シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

農学校教師を辞める(6)

 農学校の教師の職を辞して具体的に何をするのかについて宮沢さんは、辞める以前から具体的な構想をもっていたのではないでしょうか。樺太で仕事をしている教え子に生温い教師の職を辞め「本統の百姓」になることを知らせた手紙の日付は、ほぼ辞める1年前にあたる1925年4月13日でした。その年の6月25日付の心友保阪さんへの手紙中でも、「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます」と宣言しています。

 そして、前者の手紙においては、「本統の百姓」になると宣言した後で、「小さな農民劇団を利害なしに創ったりしたいと思ふのです」とその構想の一端を披歴しています。さらに、同年7月25日づけの弟である清六さんへの手紙では、「こっちには愉快な仕事がうんとある。大いに二人でやらうでないか。おれたちには力があるし慾はない。うまく行っても行かなくてもたのしく稼がうでないか」と誘っているのです。

 ではそのとき、宮沢さんは「本統の百姓」になるということで、またうんとある「愉快な仕事」ということ具体的にどのようなものを考えていたのでしょうか。そのことに関しては、同年6月27日付の斎藤貞一さんあての手紙で次のように言及していました。それは病気から快復したばかりの斎藤さんに仕事の世話をしようとしたことばではないかと推測されるのですが、

 「何かからだをひどく使はないでできる技術的な仕事と思って考へてゐますが、そしてこれからのいよいよ専門化する農業分科の中にはさういふものも当然あるとは思ひます」と書いています。そしてそのことばは、宮沢さん自身にも話しかけようとしているものだったのではないでしょうか。

 実際、宮沢さんは、肥料相談所の開設や花壇の設計などの仕事を行っています。さらに、農学校の教師を辞める時期は、当初1926年の3月末ではなく、校長であった畠山さんが転任するのと同じころを予定していたのではないかと思います。1925年12月23日付森佐一さん宛の手紙には、

 「ご親切はまことに辱けないのですがいまほかのことで頭がいっぱいですからどうかしばらくゆるして下さいませんか。学校をやめて一月から東京に出る筈だったのです。延びました」とあります。

 何をするために宮沢さんは、1月に東京に出ようとしていたのでしょうか。後の宮沢さんの行動から推測するならば、「本統の百姓」になり、無料の農業塾のようなものを実践するための準備のためだったのではないでしょうか。

 それが延びてしまった理由は、岩手県国民高等学校が開設され、宮沢さんが「農民芸術論」を担当することになったためだったのではないでしょうか。1926年1月から農学校を辞める3月末まで、11回にわたってその講義を行っています。そして、その講義の内容こそ、宮沢さんが農学校の教師を辞め行いたかったことがどのようなものであったのか示しているのではないかと考えます。

 またそれは、トルストイさんが自己の「芸術論」で論じている、自然を相手とする生産労働、科学、芸術、そして宗教に関する関係論を踏まえたものだったのではないでしょうか。『新校本宮澤賢治全集第四巻』にある「農民芸術の興隆」の宮沢さんが論じようとした項目を参照しておきたいと思います。それらの項目とは、

 「……何故われらの芸術がいま起らねばならないのか……

    曾ってわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた そこには芸術も宗教もあった」

 「いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである」

 「宗教は疲れて科学によって置換され 然も科学は冷たく暗い」

 「芸術はいまわれらを離れ多くはわびしく堕落した」

 「いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである」

 「われらに購ふべき暇もなくまたさるものを必要とせぬ

  いまやわれらは新に正しき道を行き われらの美を創らねばならぬ」

 「芸術をもてあの灰いろの労働を燃せ」

 「ここにはわれら不断の浄い創造がある」

 「都人よ来ってわれらに交れ 世界よ他意なきわれらを容れよ」

 以上のような項目をもつ「農民芸術論」こそ、後の宮沢さんの羅須地人協会の活動指針を構想したものでもあったのではないかと考えられます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン