シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「産業組合青年会」考(1)

 多くの人に慕われ愛されていると言っても、空海弘法大師)さんと宮沢さんには大きな違いが存在しています。空海弘法大師)さんの場合、生前からときの権力者の人たちにも慕われ、何かと頼りにされていたようです。それに対して、宮沢さんの場合は、生きている間は、宮沢さんが属していた社会階級的属性と自身の奇人的・変人的行動によって宮沢さんの志が身近の人たちからさえも理解されていたとはとても言えない状況だったものと推察されるのです。

 とくに、宮沢さんが心を寄せ、救い・支えたいと願っていた貧しい農民の人たちから慕われ、愛され、何かと頼りにされるということは、一部の人たちを除いてはなかったと言われてきました。むしろ反対に、羨まれ、嫉妬され、嘲り、蔑まれていると宮沢自身が大いに悩まざるをえない状況だったのではないでしょうか。社会的孤立と孤独感の中で宮沢さんは、貧しさとその上さらに次々と襲ってきた自然災害の被害によって当時苦しんでいた同じ地域の農民の人たちを何とか救いたいと奮闘していたのです。

 そうした自他の認知上の大きなギャップを抱え込みながら、なお宮沢さんは当時の地域の、とくに農民の人たちに寄り添い、何とか窮状を救いたいと願いつづけていたのです。そこに宮沢さんの悲哀と、しかしなお偉大さが示されているように感じます。そうした宮沢さんの心情を理解しようと努め、宮沢さんがいかに農民の人たちに寄り添い、共感しようとしていたのかを探究しつづけている方が、これまでも何度か参照してきた和田文雄さんなのではないかと思います。

 和田さんは、そのことを、なぜ宮沢さんは「ヒドリのときに涙をながさなければならなかったのか」という問いを探究することによって証明しようとしてきました。そしてその結論として、当時の日本農本主義、それにもとづく東北農民の「匡救」という救済政策、そしてその政策を立案・作成した国家官僚・エリートに対する強烈な批判意識が宮沢さんに存在していたというものです。和田さんは主張します、

 当時の国家官僚・エリートの人たちの「昭和の農業恐慌や冷害被害に苦しんだ東北の農業・農家・農業者を匡して救うという思いあがりはとおらない。匡は型にはめて型どおりにすることで、もとは、『其の悪を匡救す』である。冷害や世界の経済不況、国内の統治の不全が農家農業に農村疲弊をもたらしたので、それがどうして農家の悪となるのか、匡救の土木工事の手間賃を貰ったら、役場の人に未納の税金を差し引かれたと、病人を抱えた農家の主婦が訴えた事実が残っている。それがヒドリの実態である。このときながす涙を賢治さんは『ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ』と書きのこした。その人たちの姿こそが雨にも、風にも負けない百姓の勁(つよ)い姿なのである。この姿に目をそむける人がいる。だが、なが年、耕した人の語り伝え、古老たちが相い伝えてきた旧聞をしらべよと命じ、またそれに忠実であった人々の努力のあとを常陸国風土記に見ることができる」(和田文雄『続・宮沢賢治のヒドリ――なぜ賢治は涙を流したか』コールサック社、2015年)のですと。

 当時の東北農民の「恐慌や冷害被害」による痛みや苦悩は、自分たちが招いた痛みや苦悩であると悪者あつかいする国家官僚・エリートの人たちに対する憤りと、悪者扱いされている東北農民の人たちへの限りない宮沢さんの共感があったのだと、この和田さんの文章は伝えています。また多くのことを和田さんから学びました。感謝です。

 そうした和田さんの考察に接したことで、これまでそれをどのように理解したらよいかについて分からなかった宮沢さんの作品をどのように読んでいけばよいのかについてもその方向性が見えてきたように感じます。その作品とは、「産業組合青年会」です。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン