シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

羅須地人協会を設立する

 宮沢さんはいよいよ1926年3月に農学校を辞職し、農耕に従事し、自炊生活を開始します。6月には、『農民芸術概論要綱』を書いています。そして、8月、羅須地人協会を発足させるのです。同時に、無料の肥料設計事務所も設立しています。

 宮沢さんはどのようなことを成し遂げようとして羅須地人協会を立ち上げたのでしょうか。それは、設立の宣言書である『農民芸術概論要綱』にあります。果たすべき目標はその冒頭の所に次のように宣言されています。

 「おれたちはみな農民である ずいぶん忙がしく仕事もつらい

  もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」のですと。

 そのために必要なことが、宮沢さんによれば、農民こそが自らの手で今では堕落してしまっている宗教と芸術を取り戻すことだと言うのです。宮沢さんは宣言します。

 「いまやわれわれは新たな正しき道を行き われわれの美をば創らねばならぬ

  芸術をもてあの灰色の労働を燃せ

  ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある

  都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」というようにです。

 そうした宣言文には、ようやく自分自身の手で仏国土建設の事業を開始できることへの若き宮沢さんの燃え上がるような熱情がほとばしりでている心情が感じられるものとなっています。しかし、宮沢さんの羅須地人協会の活動は早々にとん挫を余儀なくされていくことになります。宮沢さんの活動を阻止することになる高い高い壁が立ちはだかったのです。

 第一の高い壁は当時の軍国主義の政治体制という壁です。農林省を勤め上げた和田文雄さんは、自著の『宮沢賢治のヒドリ――本当の百姓になる』の中でそのことを次のように紹介しています。

 宮沢さんの羅須地人協会の活動が「社会主義の教育を行っている。と風評されたこと日時不明だが、花巻警察署の事情聴取」などが起こったのです。そのため、1927年2月1日の「岩手日報の夕刊に、写真入りで賢治の活動が掲載されたが、会員に『誤解を招いたことはすまないことです』と口調重々しくかたり、オーケストラを一時解散し、集会も不定期になって」いったというのです。

 第二の壁は、地元の多くの農民の人たちから快く受け入れてもらえなかったことです。多くの先行研究が指摘してきていたように、むしろ白眼視されてしまったのです。このことで宮沢さんは心に大きな傷を負うことになりました。

 もともと、羅須地人協会は宮沢さんが教師をしていた農学校の学生たちが誇りをもって農業に従事することができるようにとの思いで設立されたものです。事実羅須地人協会の活動に集まった人たちは農学校の出身者や当時としては高い教育を受けたものたちであったと言われています。『春と修羅第三集』に次のような詩があります。「同心町の夜あけがた」と題するものです。

 「われわれ学校を出て来たもの

  われわれ町に育ったもの

  われわれ月給をとったことのあるもの

  それ全体への疑ひや

  漠然とした反感ならば

  容易にそれは抜き得ない」

 これらのことに関して和田さんも次のような指摘を行っていました。和田さんは言います、

 「この頃の賢治の思考の落差、段差また実際の生活と描かれた未来とには現実と夢想とが混在している。しかし何から落ちぶれたのかというとそれは『農』との関連、または農業である。それは農学校にも通えずましてや高等農林学校の教育をうける事などありえない九割九分の農家の子供たちの存在であり、幼児期から田畑で働き家畜を飼う手伝いをして成長してきた子供達とその親たちがいることに気づきそれに近付いていない。賢治は煩悶と自嘲のくらしのなかにあった」のですと。

 確かにこのとき、宮沢さんの頭の中は新しい農民芸術を創造しようとすることで一杯いっぱいの状態だったと思います。そして、『春と修羅第一集』出版のときもそうでしたが、そうした自分の考えは非常に素晴らしいもので、世間からももろ手をあげて受け入れてくれるはずだと、勝手に思い込んでいたものと推測されます。和田さんが指摘されているように、貧困に喘いでいた農民の人たちとその子どもたちは目に入っていなかったことでしょう。

 しかし、そうであるにもかかわらず、宮沢さんの宮沢さんらしいところは、当時の激しい天候不順による災害とも言うべき状況と、肥料設計と営農相談という形で自分の健康を毀損し命を削っても闘いつづけていったということではないかと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン