シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの肥料設計や営農相談という仕事

 宮沢さんの肥料設計や営農相談に関する諸活動については社会的にどのように評価されているのでしょうか。激しい毀誉褒貶の評価に分かれているようなのです。農業関係者、農業に知識のある人、または専門家の人たちの評価は厳しいものとなっているようです。

 私が目にすることができたものだけでも、以下のような厳しい批判的評価がありました。「饗宴」という宮沢さんの詩の作品があります。その一文に、「(紫雲英(ハナコ)植れば米とれるてが/藁ばかりとったて間に合ぁなぢゃ)」とあります。この一文に対して、典型的な岩手の農家出身の佐藤さんは、「無智で野卑な発言」と少し憤りを滲ませて批判しています。

 農林省畑を長く歩んで来た和田さんは、その佐藤さんの批評を宮沢さんは承知していたのではないかと推測しています。その上で、もし宮沢さんが「知っていなければ肥料設計は単に高等教育でえた机上の知識」でしかなくなってしまうのではないかと言明するのです。

 あまりにも聖人化されてきたことにたいして等身大の宮沢さんの姿を取り戻したいという目的で宮沢賢治論を論じて来られた鈴木さんは、宮沢さんの肥料設計や営農相談の実態を次のように批評しています。

 「その実態は、ここ10年間程の私の検証結果によれば、同時代の賢治は農民たちに対して幾何かの熱心な稲作指導を確かにしたがそれは教え子等の限定された、比較的裕福な農家に対してのものであり、しかも、それ程徹底していたものでもなければ継続的なものでもなかった、まして貧しい農民たちに対してのものではあり得なかった」のですと。

 もともと教え子に頼られて肥料設計の仕事を宮沢さんは始めたのではないでしょうか。自分の力が認められ頼られるとなかなか嫌と断ることができず、しかも、そのことに全力で取り組み、その結果に責任も感じてしまうところが宮沢さんの、ときに自分を追い込んでしまう性格だったように感じます。

 肥料相談や営農相談は何が何でもやりたかった活動だったのでしょうか。やはり教え子などから依頼され、少し自信もあったことから気軽に、宮沢さんの健康や体力のことを考えるとあまりにも安易に引き受けてしまったようにも思えるのです。後に自分の健康を害するまで苦しむことになることなど考えてもみなかったのだと思います。むしろ当初自分の専門が活かせる「楽しい仕事」ととの思いもあったのではないかとさえ感じます。

 『春と修羅第二集』の「序」に次のような記述があります。それは、「けだしわたくしはいかにもけちなものでありますが/冬はあちこちに南京ぶくろをぶら[さ]げた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして/おれたちは大いにやらう約[束]しやうなどいふよりは/も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから」という記述です。

 この記述によれば、宮沢さんは、「水稲肥料の設計事務所」の仕事を「下等な仕事」と感じていたようなのです。では、宮沢さんが感じる上等な仕事とは何なのでしょうか。それは、文学作品の創作の仕事だったのではないかと推測します。それでも、頭がいっぱいになるほど頑張ってしまっているのです。

 しかし、宮沢さんが直面した天候不順はそうとう手強いものだったのでしょう。宮沢さんの肥料設計が全く歯が立たず、ショックを受けうろたえてしまった自分の気持ちを綴った詩の作品があります。『春と修羅第三集』の「[もうはたらくな]」がそれです。

 「もうはたらくな/レーキを投げろ/この半月の曇天と/今朝のはげしい雷雨のために/おれが肥料を設計し/責任にあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ/稲が次々倒れたのだ/働くことの卑怯なときが/工場ばかりにあるのでない/ことにむちゃくちゃはたらいて/不安をまぎらかさうとする、/卑しいことだ」

 この詩によれば、宮沢さんが天候不順の際、「むちゃくちゃはたらいた」のは、自分に責任があると感じていた肥料設計が役にたっていないことに対する「不安をまぎらかさう」としたためだったのです。宮沢さんという人がどのような人だったか感じない訳にはいきません。

 その後宮沢さんは自分の肥料設計に少し自信を失くしたようです。軍役に就く菊池信一さんに「南無妙法蓮華経」を唱えることを手紙のなかで薦めていますが、その中で肥料設計についても触れています。それは、1930年1月26日付の手紙です。

 南無妙法蓮華経と、「どうにも行き道がなくなったら一心に念じ或はお唱ひなさい。こっちは私の肥料設計よりは何億倍たしかです」と綴っています。

 肥料設計に関して少し自嘲ぎみになっているのでしょうか。でも宮沢さんは依頼者がいる限り、死の直前まで、病床にあってもこの肥料設計のしごとをつづけています。それだけでなく、手紙で肥料設計に関する講習会の機会や肥料に関する教科書の依頼をするなど、研鑽を積み重ねようともしています。

 何事も極めつくそうとする宮沢さんの姿勢をそのことにも感じざるをえません。素晴らしいの一言に尽きます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン