シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

ほんとうの幸せを求めて

 宮沢さんが仏国土の建設でめざしたものとは、「みんなの幸せ」を実現するというものであったと言われています。また、宮沢さんは、「ほんとうの幸福」と何かを探求しつづけていたとも言われています。では、宮沢さんは、「みんなの幸せ」を実現するための道や「ほんとうの幸福」とは何かについてどのようなものであるかについて発見することができたのでしょうか。

 結論から言えば、見つからなかった、分からなかったというのがこれまで言われてきたことではないかと思います。『明日への銀河鉄道―わが心の宮沢賢治』の著者である三上満さんもそう結論づけています。

 三上さんは、宮沢さんの「ほんとうの幸い」の探求は未完に終わったとして、次のように論じています。「『銀河鉄道の夜』は未完の作である。『ほんとうの幸い』に至る道の探求は苦闘の末挫折に終わった。しかしその苦闘があったからこそ、胸打つ名作となったので」すと。

 羅須地人協会における活動以降の宮沢さんの人生の特徴は、多くの部分闘病生活をつづけていたということではないでしょうか。それは、病床に臥せっていないで社会活動をつづけているときでも、常に体調の病化・悪化と闘いつづけなければならなかったものと思います。

 そうした状態のなかだからこそ、宮沢さんが人間の幸福とは何かについて新たに感じ取っていったことが、多々あったのではないかと推測されます。その感じ取っていったいくつかについて、この時期の宮沢さんの手紙から拾ってみようと思います。

 まず直接幸福ということばが使われている一文を参照してみましょう。それは、1930年3月30日付の菊池信一さん宛の手紙の一文です。それは、

 「私の幸福を祈って下すってありがたう、が、人はまはりへの義理さへきちんと立つなら一番幸福です。私は今まで少し行き過ぎてゐたと思ひます」というものです。

 ところでこの一文にある「私は今まで少し行き過ぎてゐた」とはどのようなことを意味するものなのでしょうか。それは、おそらく世間一般的に人が歩んでいる社会生活を犠牲にして自分がやりたいこと、自分が信じ、価値あると考えてきたことを優先した生活をおくってきたということではないかと推測します。

 例えば、1932年6月と推定されている宛先不明の手紙では、宮沢さんは、「からだが丈夫になって親どもの云ふ通りも一度何でも働けるなら、下らない詩も世間への見栄も、何もかもみんな捨てゝもいゝと存じ居ります」と言い放っています。

 さらに、多くの先行研究者の方々が言及している1933年9月11日付柳原昌悦さん宛の手紙の一文があります。その日付は宮沢さんが亡くなる直前のもので、その手紙の中で宮沢さんは、自分の「惨めな失敗」は「今日の時代一般の巨きな病」である「『慢』というものの一支流に過って身を加へた」ためであることを告白しているのです。

 その中で次のように言っています。「風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の技にも均しいものです」と。

 このとき、宮沢さんは、体が健康・丈夫で働き、日常生活がおくれることがいかに幸せなことなのであるかについて実感していたのではないでしょうか。そうして柳原さんに呼びかけます。「一時の感激や興奮をさけ、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」と。

 宮沢さんは、また生き続けていくことの大切さと、それがいかに幸せなことであるのかということについても実感していっていたのではないかと思います。宮沢さんの晩年の時期というのは、宮沢さん自身も宮沢さんが暮らしていた地域社会もある意味非常に病んでいました。

 地域社会に関して言えば、「まあかうなっては村も町も丈夫な人も病人も一日生きれば一日の幸せと思ふより仕方ないやうに存じます」という状態でした(1932年6月と推定されている宛先不明の手紙の下書)。

 宮沢さん自身についても、「私も去年の秋から寝ったきり、咳と痰がひどくもう死んだ方がいゝと何べん思ったか知れません。けれどもやっぱり一日生きれば一日の得」(1932年夏頃と推定されている手紙の下書)。という状態だったのです。

 そうした社会や自分自身の状況から、この時期宮沢さんは生きつづけることの大切さと幸せを実感していたのではないでしょうか。しかし、この時期宮沢さんがどのような幸福観をもつようになっていたのかということを考える上で、宮沢さんの家族の大切さへのあらためての気づきという契機を見逃すことはできないと考えます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン