シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

高村光太郎さんと岩手県(1)

 人は自分ではどうすることもできない理不尽な出来事に遭遇したとき、どのような生き方ができるのでしょうか。宮沢さんの人生を辿る旅をしていると、ふっとそんな問いが頭の中に浮かんできます。なぜならば、現在の世の中はあまりにも理不尽な出来事が多く起こっているように感じるからです。

 そしていつも、ものごとなるようにしかならない、であれば、なるようになれと、居直るしかないのではないかとの思いに落ち着くのです。宮沢さんもそうだったのではないかと感じます。

 しかし、宮沢さんは一味違うところがあったようにも感じます。それは、そのように居直っても、自分の人生を放棄するのではなく、自分でできるかぎり精一杯自分の人生を生き切りました。しかも、終始、自分のためではなく、世のため他人(ひと)のために生きる人生を生き切ったのです。

 そうしたところに宮沢さんとその作品が多くの人を惹きつける魅力となっているのではないでしょうか。

 そんなことを感じているとき、高村光太郎さんの詩にであったのです。それは、宮沢さんと岩手県の関係に関心をもって文献を探しているとき、高村さんが宮沢家の世話で岩手県の山村で生活していたことがあることを知ったことがキッカケです。

 それで、高村さんは岩手県にどのような感じを抱いていたのかに、関心をもって、ときおり、高村さんの詩に目をやってきました。そこで感じたのは、理不尽な出来事に遭遇したことで救われることということも、ときとしてあるのだなということです。

 ところで多くの人にとって戦争は最大の理不尽な出来事なのではないでしょうか。現在のウクライナの人たちの経験している惨状は、ことばに表せないほどの悲しい出来事の連続です。ロシアの侵攻によって家を焼かれ、殺されないまでも、どれだけ多くの人たちが、それまで住んでいたところを追われ、外国にまで逃げ出して暮らさなければならなくなるような理不尽さに苦しめられていることでしょう。

 高村さんも、太平洋戦争において、終戦の年にアメリカ軍の空襲によってそれまで住んでいたアトリエが焼かれ、岩手県への移住を余儀なくさせられているのです。『日本近代文学大系 第36巻 高村幸太郎・宮沢賢治角川書店、1971年の高村さんの年表によれば、1945年10月高村さんは、「岩手県稗貫郡太田村山口に小屋を建てて移り、農耕自炊の生活に入った」のです。

 稗貫郡太田村と言えば、宮沢さんが仏国土建設の夢を抱きながら生活し活動していた地方に属しています。しかも、宮沢さんも一度は挑戦した開拓農民としての生活を実践しているのです。

 そうした生活をする中で、高村さんの目には、岩手の自然や人々、そして人々の暮らしはどのように映ったのでしょうか。そうした思いに興味が惹かれていくのです。

 まず「終戦」という詩に惹かれました。

 「すっかりきれいにアトリエが焼けて、/私は奥州花巻に来た。/そこであのラジオをきいた。/私は端座してふるへてゐた。

 日本はつひに赤裸となり、/人心は落ちて底をついた。/占領軍に飢餓を救はれ、/わづかに亡滅を免れてゐる。/その時天皇はみづから進んで、/われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。

 日を重ねるに従って、/私の眼からは梁(うつばり)が取れ、/いつのまにか六十年の重荷は消えた。

 再びおぢいさんも父も母も/遠い涅槃の座にかへり、/私は大きく息をついた。/不思議なほどの脱却のあとに/ただ人たるの愛がある。/

 雨過天晴の青磁いろが/廊然とした心ににほい、/いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」

 上記の詩がその詩です。終戦間際アトリエを焼かれ、花巻に移り、無一物になった自分の境遇に、六十年の重荷を下ろし、荒涼の美を満喫している高村さんに魅了されます。高村さんのように、終戦を迎えた人があったのだなという感慨の気持ちもわきました。

 それまでどのような生活をおくってきたのかということにも興味が惹かれますが、奥州に移り住み、どのような生活を、何を思いながら新たな生活を築こうとしたのか、その中で岩手という地をどのように感じていたのかについてもぜひ知ってみたいという気持ちががぜんわいてきたのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン