シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

鹿踊りのほんとうの精神とは何なのだろう?

 鹿踊りのほんとうの精神とは何かという問いに対する答えとして、まずこれまでも度々参照してきた草山万兎さんの見解を、今回もまた参照してみたいと思います。こうした問いを考察する際の草山さんの視点は「共生」です。

 その視点でこの作品を読むと、作品の中の鹿たちが団子を食べた後立ち上がり、輪になって踊りながら「五・七・五・七・七の和歌のリズム」で歌っている歌の中に鹿踊りのほんとうの精神が語られていると草山さんはみます。

 とくに、これも草山さんによれば、リーダー鹿と目される六疋目の鹿の歌った歌がほんとうの精神を語っているというのです。すなわち、「五疋の歌をうけて、最後にリーダー雌がうめばち草の歌を歌います。ここから終わりまでが、この童話のエッセンスで、鹿踊りの本当の精神が語られます」。

 「歌をわかりやすく書くと――〝銀色の穂をつけたすすきが風になびき、波を打ってゆれている根本に、うめばち草は自己主張しないで、ひっそりと人知れず咲いている。なんと愛らしくいとしい姿なんだろう。〟リーダー雌はこう歌い、うめばち草の謙虚な態度をたたえたのです」。

 そして草山さんによれば、その歌が示唆している鹿踊りのほんとうの精神とは、共生の精神なのです。すなわち、「里山は元来動物たちの住家です。そこへ後から人間が入っていって利用するようになったのです。そこで人と動物が仲よく里山を利用していくためには、はんの木が自ら示すように、共生の精神が大切です。そして、人間は動物よりもすぐれている、といったおごりを捨て、嘉十のように動物になった気持を持たねばいけない。それにはうめばち草のように、謙虚な心と態度が大事ですよ。鹿踊りのほんとうの精神は、こういうことなんだ、とこの童話は語っているのです」。

 この草山さんの解説は動物学や生態学、そして生物学などの見識に裏打ちされており、なるほど、なるほどと納得するものです。同時に、社会学の目でこの作品を読んでいくと、人間と自然とはどのようにコミュニケーションをとっていくものなのだろうかという点に興味が惹かれます。

 宮沢さんはそのことをどのように考えていたのでしょうか。「狼森と笊森、盗森」の作品では、百姓である人間が直接森に呼びかけ、森がそれに応えていました。この「鹿踊りのはじまり」の作品ではどうでしょうか。

 この作品では、嘉十さんが我を忘れ、自分と鹿との違いも忘れて鹿たちの踊りの輪に飛び込もうとしたということがヒントになるのではないでしょうか。その場面を宮沢さんは次のように描写しています。少々長い引用となるのですが、大事な点ですので省略せずに引用しておきたいと思います。

 「鹿(しか)はそれからみんな、みじかく笛のように鳴いてはねあがり、はげしくはげしく回りました。/北から冷たい風が来て、ひゅうと鳴り、はんの木はほんとうに砕けた鉄の鏡のようにかがやきかちんかちんと葉と葉がすれあって音をたてたようにさえおもわれ、すすきの穂までが鹿にまじって、いっしょにぐるぐるめぐっているように見えました。/嘉十はもうまったくじぶんと鹿のちがいを忘れて、/『ホウ、やれ、やれい。』と叫びながらすすきのかげから飛び出しました」というように描写しています。

 人は自然が見せる美しさや自然が奏でる歌や踊りなどを彷彿させるリズムを耳にすると、自然と心がウキウキし、自分の尊大さを忘れ、自然と一体になりたいという感情が湧き上がってくるのではないでしょうか。

 スコットランドの社会哲学者であるジョン・マクマレーさんは、人間の感情生活の中に最高の理性が存在すると考えています。なぜならば感情こそが、自分ではない他者の心を理解するメディアだからです。そして、近代以降の教育の最大の欠陥は、科学的な知識や技術に関しては沢山のことを教えますが、それらの知識や技術を使って自分の人生をどのように楽しんだらよいかという最も肝心なことをちっとも教えてくれないことであると論じています。

 自然こそが、どうしたら自分の尊大さを忘れて、他者と、さらに自然とさえも同類であると実感することが出来て、喜びと楽しさに満ちたひと時をともに過ごすことができるのかを教えてくれてきたのではないでしょうか。社会学的に読むと、宮沢さんの「鹿踊りのはじまり」という作品の鹿踊りのほんとうの精神とは、そのところにあると感じてしまうのです。

 ちなみに人間と自然との心の交歓や交流のメディアはイーハトヴ語ではないかと推測します。そして、岩手県のことばはそのイーハトヴ語の類語であると宮沢さんは考えていたのではないでしょうか。だから、宮沢さんの童話は、岩手の方言で創作されてきたのでしょう。

 草山さんもそのことに関して次のように論じています。「嘉十は環を描いてまわる鹿たちを見ているうちに、耳がきいんと鳴ってがたがたふるえ、鹿の言葉がわかるようになったのでした。嘉十の内心の野生が呼び起こされたのですね。鹿たちの会話は岩手地方の方言で書かれています。素朴な味わいのある言葉で、とても効果的です」というようにです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン