シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

よりよく生きたいという思いや意欲の高まりが社会を変える(1)

 ここまでエンゲルスさんの『イギリスの労働者階級の状態』を読みながら、思いつくまま、アトランダムに、宮沢さんの「ポラーノ広場」という作品を社会づくりとの関りでどのように位置づけたらよいかに関する考察をおこなってきました。そして、前回、宮沢さんは、「ポラーノの広場」という作品の中で、どうしたら天才たちがお互いに争い合うのではなく、協力し、協働しながら自分たちの生活を創りあげていく社会づくりができるのかという自分自身に対して提起した問いにファゼーロさんたちの産業組合づくりの試みで答えようとしたのではないかということを暗に示す考察を紹介してみました。

 宮沢さん自身、1924年10月5日付けの「業の花びら」(下書稿)〔『【新】校本宮澤賢治全集第三巻』筑摩書房〕という作品の中で次のような問いをたてていました。すなわち、「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」とです。ではどうしたらそうした世界は実現するのでしょうか。

 実は社会諸科学の共通するテーマとは、この宮沢さんがたてた問いをどのように解いていくのかというものではなかったかと思います。すべての生き物にはよりよく生き、そして自分の幸せを実現しようとする本性が存在している。何と言っても「一寸の虫にも五分の魂」が存在しているのです。その意味では、人間であれば誰でもが「天才」的存在なのではないでしょうか。よりよく生き、幸せになりたいという思いはことのほか強い生物、それが人間という存在なのではないかと感じます。

 ただ自分はよりよく生き、幸せになりたいという思いが強ければ強いほど、実はまた、それが同じ他者の思いと衝突し、ときには闘争や戦争にまで発展していくようになってしまうことがあるのも事実なのではないでしょうか。とくに、経済的利害、個人の名誉や政治的な権力をめぐっての利害関係にあるときには、容易にそうした争いの状況が生じてくると言えます。

 このようなよりよく生き、そして幸せになりたいという思いをめぐってのジレンマを経済学の視点で解こうとしたのが、アダム・スミスさんだったのではないかと考えます。スミスさんは市場という経済的な社会システムこそ宮沢さんが提起した問いを解くことを可能にすると推測しました。

 なぜならば、市場という社会システムとは、他の動物には見られない「取引し、交易し、交換するという」人間の社会的動物としての「一般的性癖」に根ざしている社会システムだからです。この「性癖」のおかげで人間は、市場という社会システムを建設することで、個々人の間にある才能・能力の違いを一つの共同財産にたくわえ、それぞれが自分の生活改善のために役立てることができるようになったのです。

 ただこの市場という社会システムは温かで精神的も穏やかで喜びや幸せを感じることのできる人間関係の形成のためには大きな弱点があるのです。それは、人間関係における感情的な交流をそれこそ文字通り節約し、最終的には全く消滅させてしまうシステムでもあるのです。なぜならば、このシステムを作動させている人間関係原理とは、感情ではなく経済的な利害得失の冷徹な損得勘定だからです。

 ではなぜ経済的な利害得失の冷徹な損得勘定にもとづく人間関係だけでは温かで精神的にも穏やかで喜びや幸せを感じることができないのでしょうか。それは、やはりアダム・スミスさんが言うそうした人間関係を築くための重要な人間感情のコミュニケーション原理である共感を欠いてしまっている人間関係だからなのです。

 共感的な人間関係を築いていくには、まず何よりも相手の運命に関心をもつことが不可欠の要件になります。その上で、さらに相手が今精神的にどのような状態であるか理解しようとする努力が求められるのです。すなわち、相手の顔の表情や話し方、そして振る舞いの仕方などなどから、相手が今どのような感情状態にあるのか、そしてそれはどのような原因によってそのような感情状態になっているかに関して、相手の立場に立って自分であればそのような立場におかれたらどのように感じるかについて想像するという努力が求められるのです。そうしたお互いの努力があってはじめて共感という感情コミュニケーションが生まれるのです。

 アダム・スミスさんはそうした努力によってようやく得られることになる共感を相互共感の喜びと呼びました。そして、日常生活の中でともに生活している人たち同士がことあるごとにお互いの喜怒哀楽を共にし、共感しあい、相互共感の喜びを積み重ねる経験を通して、人間ははじめて自分の感情の豊かさを育むことができるのです。そして豊かな人間的感情をもつことができた人間同士のあいだでこそ、お互い真に温かで精神的にも穏やかで喜びや幸せを感じることのできる人間関係を育むことができるのです。

 しかし、経済的な利害得失の冷徹な損得勘定にもとづく人間関係の影響が強くなればなるほど、そうした共感的な人間関係構築の生活空間が失われていくことになるのです。いやむしろ経済的利害関係をめぐる醜く、冷酷な対立や争いが生まれ、増大していくことになっていくのかもしれません。なぜならば常に経済的な利害得失の冷徹な損得勘定による他者との合意が得られるとは限らないだけでなく、むしろ経済的な利害得失に関する不一致から起こる人間関係の溝を深めていくことが多々生じるからです。

 しかし、それにも関わらず、歴史的に見ると、経済的利益追求の自由なそのための地域間の移動およびそのことによる経済的交換や取引、そして交易の自由は、人がよりよく生きていくための社会的条件であると考えられ、その条件を求めての社会行動の噴出がそれまでの社会を大きく変えていったのです。いわゆる社会諸科学の分野で言うところの近代化という社会変動がそれにあたるのです。

 ところが現在では、その近代化は人間がよりよく生きるためのまさしく反対物の社会的条件に転化してしまっていると言ってよいのかもしれません。なぜならば、近代化が極限まで深化した現代という時代は、また人間の共感的関係性を、また極限まで節約し、縮小化してしまっていると考えられるからです。

 そのために、現在では、私たちが生きる世界が、多くの生きづらさや争いごと、そして醜い行動・行為が頻発する世界と化してしまっているのではないでしょうか。そうした現代社会の中、それまでの近代化の成果を踏まえた上で、宮沢さんが提起した問いに答え得る世界を創っていくにはどのような道を切り開いていけばよいか、ということがつよく問われているのではないかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン