シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの人生から学ぶ

 ここまで宮沢さんの歩んできた人生とその中で生み出した作品を、社会学の目を通して観察してきました。その過程で、とくに宮沢さんの生きる姿勢に関して、社会学者としてではなく現代社会を生きる一個人として印象深く学んだことがあります。

 それはどんな状況になっても決してあきらめず、自分にできる限りのことをしようとする姿勢を生涯もちつづけていたことです。そしてどのような状況の中でも仏国土建設に向けた希望の光をもちつづけていたということです。

 しかし、そうした見方や感じ方は自分の希望的観測にもとづく個人的な見方、感じ方なのかも知れません。なぜならば、羅須地人協会の活動の挫折は、宮沢さんの夢や希望の挫折であり、完全な敗北であったという見方も少なくないからです。

 例えば、あの有名な「雨ニモマケズ」という書付は宮沢さんのその挫折と敗北の宣言書であるとの評価もあります。ここではそうした宮沢さんに関する議論の一つとして、中野隆之さんの「ポラーノの広場」批評を参照してみたいと思います。

 中野さんによれば、「ポラーノの広場」は、宮沢さんの羅須地人協会における活動の挫折と敗北感が色濃くただよっている作品なのです。なぜそう言えるのでしょうか。中野さんはこの作品の主人公の一人であり、宮沢さん自身の分身でもあると推測できる「前十七等官レオーノキュースト」の「トキーオの市」における生活場面の描写が、羅須地人協会の活動における挫折感を表現していると言います。

 その場面とは、レオーノキューストさんが「『友だちのないにぎやかながら荒んだトキーオの市』の『暗い巨きな石の建物』の『はげ〔し〕い輪転機の音のとなりの室』でただ一人仕事をしている」というものです。その場面を中野さんは次のように解説します。

 「農学校の教師であった賢治は四年四ヶ月ほどの教師生活の後、職を辞して畑を耕した。教師とは結局、給料をとる役人であり、知識を切り売りする仕事に他ならない。それよりも疲弊した農村の中に入り、自己も社会も改造していこうとした。そして挫折した。この苦い経験を経て、最晩年のこの作品の中で、恐らく賢治の分身であるこのキューストが辿り着いた所も、結局、教室の中と同じだった。さらにそこには可能性を秘めた子どもたちの姿もない。騒音だらけの暗い部屋だ。『暗い巨きな石の建物』とは、今病床で動けない自分自身が閉じこめられているこの薄暗い部屋を指すのかも知れない。また自分が入る石棺と読むこともできよう」というようにです。

 羅須地人協会における活動という「自分の見果てぬ夢となってしまったものが『ポラーノの広場』として文学の世界で再生したことになるのか。いや、違う。産業組合に設定したのは大きな敗北だろう」とも評しています。

 そして宮沢さんの羅須地人協会における活動に関して、中野さんは、次のように結論づけるのです。すなわち、

 「羅須地人協会の活動にしても、結局は賢治が一人で考え、行動し、そして破綻したのだ。

 レコード交換会なるものが実際何度開催されたか詳細はわからないが、そのレコードもほとんど賢治が一人で出品したものだった。当時の農民たちにレコードを買うような余裕はなかった。レコードとは一体何かを知っている者も少なかっただろう。一人、自分の頭の中であれこれ考えてやったことだ。賢治は一人だけ何歩も前を歩いていたのである。『おれたちはみんな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい』(『農民芸術概論綱要』)と宣言した。しかし、その言葉を実感を持って暖かく迎えてくれた人が一体幾人いただろう。私は、賢治は孤高であった、と思う。孤高という言葉ほど賢治にふさわしいものはない。彼は群れないのだ。彼の人生はまさに、その言葉通りのものだった」のですと。

 なるほど、中野さんの宮沢さんの人生に関する考察は、正鵠を射ているのではないかと感じます。しかし、「ポラーノの広場」に関する評価に関しては、中野さんとは違った理解も可能なのではないかと思うのです。すなわち、羅須地人協会の活動の挫折とそれによって味わった敗北感があったことで、宮沢さんは、当時の時代的状況とその下での農民の人たちの生活をリアルに踏まえた上で、そうした状況の中でもどうしたら一歩でも仏国土建設の道を歩むことができるのか、考えつづけようとしていたのではないかと感じるのです。

 その文学的成果が「ポラーノの広場」だったのではないでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン