シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「鳥の北斗七星」と自己犠牲

 「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」それはジョバンニさんとカンパネルラさんの共通の問いです。「鳥の北斗七星」という作品はこの問いにどのような答えを用意しているのでしょうか。この作品では戦争の中の自己犠牲が探究されています。

 この作品は、烏(からす)の「神」であるマヂエル様によって運命づけられた烏(からす)と山烏(やまがらす)との間の戦争の物語です。主人公は、烏の義勇艦隊の大尉の烏です。「明日」戦死(「神」の命令により自己犠牲となる)することを覚悟しての戦いに挑むという場面から物語は始まります。

 この烏の大尉には許嫁がいます。同じ艦隊の砲艦です。明日の戦いの夜マヂエル様に祈っている夢見のとき、突如「非常招集」がかかります。「敵の山烏」が突如現れたのです。大尉とその部下は突如現れた山烏めがけて出撃するのです。

 そして戦いにみごと勝利します。山鳥たちを撃退し、討ち果たした山鳥の「死骸(しがい)を営舎(えいしや)までもって帰(かへ)る」ことができたのです。この勝利によって、大尉は少佐に昇進までします。

 しかし、少佐に昇進した烏は、「あの山鳥(やまがらす)を思(おも)ひ出(だ)して、あたらしい泪(なみだ)をこぼ」すのです。なぜならば、山鳥たちは鳥を攻撃しようとしてやってきたのではなく、「お腹(なか)が空(す)いて山(やま)から出(で)て来(き)」ただけだったからなのです。

 鳥の少佐はマヂエル様に祈ります。「(あゝ、マヂエル様(さま)、どうか憎(にく)むことのできない敵(てき)を殺(ころ)さないでいゝやうに早(はや)くこの世界(せかい)がなりますやうに、そのためならば、わたしのからだなどは、何(なん)べん引(ひ)き裂(さ)かれてもかまひません。)」とです。

 ここまで「鳥の北斗七星」のあらすじをみてきましたが、この作品では、戦争というできごとが人知の及ばない天の存在者であるマヂエル様のこの世界の秩序形成を差配する一環の出来事として描かれています。それでもなお、宮沢さんは、憎むことのできない敵を殺さざるを得ない戦争がなくなる世界の実現を祈ることを主題としているのです。

 だとすれば、人知のおよぶ人間の権力者や国家によって引き起こされる戦争の中の戦死という自己犠牲の問題はどのように捉えたらよいのでしょうか。そのことを現在起こっているウクライナ危機の戦争に置き換えて考えてみることにしたいと思います。そうすると烏の少佐の祈りは次のようになるかと思います。

 マヂエル様はロシアのプーチン大統領、そして烏はウクライナの親ロシア派住民、そして山鳥がロシア支配からの自由を求めるウクライナ住民という構図となるでしょう。鳥の少佐の祈りは、親ロシア兵士の次のような祈りとなるのではないでしょうか。

 「(あゝ、プーチン様(さま)、どうか憎(にく)むことのできない敵(てき)を殺(ころ)さないでいゝやうに早(はや)くこの世界(せかい)がなりますやうに、そのためならば、わたしのからだなどは、何(なん)べん引(ひ)き裂(さ)かれてもかまひません。)」とです。

 宮沢さんは、実はこの作品で、戦争において戦死するという自己犠牲は、決して「みんなのまことの幸せ」につながるものではないということを云いたかったのではないかと思います。むしろ親しい人または愛する人と平穏で安心できる日常生活がおくれることこそが「みんなのまことの幸せ」なのではないかと言いたかったように感じるのです。

 この作品のおわりの描写がそのことを示しているように思えます。それは山鳥との戦いで戦死することなく帰ることができたことでの生活風景を画いた文章です。

 少佐となった烏は「あしたから、また許嫁(いいなづけ)といつしよに、演習(えんしふ)ができるのです。あまりうれしいので、たびたび嘴(くちばし)を大(おお)きくあけて、まつ赤(か)に日光(につくおう)に透(す)かせましたが、それも砲艦長(ほうかんちやう)は横(よこ)を向(む)いて見逃(みの)がしてゐいました」。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン