シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

エンゲルスさんの「イギリスにおける労働者階級の状態」を読む(8)

 ここでは、宮沢さんの「ポラーノの広場」におけるファゼーロさんたちの「産業組合」の試みを、エンゲルスさんはどのように論じただろうかという問いをたて、その問いに関して考察できればと思います。

 またその考察は、宮沢さんの「ポラーノの広場」という作品は、宮沢さんの「敗北」を示しているという批評をどのように考えたらよいのかという問題に関連するのではないかと感じます。

 最近、石岡直美さんの『宮沢賢治研究 時代 人間 童話』という本に出合うことができました。石岡さんは、この著書の中で、愉快な夏祭りにおいて、「皆の拍手歓声の中にオーケストラの演奏にあわせて演舞がはじまる」ところで幕となる演劇「ポランの広場」の作品に関して次のような批評を行っています。

 すなわち、それは、ユートピアであり、当時の「現実の生活とは隔絶されたところのものである」。「現実の醜い苦しい世界には目をやるなということである。大自然の中で全てを忘れて楽しもうと。ここに賢治が前々から詩や童話において追求してきたものが出されている。すなわち社会への無力感からくる現実逃避と自然礼讃の方向である。そしてそれを演劇として上演したということは、彼のそうした姿勢をもって世人に働きかけたので」す。

 「この呼びかけは何という観念的な空に浮いたものだろう。……毎日(毎日)が闘いであるような貧しい生活をしている人(に)……無責任」ですと。

 さらに、石岡さんは、「ポラーノの広場」も、この「ポランの広場」の性格を共有していると論じ、それゆえ、「ポランの広場」と「ポラーノの広場」は通説と異なり同時期に創作された童話であるとの提起を行うのです。通説では、「ポラーノの広場」は、宮沢さんの羅須地人協会活動後、「ポランの広場」を書き換えたものであるとされていたといいます。

 個人的には、「ポラーノの広場」の創作時期に関する問題にはあまり関心がありません。むしろ、どうして「大自然の中で全てを忘れて楽しむ」ことが、観念的で、現実逃避という評価になるのかということに関心があります。

 そこで、エンゲルスさんであれば、そのことをどのように判断するだろうか参照してみようと思うのです。そのために、ここでは、エンゲルスさんがロバート・オーエンさんのニューラナーク等における社会的実験についてどのような評価を下しているについて参照することにしたいと思います。

 宮沢さんが生涯をかけて行った仏国土建設のための社会的実験をどのように評価したらよいのかということに大いに関連するのではないかと考えられますので、少々長い引用となるのですが全文引用することにしたいと考えます。エンゲルスさんは主張します、

 「社会主義はオウェンという一工場主から出発し、そのため内容からいえば、ブルジョアジープロレタリアートとの対立を超越しているにもかかわらず、形の上では、ブルジョアジーには大いに寛大で、プロレタリアートには大いに不公平である。社会主義者はまったくもっておとなしくて、温和で、おもてだった説得以外どのような方法もしりぞけるかぎり、既存の諸関係がどのように劣悪であっても、それを正当なものとみとめている。しかし同時に彼らはひじょうに抽象的であるために、現在のような形での彼らの原理がおもてだった説得に成功することはないであろう。その際に彼らはたえず下層階級の堕落をなげいてはいるけれども、社会秩序のこのような解体のなかにある進歩的要素には盲目的であるし、有産者階級のあいだに見られる私利や偽善の堕落のほうがはるかにひどいことを考えない。彼らは歴史的発展をみとめないし、したがってまた目標に到達して自然に解体するまで政治をつづけずに即座に国民を共産主義の状態におきたいのである。なるほど彼らはなぜ労働者がブルジョアジーに憤慨しているかということを理解しているが、なんといっても労働者をさらにみちびいていく唯一の手段であるこの憤慨を無益なものと見なして、イングランドの現状にとってはるかに実りのない博愛と普遍的な愛を説いている。彼らは心理的な発展、およそ過去とはなんの結びつきもない抽象的な人間の発展しかみとめないのだが、全世界はこの過去にもとづいているのだし、一人一人の人間も全世界とともにそれにもとづいているのである。だから彼らはあまりにも学問がありすぎ、形而上学的でありすぎて、ほとんど成果がない。彼らのなかには一部労働者階級出身の者もいるが、それは労働者階級のなかのごく小部分、当然ながらもっとも教養があって、もっとも気骨のあるものにかぎられている。現在のような形では、社会主義はけっして労働者階級の共有財産になれないであろう」というようにです。

 かなり長い引用になりましたが、このエンゲルさんのロバート・オウェンさんらの当時の(エンゲルスさんが社会主義と呼ぶ)ニューラナーク等における試みに対する批評は、まるで宮沢さんの羅須地人協会や「ポラーノの広場」に描かれているファゼーロさんたちの産業組合という試みへの批評としても読めるように感じます。

 ではエンゲルスさんのロバート・オウェンさんの試みに対する批判のかなめは何だったのでしょうか。ロバート・オウェンさんがブルジョアジー階級の一員であるということもあったかもしれません。しかし、エンゲルスさんのロバート・オウェンさんの社会主義に対する批判のかなめは、ロバート・オウェンさんの社会主義にはブルジョアジー階級に対する怒りの感情が欠如しているということではなかったかと思います。それはきっと宮沢さんの仏国土建設への試みへの批判にもつながるものだったはずです。

 すなわち、エンゲルスさんvs宮沢さんという視点で見ると、新たな社会建設をめぐる怒りの感情の位置づけがそれら両者の間では、真逆なのです。エンゲルスさんにとって怒りの感情は、ブルジョアジー階級に対する闘争へ向けて労働者階級の人たちを「みちびいていく唯一の手段」ですが、宮沢さんにとっては、修羅である自分を超えていくためには何としてもなくしていかなければならなかった感情だったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン