シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

自然との闘いから宮沢賢治さんが学んだこととは(1)

 宮沢さんが羅須地人協会で始めた肥料設計と営農相談、そして東北砕石工場での「セールスマン」としての活動は、それを意図して始めたのではないのですが、結果として天候不順という当時の猛威をふるう自然との闘いでした。そして、宮沢さんは自分が病に倒れたこともあって、その闘いに敗北したことを自らも認めることになるのです(ただし、東北砕石工場におけるセールスマンとしての活動については再度振り返って考察したいと思います。)。

 1932年6月の宛先不明の手紙の中で昨年の天候不順による惨状の最中、宮沢さんは自分自身を「敗残の私」と表現しています。すなわち、

 「只今の県下の惨状が今年麦や稲がとれる位の処でどうかなるとは思はれません。まあかうなっては村も町も丈夫な人も病人も一日生きれば一日の幸と思ふより仕方ないやうに存じます。殊によれば順境の三十年五十年より身にしみた一日が重いやうにも存じます。それにしてもどうしてもこのまヽではいけないと思ひながら、敗残の私にはもう物を云ふ資格もありません」と記しているのです。

 さらに同じ手紙の中で、自分の健康への願いに関して次のようなことをしたためています。すなわち、「からだが丈夫になって親どもの云う通りも一度何でも働けるなら、下らない詩も世間への見栄も、何もかもみんな捨てヽもいヽと存じ居ります」と。

 この手紙に表明されている思いこそ、宮沢さんのかの有名な「雨ニモマケズ」の思いそのものだったのではないでしょうか。「雨ニモマケズ」の内容をどのように読み解いていったらよいかについては、もう少しあとになって考察してみたいと思います。ここでは、それは単なる敗北宣言にすぎないものだったのだろうかということについて考えておくことにしようと思います。

 宮沢さんは常に自分の人生と人生の中で起こる出来事から何かを学びつづけていった人なのではないかと考えます。では自然の猛威との闘いからは何を学びとったのでしょうか。まず何よりも自分が驕り高ぶっていたことを悟ったのではないかと思います。1930年4月4日付高橋武治さん宛の手紙にその気持ちが記されています。

 「私も農学校の四年間がいちばんやり甲斐のある時でした。但し終りのころわづかばかりの自分の才能に慢じてじつに虚傲な態度になってしまったこと悔いてももう及びません。しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあったのです」と。

 この文章には、宮沢さんの悔やんでも悔やみきれない反省の気持ちがにじみ出ています。同様の気持ちを表明しているのが、1933年9月11日付柳原昌悦さん宛の手紙です。この日付はいわば宮沢さんのある意味での遺言と言ってもいいのかもしれません。この手紙には宮沢さんの反省のことばが次のように記されています。

 「私のかういふ惨めな失敗はたヾもう今日の時代一般の巨きな病、『慢』といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものでもあるかと思ひ、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かヾ空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たヾもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です」と。

 そして人はどのように生きるのがよいのかについて次のように呼びかけます。

 「風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい」と。

 この一文は、これまで自分には何が欠けていたのかについて思いを巡らしている宮沢さんの痛切な反省の気持ちが込められているように感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン