シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

「産業組合青年会」考(2)

 これまでずっと、宮沢さんの詩の作品であると言われてきた「産業組合青年会」という作品をどう理解したらよいのか疑問に思ってきました。それは、この作品には、私自身にとっては全く無関係に思えた二つの内容が存在しているからです。その二つの内容とは、以下の文章です。

 一つ目は、「祀られざるも神には神の身土があると/あざけるやうないつろな声で/さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ」という部分です。二つ目は、「部落部落の小組合が/ハムをつくり羊毛を織り医薬を領ち/村ごとのまたその聯合の大きなものが/山地の肩をひととこ砕いて/石灰岩末の幾千車かを/酸えた野原にそゝいだり/ゴムから靴を鋳たりもしよう」という部分です。

 そしてこれら二つの部分の関係については、「しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半/祀られざる神には神の身土があると/老いて呟くそれは誰だ」とあるのですが、この文章だけでは、「老いて呟」いている思いと「熱誠有為な村々の処士」への思いとはどのように関係しているのかについては全くわかりませんでした。

 この疑問を和田さんがご自身の著書『続・宮沢賢治のヒドリ――なぜ賢治は涙を流したか』の中で私にも理解可能な内容で解説してくれていたのです。この本に出合えたとはなんと幸運なことなのでしょうか。

 和田さんによれば、一つ目の文章に関わる意味は、「神仏分祀社格によって合併、廃社する……そのことへの応答がこのように現れている」と推察できるのです。二つ目の文章に関しては、

 「『処士会同の夜半』は集まった『産業組合』の若者が村で農業に従事している実直な青年を指しているのであろう。一般には処士は仕官などしない人。道家思想などの無為自然を求め隠棲する隠士に対置する。ここでは青年会で活動する青年への敬意を表すことばとしたのであろう」と推察できるのです。

 そうした和田さんの解説を読むと、宮沢さんは、産業組合青年会の場で、心にあったことは、当時の国家官僚・エリートの人たちに対する憤りだったことが理解できます。当時の国家官僚の地方の人たちを見下し、蔑視し、差別する意識に抗う宮沢さんの感情を感じます。

 社格が低いといって廃社し、世界恐慌や冷害によって苦しんでいる東北農民を悪者扱いしたりする国の政策に抗しがたい憤りが噴出しているのを感じます。「祀られざる神には神の身土がある」のです。

 そうした状況の中でも、お互い支え合って自分たちの生活を再建しようとしている農業青年たちへ敬意を払い、エールを送ろうとしている宮沢さんの気持ちを感じます。この作品には、それまでの宮沢さんとは違った宮沢さんがいます。

 和田さんの解説に出会うまでは、宮沢さんは、自分を理解せず、白眼視さえしている地域の農民たちに対し、詩作を通して怒りや苛立ちの心情を著してきたのではないかと思ってきました。そうした思い込みもあってなのでしょう、これまで「産業組合青年会」の作品を理解できないできたのです。

 和田さんは、さらに、ここで参照している彼の著書『続・宮沢賢治のヒドリ――なぜ賢治は涙を流したか』の中で、宮沢さんが駅前派出所の前で「モラトリアム」を絶叫したエピソードを紹介しています。それによると、宮沢さんは、

 「『いま岩手県を救う道はモラトリアムをやることです』と大声をあげる。年譜(堀尾青史編)昭和六年七月十日の項にある。いっしょにいた小原弥一が問い返すと『岩手県は(農家は)謝金だらけです。その借金を返さないことなんです』と説明をはじめ、その声があまりに大きいので駅前派出所の白鳥巡査がとびだして」きたと言います。

 世界恐慌や冷害によって苦しんでいる自分の身近な東北の農民の人たちを必死になって、自分の命を削っても何とか救おうと奮闘してきた宮沢さんの心の叫びが、「いま岩手県を救う道はモラトリアムをやることです」という叫びだったのでしょう。その叫びは、自分の力だけでは何ともならない悲惨な社会的状況というものがあり、それは社会的にしか救済できないことへの意識化の表明でもあったように感じます。

 とくに、当時の国の東北の農民の人たちの惨状への応答はどうあらなければならないかについての、宮沢さんの抑えようとしても抑えきれない思いの表明でもあったのではないかと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン