シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「オツベルと象」と自己犠牲

 「オツベルと象」という作品も、またどのような自己犠牲であれば、まことのみんなの幸せにつながるものなのかを考えようとした物語となっているのではないかと感じます。

 オツベルさんは「十六人の百姓(ひやくしよう)」を使って大規模な農業を営んでいる優秀な経営者です。「オツベルときたらたいしたもんだ。稲扱器械(いねこききかい)の六台も据えつけて、のんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。」のです。

 そこに気のいいい一頭の白象さんがやってきてオツベルのところで働くことになります。この白象さんの働く力は大したものだったのです。「二十馬力(ばりき)」もあったのです。オツベルさんは、白象さんにブリキの時計を首からかけさせ、400kgもある分銅を白象さんの足にはめ込みます。

 それでも、気のいい白象さんは、大喜びです。「『うん、なかなかいいね。』象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそういった。で、大よろこびであるいていった。」のです。ではなぜオツベルさんはそのようなことをしたのでしょうか。

 それは、白象さんを自分のものにし、大きな利益をあげようとしたからです。そのことを作品の中では、オツベルさんのところで働いていた百姓さんたちの見立てとして次のように描写されています。

 「どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産だ、いまに見たまえ、オツベルは、あの白象を、はたらかせるか、サーカス団に売りとばすか、どっちにしても万円以上もうけるぜ。」というようにです。

そ して、この百姓さんたちの見立ては現実のものとなって行きます。まず川からの水くみを白象は頼まれます。「象は眼(め)を細くしてよろこんで、そのひるすぎに五十だけ、川から水を汲んで来た。」のです。そして畑の菜っ葉に水をかけます。次の日は、森から薪をとってくるよう頼まれます。「半日に、象は九百把たきぎを運び」ます。次に、鍛冶場の炭火吹きを頼まれ、「ふいごの代わりに半日炭火を吹いた」のです。

 白象さんに仕事を頼むときのオツベルさんの決まり文句が「税金が高い」、「あがる」ということばです。そして、白象さんがたべる藁の数が減らされつづけていくのです。最初10把であったものが、8把、7把と減らされ、最終的に3把にまでになってしまいます。

 そのため白象さんは疲れ切って、「ふらふら倒れて地べたに座り」、「十一日の月を見て、/『もう、さようなら、サンタマリア。』と」言うまでになってしまいます。そして、そのつぶやきを聞いた月が、白象さんに仲間に手紙を書き、助けを求めることを助言するのです。

 その手紙にはこうありました。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで来て助けてくれ。」とです。ここで初めて宮沢さんはオツベルさんがひどい人であることを暗示する表現をするのです。

 ではそれまで白象さんはひどい扱いを受けながらも、オツベルさんをすごい人と評価し、その下で働くことに楽しみをもつことができていたのでしょうか。その理由に関して作品の中では、白象さんがつぶやく次のようなことばで表現されています。

 白象さんは、「『ああ、稼ぐのは愉快(ゆかい)だねえ、さっぱりするねえ。』といっていた。」というのがそのセリフです。白象さんは本当に疲れ切って死にそうになるまで、稼ぐ楽しさに浸っていたのです。

 そうした白象さんの物語を読んでいるときに、ふと頭に浮かんできた本があります。それは、社会学阿部真大さんの『搾取される若者たち――バイク便ライダーは見た!――』(集英社新書)と『働きすぎる若者たち 『自分探し』の果てに』(生活人新書)の二冊の本です。

 この二冊の中で、阿部さんは、現代の若者たちが宮沢さんの「オツベルと象」の中の白象さんと同じように自ら進んで自己犠牲的に働きすぎている姿を探究しています。前者の本では、稼ぐ喜びのために、後者の本では、自分探しのために自己犠牲的に働きすぎているのです。

 とくに宮沢さんの作品との関係で印象に残るセリフが前者の本の中に出てきます。それは、阿部さんが研究のためにインタビューしたあるバイク便ライダーのものです。なぜ自分の体がボロボロになるまで働きつづけてしまうのかという質問にたいする回答です。

 「長く続けないと分かんないだよな。この仕事、やばいよ。阿部さんも気づくよ。気をつけてくださいね」というのがそのセリフです。阿部さんはそうした心理状態を「ワーカホリックという『魔法』」と命名しています。

 「オツベルと象」の終わりの文章も次のようになっています。「『ああ、ありがとう。ほんとうにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそういった。」「おや、〔一字不明〕、川にはいっちゃいけないったら。」

 この終わり方に関して、折角仲間の象たちに助けてもらうことができたのに、なぜ白象はさびしくわらたのか、そして、最後の一文はどのようなことを意味しているのかに関してこれまで議論があったようなのです。

 阿部さんの研究に依拠して言うならば、前者のことに関しては、白象は人のよさからくる自分の軽率な行動で仲間たちに助けを求めざるをえなくなったことを後悔しているからであり、後者に関しては、自分が自己犠牲になることがどのような意味をもつのかを考えないで、「安易に自己犠牲になるような行動をしてはいかえないよ」、という宮沢さんからの忠告ではなかったかと考えます。

 そういえば、宮沢さん自身、「雨ニモマケズ手帳」の中に、(稼ぐことが楽しいからからといって)経済的利害がからむ友とは縁を断つという誓いが記されていたのではないかと記憶しています。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン