シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮澤賢治さんと岩手の地との新たな出会い

 宮沢さんは、必ずしもはじめから岩手の地で一生をすごそうと考えていたわけではなかったように思えます。盛岡の高等農林学校卒業後は東京で人工宝石にかかわる商売をしたいとの希望を父に伝えています。

 また、国柱会で働くために東京に出奔したときには、田中智学さんの命令であれば、シベリアにいって法華経の布教のために一生をかける決意までしていたのです。

 そもそも、宮沢さんが生まれ育った花巻は、これも必ずしも宮沢さんにとって居心地のよかったところではなかったのではないでしょうか。自分が地方財閥の一族に属していることで、自分は地域の人たちから白眼視されていると感じていたことを告白する作品も残しているのです。

 では、宮沢さんはいつ、どのようにして、自分は岩手の地で生きていくことを決意したのでしょうか。そして、その後、岩手という地をどのように見ていくことになっていったのでしょうか。

 それは、国柱会の一員としてこの世に仏国土を建設するという夢に挫折し、岩手の地で一から自然を切り開き、自らの力で仏国土を建設しなければならなくなったからではないかと、考えます。そのことは、宮沢さんの、「純黒と蒼冷」という作品に表現されていたのではないかということに関して、以前言及しています。

 そして、そのときは、心友である保阪さんの助けを借りて、一緒にその事業ができないかを、これも夢見ていたのです。

 「純黒と蒼冷」では、保阪さんと考えられる蒼冷さんが岩手県で農業をする決意を次のように告白します。「いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山のうちだ。俺は只一人で其処に畑を開こうと思ふ」とです。

 それを聞き、宮沢さんと考えられる純黒さんが次のように応じます。「ああ俺は行きたいんだぞ。君と一緒に行きたいんだぞ」とです。それは、宮沢さんが仏国土建設のために自分が生まれ育った岩手という地にあらためて真剣に向き合うことを決意したことを表明するものだったと考えられるのです。

 すなわち、宮沢さんは、そのとき、岩手の地に仏国土建設をという夢をもったのです。そして宮沢さんは、仏国土を建設しようとする岩手という地を見る目が以前とは違ってくるようになっていったものと推測します。

 自然界や人間の生活世界が、その後違って見えてくるようになっていったのではないかと思います。例えば、高等農林学校卒業後宮沢さんは研究生として岩手県の土性調査に従事していますが、それは自分の将来に役立ちそうもないということで、あまり気乗りがしなかったと言われています。

 しかし、その時点では進路が決まっていなかったこともあって、土性調査に参加しますが、しくじりも見られ、そんなに真剣であったようには思えません。事実1年もたたないうちに辞退しています。

 さらに、研究生終了時には助教授の推薦があったにも関わらず、それを辞退しているのです。そしてその直後の保阪さんへの手紙の中で、「専門はくすぐったい。学者はおかしい。」とまで酷評しているのです。宮沢さんにとって学者になることは決して夢ではなかったのです。仏意にかなった世界を創る、それが宮沢さんの夢だったと言えるのではないでしょうか。

 (少し横道に逸れますが、今回宮城県名取市の図書館で、井上寿彦さんの『賢治さんのイーハトヴ 宮沢賢治試論』という本に出合いました。井上さんは、この著書の中で、これまで国柱会で働くことをめざした東京への出奔の真の目的は、実は、童話作家として独り立ちすることだったのではないかと論じています。

その根拠は、当時鈴木三重吉さんが『赤い鳥』という日本の児童向けの童話本を発刊し、全国的に掲載する童話を募集していたことに宮沢さんが応じようとしたのではないかというものです。鈴木さんから10回掲載童話として選ばれた暁には「プロの作家」として遇することがその募集文には謳われていたのです。

これまで宮沢さんがなぜ童話を志すようになったのか漠然と疑問に思っていたので、井上さんの説は大いに勉強になりました。またまたいい出会いができたと感じます。少し横道に逸れ過ぎましたが、ここで再び元の文脈に戻りたいと思います。)

 では岩手の地で仏国土建設をという夢をもって岩手という地に向き合うことで、岩手という地は宮沢さんにはどのように見えてくるようになったのでしょうか。

 そのことを論じるキーワードは、「美しさ」と「聖性」の二つではないかと思います。宮沢さんは、岩手の地を「美しい」、「聖い」と表現するのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン