シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「銀河鉄道の夜」と自己犠牲(1)

 人間を含む生き物はすべて死ぬことによって生物界全体の利他的な存在となるというメッセージがあります。そのメッセージの送り主は、『生物はなぜ死ぬのか』の著者である小林武彦さんです。小林さんによれば、人間を含む生き物は、生き物世界全体の存続と多様性化のために死ななければならないのです。小林さんは言います、

 「私たちは次の世代のために死ななければならないのです」と。そのために生き物は生まれたときから死ぬことに向かって変化していくように自然によってプログラミングされているのです。

 しかし、自分自身も自分を取り囲んでいる世界も一瞬の休みもなく絶えず変化しつづけている(仏教的に言えば、諸行無常)にもかかわらず、自分は永遠的な存在であると感じ思い込んでしまう自我存在なのです。

 さらに、人間は感情をもつ生物です。それが死への恐怖につながっていると小林さんは言います。「ヒトは感情の生き物です。死は悲しいし、できればその恐怖から逃れたいと思うのは当然」なのですと。「やはり自分という存在を失う恐怖」は人間だれにも存在するものなのです。

 ではこの恐怖から逃れる道はあるのでしょうか。生物学者である小林さんの答えはとてもシンプルです。「この恐怖から逃れる方法はありません」と。なぜならば、「『死』の恐怖は、『共感』で繋がり、常に幸福感を与えてくれたヒトとの絆を喪失する恐怖」だからです。

 「自分という存在を失う恐怖」を乗り越え、自分の命をかけて利他的行為をする「自己犠牲」は、だからこそ尊いものと思われてきたのかもしれません。だとしても、利他的行為であるということで、いつでも、どこでも、どのようなものでも、そしてだれにたいしてでも、命をかけた「自己犠牲」は尊いもの、すべての人の本統の幸福につながるものなのでしょうか。

 自己犠牲の覚悟を数多く口やことばにしていた宮沢さんですが、その問いこそ宮沢さんが一生をかけてそのこたえを追い求めた問いだったように思われます。とくに、宮沢さんにとって「常に幸福感を与えてくれた」特別の存在であった妹のトシさんの死によってことばには表せないぐらいの大きな悲しみを経験しているのですから。

 銀河鉄道にのっての旅の中で出会ったさそり座のさそりの祈りに託して宮沢さんはその気もちを次のように吐露しています。「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸せのために私のからだをおつかい下さい」とです。

 このさそりの祈りは、宮沢さんが死の前日に自分の願ってきた気もちを詠んだ、「病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てれば/うれしからまし」という短歌に込められた心情そのもののように思えます。

 この問いはジョバンニさんとカンパネラさんとの会話の中で再び取り上げられます。ジョバンニさんは言います。「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」のですと。カンパネラは応えます。「僕だってそうだ。」とです。

 しかし、つづけてジョバンニさんがさらに次のように問うのです。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」というようにです。カンパネラさんもつづいて、「僕わからない。」と「ぼんやり云いました」。

 さそりの祈りやジョバンニさんとカンパネラさんの会話のやりとりをじっと見つめていると、それらは、自分の命をかけた自己犠牲は安易に行うものではなく、それがほんとうのみんなの幸せになるものなのかどうかよくよく考えてみなければならないという宮沢さんのメッセージではないかと感じます。

 少なくとも死後の幸福を求めての「自己犠牲」は宮沢さんが考えている自己犠牲ではないものと推測できます。それは、タイタニック号の沈没事故で「自己犠牲」的に亡くなったことにより銀河鉄道で出会うことになった家庭教師とその教え子たちとの会話から推測できるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン