シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

高村光太郎さんと岩手県(2)

 高村さんは、稗貫郡太田村山口の山村で何を求め、どのような生活をしていたのでしょうか。『日本近代文学大系』に掲載されている年表によれば、それらのことについて、「夜具の肩に雪が積もる、山小屋の生活を続ける。また、村の分教場で『美の日本的源泉』などの講話をしばしばするなど、村民の生活の中に入り、そこに新しい文化を求めようとした。このころ、彫刻制作はほとんどなかったが、数百点の書作品が生まれた。」とあります。

 それは、1946年のことです。伊藤さんの「解説」によれば、高村さんははじめ近代的自我に目覚め、既成の文化・道徳・社会的規範や習慣、そして政治体制までにも反抗して生きて来たのです。とくに戦前の家族制度への反抗には何並みならぬものがあったというのです。しかし、太平洋戦争がはじまると、今度は生き方の180度の転回があり、国家意識に没入し、戦争を賛美する詩を創作しつづけるのです。

 岩手県太田村での生活は、伊藤さんによればそうした国家意識に没入し、戦争を賛美してきたことへの自罰であったというのです。たしかに、「夜具の肩に雪が積もる、山小屋の生活」という紹介文を読むと、自罰生活だったのだなと感じます。

 自罰ということばには、重々しいい、または痛々しい暗さや後悔の念のような雰囲気が漂うように思うのですが、高村さんの「山小屋」での生活の中で創作した詩には、そうした暗さや痛々しさ、または後悔の念というような空気を感じることができません。

 むしろ、新生活への喜びのような高村さんの気持ちを感じます。「終戦」という作品だけをとっても、すがすがしく、晴れやかで、喜びに満ちた高村さんの姿が浮かんでくるのです。例えば、「終戦」の最後の二行、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」ということばにもそうした空気を感じます。高村さんにとって、少なくともその初めには、終戦、イコール、新しい世界の始まりという気持ちが勝っていたのではないでしょうか。

 再び上述の紹介文を参照するなら、高村さんが当時「新しい文化を求めようとした」という文章が、当時の高村さんの気持ちを表しているように感じます。『「ブランデンブルグ」』という作品にそうした高村さんの気持ちが表現されているように思います。以下がその作品の中の文章です。

 「『ブランデンブルグ』の底鳴りする/岩手の山におれは棲む。」

 「無量のあふれ流れるもの、/あたたかく時にをかしく、/山口山の林間に鳴り、/北上平野の展望にとどろき、/現世の次元を突變させる。」

 「おれは自己流謫のこの山に根を張って/おれの錬金術を究盡する。/おれは半文明の都會と手を切って/この邊陬を太極とする。/おれは近代精神の網の目から/あの天上の音に聽かう。/おれは白髪童子となって/日本本州の東北隅/北緯三九度東經一四一度の地點から/電離層の高みづたひに/響き合ふものと響き合はう。」

 この作品文章を読んだとき、最初に疑問がわいたのが、「おれは自己流謫のこの山に根を張って/おれの錬金術を究盡する。」がどのようなことを意味しているのだろうか、ということでした。はじめ、それまでの自己の「錬金術」を反省するために岩手県の山村に「自己流謫」したという意味なのかな、という解釈が浮かびました。しかし、「おれの錬金術を究盡する。」という文章は反省という気持ちを表現するものではないのではないか、むしろ反対に自分の錬金術を究め尽くすという前向きな気持ちが表現されていると解釈しなければならないのではないかと感じるようになったのです。

 文学研究者の人たちにとっては、その文章が何を意味するのかに関しては常識化していることなのかもしれません。そこで、とりあえず、名取市図書館で出会った中村稔さんの『高村光太郎論』青土社、2018を参照にしながら、自分なりに考えてみることにしました。次回のブログでその中間的な報告をしてみたいと思います。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン