シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

よりよく生きたいという思いや意欲の高まりが社会を変える(2)

 よりよく生きようとする人々の思いや意欲の高まりが社会を動かし、変えていくのではないか、そしてロバート・オウェンさんや宮沢さんたちの仕事は、そうした思いや意欲を具体的な社会づくりの思想にまで結晶化させようとした貴重な仕事だったのではないかと考えることができるように思います。

 そうした問題意識をもっていたのですが、宮城県の書店で塚本学さんの『生きることの近世史 人命環境の歴史から』(平凡社、2022年)という文庫本に出会うことができました。塚本さんによれば、これまで歴史と言えば、天下国家の歴史とされてきました。しかし、塚本さんは、これから歴史を見る目として、庶民の日常生活の些事とみなされるような出来事に注目していくことが肝要になるのではないかと問題提起します。

 なぜならば、それらの出来事こそ、社会を大きく動かしていくための底流だからなのだと言います。すなわち、それらの出来事こそ、歴史を揺り動かすマントルなのです。塚本さんは言います、

 庶民の「日常些事の歴史は、当事者にとっての些事ではなく、また当事者とその周辺にしか意味をもたない歴史でもない。天下国家の歴史から些事とみなされるような、無名の民の日々の生こそが、人類の歴史の内容であったはず」ですと。

 そうした視点で日本の歴史を見てみると、とくに人命にかかわる歴史ということからは、十七、八世紀に大きな転機があったのではないかと塚本さんは言います。塚本さんの人命にかかわる歴史は、社会学的視点で見ると、人命の社会生活文化環境史と呼べる歴史観ではないかと思います。

 その塚本さんの歴史観によれば、十六世紀の日本社会は人命に関しては非常に軽く見る空気に覆われていたと言います。すなわち、塚本さんによれば、当時の日本社会では、「人殺しは普通のこと」だったのです。

 塚本さんはポルトガルイエズス会宣教師ルイス・フロイスさんの証言をあげてそのことを裏付けています。すなわち、フロイスさんいわく、「われわれの間では人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や牝鶏または犬を殺すことは恐ろしいことではない。日本人は動物を殺すのを見ると仰天するが、人殺しは普通のことである」のですと。

 十六世紀時代の日本社会における人殺しが普通になっていたことは、塚本さんによれば、まず「公権力による処刑の多さ」に表れています。また奉公人が「主人に殺される不安」にさらされていたことも当時の人命に関する生活環境だったと言います。すなわち、「家の下人や家族員が、主人の意に反する行動をとったとき、主人が処刑するのを当然ともしていた」社会習慣に表れていました。武家の奉公人や農村社会における親方への完全従属を強いられていた農家奉公人にそうした不安が蔓延していたのです。

 ここで塚本さんは面白い問題を提起します。それは、当時そうした人殺しが普通の社会であったにもかかわらず、十七世紀における顕著な人口増大はなぜ起きたのかという問題です。

 塚本さんによれば、「少なくとも十七世紀は、列島住民の人口が大きな増加をみせた時期であった」のです。塚本さんはその人口増加の様子を、「爆発的増加」、「異常なまでに高い増加率」とまで表現しています。人殺しが普通になっている社会であれば人口減少が起こっていてもおかしくないのに、なぜ十七世紀に「爆発的」人口増加があったのでしょうか。

 一般的な社会科学的な視点であれば、人口増加の背景を説明する仮説は社会的生産力の増大要因となるのではないかと思います。しかし、塚本さんが重視する仮説は、人々の生きるということに関する意欲と選択肢の増大という要因です。

 そのことについての詳しい議論はぜひ塚本さんの著書を参照していただければと思います(その中には、生き伸びるための情報収集の重要性に関する議論も含まれています。)が、ここでは農村社会における親方百姓と親方百姓に抱えられた奉公人との人口増加の背景となっている関係変化に関する塚本さんの叙述を参照しておくだけにしておきたいと思います。

 親方百姓とそれに抱えられた従属人との関係は、庇護を期待できる対価として「親方百姓の恣意」によって命を奪われる不安があるものであったのですが、十七世紀に親方百姓の庇護への情誼が薄れてくる中で、「庇護をあてにせずに生きるという危険を冒しての生き方」を選択する従属者が増大し、親方百姓の完全従属を求める生殺与奪の権と対峙する状況が生まれたのだと塚本さんは言います。そうした従属者の動きは、それらの者の家族数の増加となって十七世紀の人口増加の重要な一因となっていったのです。

 塚本さんは、それらの人口増加を、「自立した生」を求めることによる人口増加と把握しています。当時同じ動きが都市社会でも興っていたと言います。例えば、武家奉公人の間でも「命あっての物種」という風潮が当たり前となり、安易に人の命を奪うような処罰をする主人はなかなか奉公人を得られなくなっていったのです。

 しかも、さらに、そうした人命に関する風潮は、当時の江戸幕府の人命に関する政治と政策にも大きな変化をもたらすような影響を与えていったのです。塚本さんはその例として、将軍徳川綱吉さんの「生類憐みの令」を取り上げています。

 綱吉さんのその政策は犬の命よりも人の命を軽んじるものとして悪政糾弾の対象となってきたという面もあるのですが、塚本さんによれば、それは、動物たちにたいする殺傷だけでなく、人の人にたいする殺傷が横行する殺伐とした当時の空気を少しでも無くしていこうとする思いがあったものであると捉えなければならないのです。

 すなわち、「生類憐みの時代は世の必要からうまれたもの」であり、その政策の「背後にあった道徳鼓舞も、世の中のうごきのなかで用意されていた」のです。

 「親方百姓の庇護と支配を離れた小規模な農民にとっても馬牛の飼育は容易ではなかったから、老病によって労働能力を失った馬牛はしばしば捨てられることがあった」のですが、それは人間社会の風潮でもあったのです。その風潮に対して、「生類憐みの令のなかで、捨て子や老病者の遺棄をきびしく禁じる趣旨は強調されつづけた孝道徳の鼓舞や養子手続きの厳格な励行、また親族の範囲と間柄の厚薄規定を含め服忌令の制定・改訂等」があったことに注意が向けられるべきなのです。

 以上ごく簡単な紹介にすぎませんが、個人的には、塚本さんの「些事とみなされるような、無名の民の日々の生こそが、人類の歴史の内容」であるという主張は、フィールドワークをする社会学者が常に旨としておかなければならないものではないかとの思いを強くしました。

 なるほど、社会変化の底流には、人々のよりよく生きたいという思いの集積があるのだとあらためて強く感じます。ただよりよく生きるとはどのような内容なのか、時代と社会によって大きく異なってくるのでしょう。では現代社会におけるよりよく生きるという思いの新たな集積、そしてそれがより多くの人たちが社会づくりと運営の主人公となるような社会変化につながる新たな集積にはどのようなものがあるのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン