シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

デクノボーの叡知とトルストイさん

 今福さんが言う宮沢さんが理想自我とするデクノボーの叡知を、宮沢さんはどのようにして自分のものとしていったのでしょうか。そして、「雨ニモマケズ」の書付けとしたのでしょうか。

 まさしくそれにはさまざまな、もしかしたら決して判断することができない諸要因が絡んでいるものと思われます。生まれもった性格、宗教的家庭環境、そして幼いときから人のために働きなさいと育てられてきたことなど、宮沢さんの人生の歩みそのものが、ある意味デクノボーの叡知を自分のものとする旅路だったのではないでしょうか。

 ここでは、それら考えられる影響・要因として、トルストイさんとドストエフスキーさんの影響について見ておくことにしようと思います。今福さんが表現したデクノボーの叡知に相当する人間性について、町田宗鳳さんは、「愚者の知恵」と表現し論じています。

 町田さんは、『愚者(ぐしゃ)の知恵(ちえ) トルストイ『イワンの馬鹿』という生き方』の著者の方です。この著作の中で、町田さんは、現代社会を生きている私たちの生き方を見直すヒントを見出すことができることを願って、「『イワンの馬鹿』をはじめとする小さな民話を綴(つづ)った」トルストイさんの作品シリーズのいくつかを紹介しています。

 そしてその著作の「はじめに」の個所で、それらトルストイさんの作品シリーズの訳者である北御門二郎さんの次のような言説を紹介しているのです。すなわち、北御門さんによれば、

 「トルストイの民話は、……《一宗一派に捉(とら)われぬ純粋理性宗教としてのキリスト教のすぐれた解説書》であり、《神の国を地上にもたらすための平和革命の書》である。そしてそれはそのまま仏陀(ぶつだ)の慈悲に、孔子(こうし)の仁に、老子(ろうし)の道に通じている」のです。

 生まれ故郷である岩手県仏国土を建設することを夢見て生きていた宮沢さんが、「神の国を地上にもたらすための平和の革命書」の著者であるトルストイさんから多くを学んできたのではないかということは、これまでも度々言及してきたところです。

 では、「『イワンの馬鹿』をはじめとする小さな民話」は、どのような意味で、私たちにとって「平和革命の書」なのでしょうか。町田さんによれば、それは、「『イワンの馬鹿』とそれと連なるトルストイの作品は、どこまでもエゴイスティックな私たち自身の姿を、ありありと映し出してくれる心の鏡だ」からなのです。

 同じく町田さんによれば、人間であれば誰しもがもっている「エゴというのは、それほど恐ろしいものなのです。人生が辛いというのも、じつのところ、人生そのものに原因があるのでなく、エゴが人生を辛くしているのです。しかし、エゴがあらゆる不幸の原因とわかっていても、そのエゴを捨てることができないのが、わたしたち人間です。救いがたいまでの凡夫(ぼんふ)の愚かさ」なのです。

 町田さんはさらに追及します。「人間が他者に見せるあらゆる傲慢(ごうまん)は、強烈なエゴを持ちながら、それを自覚できないままでいる自分に対する無知に原因して」おり、そういう「自分に対して無知な人間こそが、善人のふりをしながら、他者に対して、もっとも冷酷なことをやってのけるのです」と。

 エゴ人間に対して、「愚者の知恵」をもった人が創る人生と世界は、すきとおった美しい人生であり、世界なのです。そして、そうした人生と世界をつくることをめざして修行している存在こそ、キリスト教の天使たちであり、仏教の菩薩たちおよびそれらの人たちが創造する「神の国」であり「仏国土(極楽浄土)」なのです。

 町田さんは言います。そうした天使や菩薩たちがすんでいる「天国や仏界から見れば、人間の住む世というのは、戦慄(せんりつ)を覚えるほど、醜く、苦しい世界ではないでしょうか」と。

 ここまで「イワンの馬鹿」をはじめとするトルストイさんの一連の民話に関する町田さんの言説を参照してきましたが、草山万兎(河合雅雄)さんの『宮沢賢治の心を読む』には宮沢さんの一連の童話作品に関するトルストイさんの上記の作品に対する町田さんの理解と同種の理解が示されています。

 『宮沢賢治の心を読む』は4冊の文庫本シリーズで、著者は、草山(河合)さんです。このシリーズ本には宮沢さんの童話作品のうち17の作品が取り上げられており、同時にそれぞれの作品をどのように読んだらよいのかについての草山(河合)さんの解説が付されています。

 それらの解説の中のひとつで「双子の星」の解説に次のような一文があります。それは、「賢治さんは深く心にくい入った『我が毒』に悩みました。しかし、それを無理に取り除こうとするのではなく、生涯追い求めた『まことのことば まことのこころ』を育てる培地でもあると考えていたのだと思います」。

 そのため「賢治さんは『我が毒』に悩みつつ精進(しょうじん)する自分を修羅(しゅら)になぞらえてい」たのですというものです。この解説から、草山(河合)さんは宮沢さんの一連の童話「作品は、どこまでもエゴイスティックな私たち自身の姿を、ありありと映し出してくれる心の鏡」であるとみていたのではないかと推測されます。

 『宮沢賢治の心を読む』は、草山(河合)さんの次のような思いが込められている著作です。すなわち、草山(河合)さんは、この著作で、

 「賢治は高等農林学校の理系の人にもかかわらず、評者のほとんどが文系の人で、生物学的視点が往々にして抜けていると思います。そこで子どもむけに書くこと、と生態学の視点からとらえることの二点に足を下ろして蛮勇をふるってみ」たそうです。

 そうした性格をもった宮沢さんの童話解説は非常に興味あるものと感じます。同時に、宮沢さんが自分の文学作品の中で何を求めようとしているのかということに関しては、文科系的視点からでも、理科系的視点からでも、同じ結論に収斂していくことになることも確認することができたと感じることができました。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン