シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

盛岡の朝市とよいちという生活風景

 ところで宮沢さんは仏国土に関してどのようなイメージをもっていたのでしょうか。それは想像にすぎませんが、宮沢さんにとっての仏国土とは、宇治の平等院鳳凰堂や平泉の中尊寺金色堂などの宗教的建築物が作りだす風景なのではなく、まして現在の社会主義国家と呼ばれている国家の経済・政治制度では、決してなかったのではないでしょうか。

 敢てことばにすれば、宮沢さんにとっての仏国土とは、人と自然、そして人と人とが日常生活の中で創り出している生活風景の世界のことだったのではないかと感じます。欲望や打算、そして手段のためではなく、精神世界における心からの交流と交歓それ自体を目的として集い、交際し、そのことを楽しみ喜び合っているような生活世界の風景こそが、宮沢さんにとっての仏国土だったのではないかと考えます。さらに蛇足的に言えば、宮沢さんがめざしていたもの、それは生活風景の革命だったのではないでしょうか。

 宮沢さんのそうした仏国土についてのイマジネーションを具体的に表現しようとした作品が、「ポラーノの広場」ではなかったかと考えます。この作品は、「モリ―オ市」郊外のイーハトーヴォの野原の「ポラーノの広場」でかつて開催されていた、ある意味伝説の「祭り」を、宮沢さんが生きていた時代に再生させようとする物語です。

 この作品を社会学の目を通して読んでみるとどのように考察できるのかについては、あらためて試みることにしたいと思います。ここでは、その「祭り」がどのような性格のものであると描かれていたのかについてだけ、確認しておきましょう。

 この作品の主人公の一人であるファゼーロさんはその点について次のように自分のイメージをことばに表しています。

 「そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いやうなさういふ」(「ポラーノの広場」『新校本 宮澤賢治全集 第十一巻』)ものであるというようにです。

 このファゼーロさんのことばは、宮沢さんの「農民芸術概論綱要」の主張を思い起こさせます。宮沢さんは、そこで次のような主張をしていました。それは、

 「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい/もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」のです。

 「曾つてわれわれの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた/そこには芸術も宗教もあった/いまわれわれにはただ労働が 生存があるばかりである」というものです。

 そしてこれらの主張は、宮沢さんの仏国土建設のための活動であった羅須地人協会設立の宣言でもあったのではないでしょうか。「ポラーノの広場」を読んでいると、宮沢さんはできれば自分の手でそうした生活風景の世界を創りたかったのだなと感じてしまいます。しかし、残念ながら、その試みは早々に挫折していくことになるのですが。

 そうした宮沢さんがイメージしていた「祭り」の世界を彷彿させるような生活風景というものは、現代社会における私たちの生活の中にも多く見られるものなのではないかと思います。文字通り各地で開催される、さまざまな形の祭りなどはそうした性格をもっている人々の集いと交流の世界なのではないでしょうか。

 すなわち、市の生活風景にも宮沢さんがイメージしている「祭り」の世界の雰囲気が存在しているように感じます。市には、古来より、単なる経済的取引という機能を超えて、人々が集い交流し、ともに喜びと楽しさを共有するという性格もあったのではないでしょうか。ただすべての市が、とくに現代社会においては、そうした性格を示してくれるものではないのでしょうが。

 宮沢さんも、羅須地人協会の活動の一つとして、物々交換(歓)会を行ったと言われています。それには、交歓会に参加する人たちが、集い、支え合い、そして感情的な交流をする場であれとの、宮沢さんの願いがあったように思います。

 盛岡市の朝市とよいちを訪ねたことが何度かあります。そこでいつも感じることは、宮沢さんがイメージしている「祭り」の雰囲気です。売り手と買い手の人たちの関係性を観察していると、単なる商取引というよりは、交流と交歓を楽しんでいるように感じるのです。

 さらに、それらの市では、そうした雰囲気を楽しむことを目的として通ってくる人たちも多くいるようにも感じるのです。まさしく盛岡の朝市とよいちは「祭り」の場です。楽しみ、元気をもらって帰ってくることができる場です。世知辛い現代社会における生活空間の中におけるオアシス空間の場ではないかとさえ感じてしまいます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン