シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人との共感がむずかしくなる世界の中で人とのかかわりを求めて生きる

 人と人、そして人と社会との関係性を探究することを使命としている社会学にとってひとつの大切な課題は、自己利害的欲望が渦巻く現代(市場経済)社会において共感的で、さらに宮沢さんが好んで使用したことばで言えば「まこと」の、すなわち仏法にかなった人間関係や人と社会との関係性を創造する道を探求することではないかと考えてきました。

 そうした社会学の視点で、宮沢さんの晩年における「農民芸術概論要綱」の視点から「雨ニモマケズ」の視点への転換を、宮沢さん個人のそうした「道」の内面的探索の展開史という面から眺めてみるとどのように言うことができることになるでしょうか。

 この問いに関しては、自分は何としても仏法に叶った正しい生き方ができるような(阿弥陀仏様や観音様のような)「偉大な」人間になりたいという「自己欲求」優先の姿勢から人が人である限りどのような人であっても、すなわちすべての人が必ず直面する「生老病死」という他者の「苦しみ」へ寄り添うことで、その「苦しみ」を少しでも和らげてあげたいとする他者の「苦しむ」気持ちへの同じ一人の人間としての共感優先の姿勢への転換であったと答えることができるのではないかと思います。

 たとえそうした生き方が世間からは「デクノボー」と呼ばれるようになるとしてもです。しかも、それは一般的に他者の苦しみに共感し、他者の苦しみの救いや幸せのために「祈る」という行為者ではなく、具体的な個々人に対して具体的な共感する他者として関わることによって、苦しんでいる人が自分には自分を大切に思い、自分の苦しみに寄り添ってくれる他者がいるということを実感し、少しでも喜びの気持ちがもて、苦しみから救われるきもちになれるよう身をもって関わる行為者たらんとするものであったのではないかと考えます。

 その具体的な実践例を示しているのは、ドストエフスキーさんの「白痴」の主人公であるムイシュキン公爵ではないかと思います。ドストエフスキーさんはこの作品の中で、ムイシュキン公爵が不幸のどん底に沈んでいたマリーさんという若い女性を精神的に救い、不幸にして亡くなる前には、深い喜びと幸福感を得ることができるような、住んでいる地域の人たちとの関係性を生み出してあげるというエピソードを描いています。

 「彼女は私たちの村の者でした」。母親は病気を患う「よぼよぼのお婆さん」です。貧しく小さな家で、日常品を売ることで口すすぎをしていました。マリーさんは20歳のその娘さんです。マリーさんはある日フランス人のセールスマンに誘惑され、つれていかれ、あげくに捨てられてしまうのです。

 「彼女は袖乞いをしながら、泥だらけになって、上から下までぼろをさげて、ぼろぼろの靴をはいて家に帰って来ま」す。しかし、娘の行動に激怒した母親から勘当同然に扱われ、食事もろくにたべさせてもらえず、つねに激しいことばで罵倒されるだけなのです。しかも、マリーさんは肺病を患ってもいたのです。

 母親だけでなく、村人たちもマリーさんをのけ者にし、いじめ抜くのです。すなわち、「村の者はみんな彼女をいじめて、誰も前のように仕事をさせてやろうとも」せず、「彼女に唾を引っかけたような具合だったのです。男たちは彼女を女として認めることさえやめ、いつもひどいいやらしいことをい」い、村の「女たちは彼女を責め、罪を数えたて、蜘蛛(くも)かなにか眺めるように、軽蔑の目を投げかけるのでした」。

 マリーさんはといえば、「自分でもそれを万事もっとものことだと思い、自分はなにかいちばん下等な、賤しい人間だと思っていたので」す。それでもマリーさんは、母親の死ぬ間際の時期には、病んでしまった母親の足を毎日洗って看病するのです。しかも、そのことに対して母親はやさしいことばの一つもかけることはなく、マリーさんは耐え忍ぶばかりだったのです。このマリーさんの行いは、宮沢さんが師と仰いだ日蓮さんが嘆いた世間の親子関係とは真逆の関係であり、日蓮さんが求めた関係性です。

 日蓮さんは、世間の親子関係を次のように嘆いたといいます。「親は十人の子をば養えども、子は一人の母を養うことなし。あたたかなる夫(おとこ)を懐(いだ)きて臥(ふ)せども、こごえたる母の足をあたたむる女房はなし」(戸頃重基さんの著作『鎌倉仏教 親鸞道元日蓮』)というようにです。

 そうした(日蓮さんが嘆いたのとは真逆の親子関係の状況にあった)マリーさんを知ったムイシュキン公爵は、マリーさんに次のように寄り添うのです。少々長くなりますが、要約せず全文引用(筑摩書房版『ドストエフスキー全集7』訳者は小沼文彦さんです。)しておきたいと思います。

 ムイシュキン公爵は、「マリー一人きりのときに会おうと長いこと苦心しました。やっとのことで、村はずれの、山路にかかる裏道の、垣根の脇の木陰で、私たちは会ったのです。その場で私は(全財産を売り払ってつくったお金)八フランを手渡して、もうこれ以上は工面できないのだから、大切にするよう言いました。それから彼女に接吻して、なにかよかなぬ下心があるなどと思わないように、また私が接吻するのはなにも恋をしているからではなく、彼女をとても可哀そうに思うからなのだ、そしてはじめから私は彼女を罪があるなどとは少しも考えたことはなく、ただ可哀そうな女(ひと)だと思っていただけなのだと言いました。ここで私は慰めてもやり、またみんなに引き比べて自分をひどく下等な女だとどと考えてはいけないと、思い込ませてやろうとしたかったのです」[(全財産を売り払ってつくったお金)は引用者によります。]というようにマリーさんに寄り添ったのです。

 そうしたムイシュキン公爵のマリーさんに対する行為は、すぐに村人たちに知れわたると同時に、大いなる誤解を招くことになるのです。そのため、その後村人たちは以前よりより一層、公爵だけでなく、マリーさんにもつらくあたるようになっていくのでした。村の人たちはムイシュキン公爵に石や「きたないもの」を投げつけ、「一から十までマリーが悪者にされ」たのです。そのため一見すると公爵の行為がマリーさんをより不幸に陥れる結果をもたらしたと見えるかもしれません。

 そうした状況の中で公爵がとった行動は、「マリーがどんなに不仕合せな女であるかみんなに話してやる」ことです。それは毎日毎日つづきます。やがて、「ときには足をとめて私(ムイシュキン公爵)の言うことを聞」[( )は引用者によります。]くもの、マリーさんに「愛想よく挨拶する」ものも現れてくるようになります。村の人たちが「マリーを可哀そうだと思うようになったのです」。

 マリーさんを世話をする者も出てきます。最初にそのために立ち上がったのは村の子どもたちです。「あるときのこと二人の少女が食べ物を手に入れて彼女のところに持って行ってや」ることもあります。そのとき、マリーさんは「泣き出してしまったそうです」。「マリーはもう幸福でした」。極めつけは、村の子どもたちが大勢でマリーさんのところに通い、「彼女に抱きつき、接吻して……大好きだよ、マリー!……と言って、あとは一目散に駆けて帰って来る、ただそれだけのために駆けつけるのでした」。

 現代社会で果たしてそうした奇蹟は起こるものでしょうか。それにしても小説の中とはいえ、ムイシュキン公爵のマリーさんに対する共感的行為が村の人たちのマリーさんに対する優しい関係性を生み出し、マリーさんに心からの幸福感をもたらしたのです。宮沢さんがこの小説を読んだならば、意地悪をしている村人たちにも「慈悲」の心があり、ムイシュキン公爵のマリーさんに寄り添う行為がその心をひきだしたと解するのではないかと想像してしまいます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン