんは、宮沢さんがエスペラント語を学習し始めたことが、宮沢さんの社会主義への接近を示していると論じています。岡田さんは次のように論じています。

 「ポーランドの絶対平和主義者ザーメンホフによって創始されたエスペラント語の運動は、社会主義者大杉栄らの手によって初めて我が国に紹介されたものであるが、日露戦争後、ロシアのトルストイアンの呼びかけによって、二葉亭四迷が果たした役割も大きい。四迷は我国で最初の『世界語』というパンフレットまで出版している。日本に伝えられた後のエスペラント平和運動は完全に進歩的階級の手によって受けつがれてきた」のです。

 そして、「これら進歩的エスペランティストのほとんどが、大正末期の社会主義運動に参加することにもなる」のです。「このような背景を持つエスペラント語に、あらゆる生物の究竟の幸福を理想とした賢治が接近したことはしごく当たり前」えだったのではなかったかと岡田さんは言います。

 ここまで宮沢さんがなぜ農学校の教師を辞めたのかという問いをめぐる先行の研究を参照してきましたが、その結果、この時期いかに宮沢さんの仏国土建設のためのもろもろの意味での内面的な成熟が進行していたかが理解できたのではないかと思います。

 そこで、次回では、当時の農学校の生徒の進路をめぐる状況と宮沢さん自身の新たな農業人教育構想の成熟という視点で、農学校教師を辞しての新たな活動への転身という出来事を考察してみることにしたいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン