シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

無条件に美しい人間の探究

 「完全に美しい人間を描くこと」が長編小説『白痴』を創作したドストエフスキーさんの意図でした。そこでここではさらに、ドストエフスキーさんが「完全な美しい人間」とはどのような人であると考えていたのか、少ししつこいかもしれませんがそのことを追及しておきたいと思います。幸い、読んだ『白痴』にはその「解題」があり、そのことに関するドストエフスキーさん自身の構想が紹介されています。

 それを参照して繰り返しになるのですが、その意図を実現することが如何に困難な事業であるかについてのドストエフスキーさんの告白を再度確認しておきたいと思います。なぜならば、小説で表現することだけでも非常な困難な事業を宮沢さんは、自分の人生で実際に実現しようとしていたと考えるからです。

 ドストエフスキーさんは言います。「無条件に美しい人間を描くこと……これ以上に困難なことは、この世にはありません。特に現代においては、あらゆる作家たちが単にわが国ばかりでなく、すべてのヨーロッパの作家たちでさえも、この無条件に(⼂⼂⼂⼂)美しい人間を描こうとして、常に失敗しているからです。なぜならば、これは量り知れぬほど大きな仕事だからです。美しきものは理想ではありますが、その理想はわが国のものも、文明ヨーロッパのものも、まだまだ実現されてはおりません。」

 だとすると、「無条件に美しい人間」像をどのように構想したらよいのでしょうか。ドストエフスキーさんによれば、そのモデルとなる人がこれまでの人間の歴史の中でただ一人だけ存在していたと言います。

 ドストエフスキーさんいわく、「この世にただひとり無条件に美しい人物がおります――それはキリストです」と。

 ドストエフスキーさんはさらにつづけて述べます。「したがって、この無限に美しい人物の出現は、もういうまでもなく、永遠の奇蹟なのです(ヨハネ福音書はすべてそうした意味のものです。ヨハネはその化身のなかに、美しきものの出現のなかに、あらゆる奇蹟を見出しています)。」と。

 その上で、ドストエフスキーさんは、「無条件に美しい人間」としてのキリストさんが示してくれた「美しさ」と同種の「美しさ」をもっている人物を描く文学をキリスト教文学と名づけています。蛇足になりますが、ドストエフスキーさんが言うキリスト教文学とは、決してキリスト教の教えを説く文学ではありません。あくまでそれは、キリストさんと同じような「美しさ」を有している人物を描こうとする文学なのです。

 さらにそうした意味でのキリスト教文学の中で、「白痴」を創作するにあたって注目した作品として、ドストエフスキーさんは、「ドン・キホーテ」、「ディケンズのピクウィック」、そして「ジャン・ヴァルジャン」の三つの作品をあげています。同時にそれらの作品は、「白痴」を創作する「無条件に美しい人間」を描くためのどのような戦略をとったらよいのかを考えるためのものでもあるのです。

 ドストエフスキーさんの目からは、「キリスト教文学にあらわれた美しき人びとのなかで、最も完成されたものはドン・キホーテで」、それよりも「無限に力弱い構想ですが、やはり偉大な」作品が「ディケンズのピクウィック」なのです。そしてこれら二つの作品に共通している「美しさ」の要素が、「滑稽である」という性質なのです。ドストエフスキーさんは言います。

 人がよいというだけでなく、滑稽であるということで、「ただそのために人びとを惹きつけるのです。他人から嘲笑されながら、自分の価値を知らない美しきものに対する憐憫が表現されているので、読者の内部にも同情が生まれるのです。この同情を喚起させる術(すべ)のなかにユーモアの秘密があるのです」。

 さらに、ドストエフスキーさんは、「ジャン・ヴァルジャンも、同じく力強い試みですが、彼が同情を喚起するのは、その怖るべき不幸と彼に対する社会の不正によるのです。私(ドストエフスキーさん)の作品にはそのようなものがまったく欠けています」[( )内は引用者によるものです。]とつづけます。

 では、ドストエフスキーさん自身は、「白痴」を創作するにあたって主人公であるムイシュキン公爵をどのように描くことで「美しさ」を表現しようとしたのでしょうか。一言で言って「弱弱しい人間」、それがキーワードです。ドストエフスキーさんは言います、

 ドストエフスキーさんの創作プランでは、「最も主要な、いってみれば、第一の主人公はえらく弱々しいかぎりなのです。ひょっとすると、私の心の中ではそれほど弱々しくはないのですが、とにかく骨がおれます。いづれにしても、これを書くにはすくなくとも二倍の時間が必要」となるのですと。

 これも繰り返しになりますが、「無条件に美しい人間」を描くということは難事業なのだなと思います。ましてや、宮沢さんはどうにかして「無条件に美しい人間」になろうとしていたのですから、その道を見つけ出すのは「本統」にいかばかりか大変なことだったのだろうと考えてしまいます。

 そうした中で、晩年に宮沢さんが見つけたそのための一筋の光が「デクノボーと呼ばれる」(決して木偶の坊そのものではなかったのではないかと推測します)ような人になるという道だったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン