シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

岩手山が支える岩手の地と民

 武器をもたずに立ち、平和と人権を築いていくための「試金石」たる覚悟をもって岩手の地に生きることを決心した高村さんは、その岩手県岩手県の人々をどのように論じたのでしょうか。

 なりよりも高村さんは、岩手県岩手県の人々は必ずや戦後復興の立ち直りを成し遂げるであろうと激励しています。なぜならば、高村さんによれば、岩手県には岩手山があり、岩手の地とそこで暮らす人々を支えてくれるからです。

 「岩手山の肩」という作品の中でそのことを論じています。すなわち、

 「雪をかぶった岩手山の肩が見える。/少し斜めに分厚くかしいで/これはまるで南部人種の胴體(トルツオ)だ。/君らの魂君らの肉體君らの性根が、/男でもあり女でもあり、/雪をかぶつてあそこに居る。/あれこそ君らの實體だ。/あの天空をまともにうけた肩のうねりに/まつたくきれいな朝日があたる。/下界はまだ暗くてみじめでうす汚いが、/おれはかつきりこの眼でみる。/岩手縣といふものの大きな圖態が/のろいやうだが變に確かに/下の方から立ち直つて來てゐるのを。/岩手山があるかぎり、南部人種は腐れない。/新年はチャンスだ。/あの山のやうに君たはも一度天地に立て。」と。

 高村さんは決して法華経の信仰者ではなかったのでしょう。しかし、この作品の中で、高村さんは、岩手山を聖なる山であり、岩手県民の「実体」であるとまで言っています。生涯法華経の信仰者であり行者でもあろうとした宮沢さんは、はじめて法華経を読んだとき、法華経にある釈尊の「我常住於此」の思想に体が震えるほどの感動を覚えたと言われています。その宮沢さんも、岩手山こそ、釈尊が「常住」する場として最もふさわしいと思っていたのではないでしょうか。

 宮沢さんと高村さんの岩手の地を見る見方にそうした共通性があることに驚きます。では高村さんは、岩手県の人たちについてはどのように見ていたのでしょうか。ここでは、「開拓に寄す」という作品でそのことを確認することにしたいと思います。

 「岩手開拓五周年、/二萬戸、二萬町歩、/人間ひとりひとりが成しとげた/いにしへの國造りをここに見る。」

 「エジプト時代と笑ふものよ、/火田の民とおとしめるものよ、/その笑ひの終らぬうち、/そのおとしめの果てぬうちに、/人は黙つてこの廣大な土地をひらいた。/見渡す限りのツツジの株を掘り起こし、/掘つても掘つてもガチリと出る石ころに悩まされ、/藤や蕨のどこまでも這ふ細根(ほそね)に挑(いど)まれ、/スズラン地帯やイタドリ地帯の/酸性土壌に手をやいて/宮澤賢治のタンカルや/源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、/何もない終戦以来を戦つた人がここに居る。」

 「トラクターもブルドウザも、/そんな氣のきいたものは他國の話、/神代にかへつた神々が鍬をふるつて/無から有(う)を生む奇蹟を行じ、/二萬町歩の曠土(あらつち)が人の命の糧(かて)となる/麥や大豆や大根やキヤベツの畑となつた。さういふ歴史がここにある。」

 「五年の試煉に辛くも堪へて、/落ちる者は落ち、去る者は去り、/あとに残つて静かにつよい、/くろがね色の逞ましい魂の抱くものこそ/人のいふフランテイアの精神、/切りひらきの決意、/ぎりぎりの一念、/白刀上(はくじんじやう)を走るものだ。/開拓の精神を失う時、/人類は腐り、/開拓の精神を持つ時、/人類は生きる。/精神の熱土に活を與へるもの、/開拓に外にない。/開拓の人は進取の人。/新知識に飢ゑて/實行に早い。/開拓の人は機會をのがさず、/運命をとらへ、/萬般を探つて一事を決し、/今日(けふ)は昨日(きのふ)にあらずして/しかも十年を一日とする。/心ゆたかに、/平氣の平左(へいざ)で/よもやと思ふ極限さへも突破する。/開拓は後(あと)の雁(がん)だが/いつのまにか先の雁になりさうだ。」

 「開拓五周年、/二萬戸、二萬町歩、/岩手の原野山林が/第一義の境(さかひ)に變貌して/人を養ふもろもろの命の糧を生んでゐる。」

 高村さんのこの「開拓に寄す」という作品はまさしく高村さんの岩手県民論と言ってもよいのではないでしょうか。そして、それを一言で言えば、岩手の人とは、開拓の人であるということになるのではないでしょうか。すなわち、高村さんの岩手県および県民論とは、聖なる山岩手山の山ふところに抱かれた開拓の民論であると言えるでしょう。

 それは、まさしく宮沢さんの、岩手県岩手県の人々に関する思いと同じであるように感じます。まさしく、高村さんは、宮沢さんのイーハトヴの世界を岩手の地に見ていたのです。そこで、最後に、高村さんのずばり「岩手の人」という作品を見ることにしましょう。

 「岩手の人眼(まなこ)靜かに、/鼻梁秀で、/おとがひ堅固に張りて、/口方形なり。/余もともと彫刻の技藝に游ぶ。/たまたま岩手の地に來り住して、/天の余に與ふるもの/斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。/岩手の人沈深牛の如し。/兩角の間に天球をいだいて立つ/かの古代エジプトの石牛に似たり。/地を往きて走らず、企てて草卒ならず。/つねにその成すべきを成す。/斧をふるつて山間にありて作らんかな、/ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に/未見の運命を擔ふ牛の如き魂の造型を。」

 高村さんは、終戦直後の新しい日本建設の夢を、岩手という地とそこに暮らす人々に託そうとしたのだなと感じます。宮沢さんが仏国土建設の夢を岩手という地とそこで暮らしている百姓の人たちに託していたのと同じように。そのように感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン