シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんが向き合わなければならなかった修羅とは

 宮沢さんの人生の軌跡をたどり、その中で宮沢さんの人間性のすばらしさを知れば知るほど、なぜ宮沢さんが自分を「修羅」との自己認識をしなければならなかったのかという疑問があらためて募ってくるのでした。そこで、ここでは、これまでの考察を踏まえて、暫定的な仮説をたてておければとの思いに至った次第です。

 宮沢さんは、そのことを、「春と修羅」の冒頭のところで、次のように著していました。

 「まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ/ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅(しゆら)なのだ」とです。この文章には当時の宮沢さんの苦悩がいかに強かったのかが綴られています。しかも、それはまるで、いかに自分自身がなさけない存在になりさがってしまっているか、そしてそうした自分と闘わなければならないということを自分自身に言い聞かせているようです。

 その苦悩とは、社会学的に見ると、社会的存在としての信条と個としての存在の心情との矛盾についての苦悩であるように思えます。宮沢さんはこのときすでに心友保阪さんとすべてのみじめな衆生を救うとの誓いを交わしていました。そのためには、自分は阿弥陀仏にも匹敵する「偉大」な存在にならなければならないと考えていたのではないでしょうか。そのため、宮沢さんはその自分にとっての理想の自画像と、一方で宮沢さんはまだ自分のことや自分の身の回りのことや人との関係においてさせ、ままならない状態に陥っていたのです。そのことで、宮沢さんは、自分の理想自我と現状とのあまりの溝の深さに懊悩しなければならなかったと推測されるのです。

 宮沢さんは、その自分たちの志を、1918年3月20日ごろの保阪さん宛の手紙の中で次のように著しています。少々長くなるのですが、宮沢さんの当時の思いを確認するためにもできるだけ長く引用しておおくことにしたいと思います。

 「私共が新文明を建設し得る時は遠くはないでせうがそれ迄は静かに深く常に勉め絶えず心を修して大きな基礎を作つて置かうではありませんか。あゝこの無主義な無秩序な世界の欠点を高く叫んだら今度のあなたの様に誤解され悪まれるばかりで、堅く自分の誤った哲学の様なものに嚙ぢり着いて居る人達は本当の道に来ません。私共は只今高く総ての有する弱点、裂罅を挙げる事ができます。けれども『総ての人よ。諸共に真実の道を求めやう。』と云ふ事は私共が今叫び得ない事です。私共にその力が無いのです。

 保阪さん。みんなと一緒でなくても仕方がありません。どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間に深く無上の法を得るために一心に旅をして行かうではありませんか。やがて私共が一切の現象を自巳(ママ)の中に抱(ママ)蔵する事ができる様になつたその時こそは高く叫び起ち上り、誤れる哲学や御都合次第の道徳を何の苦もなく破つて行かうではありませんか」(『【新】校本宮澤賢治全集第十五巻』)というのがその文章です。

 あらためてこの文章を読んでみると、この手紙を書いていたとき、宮沢さんの意気込みと自負心がいかに強かったかを感じます。またそうであれまあるほど、高等農林学校卒業後に自分の進路さえ決めかね、自分が嫌だと感じていた実家の質商の店番をしなければならないような宮沢さんにとってあまりにもなさけないような現状について深く苦悩しなければならなくなってしまったのです。それでは、ますます自分が救いたいと考えていた東北の農民の人たち、とくに貧しい農民の人たちから恨まれ、白眼視されなければならなくなっていくばかりとなってしまうのです。

 繰り返しになりますが、そこには、「誤れる哲学や御都合次第の道徳を何の苦もなく破つ」ことのできる力をもった自分の自己像と現実の自分とのあまりにも大きなギャップが存在しています。そのギャップをうめていくこと、それが、当時の宮沢さんに課せられた自己形成のための大きな課題だったのです。

 宮沢さん自身その課題を自覚し、先に引用した文章の中で、自分はいまから「無上の法を得るために一心に旅」をすると表現していました。この一心の旅を悟りに向けた旅とすると、宮沢さんが目指した方法は非常にユニークだったと思われます。なぜならばその悟りをえるための修行法が既成の宗教者のそれとは異なる新しいものだったからです。

 まず何をめざして修行するのかということですが、「一切の現象を自己のなかに包蔵する事」です。そのために、宮沢さんは、はじめに自然科学を含む既成の学問分野の知識をすべて自分のものとすることを考えたのではないかと推測します。すなわち、勉強することが修行だったのです。しかし、それは、高等農林学校までしか進学できなかったことで早々に断念しなければならなかったのです。

 そこで次に考えた方法が、働き生計をたてながら、自学するという道ではなかったと思います。しかし、これも父親の認めるところとならず、断念しなければならなくなります。その結果が、自分が嫌っていた実家の質商のための店番をするという状況に陥ってしまうことになったのです。

 しかし、宮沢さんにはまだ道は残されていました。それは、法華経を我がものとすることです。宮沢さんによれば、法華経には、過去、現在、そして未来を含めて「一切の現象」とその真理が存在しているのです。宮沢さんは言います。「万物最大幸福の根原妙法蓮華経」、「一切現象の当体妙法蓮華経」とです。

 そして、この法華経を唱えるとき、宮沢さんは「一切の現象を自己のなかに包蔵する」ことができるものと信じていたのです。先述の同じ手紙の中で、保阪さんに向かって次のように呼びかけています。

 「保阪さん 私は愚かな鈍いものです 求めて疑つて何物をも得ません 遂にはけれども一切を得ます ……南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです あゝその光はどんな光か私はしりません 只斯の如く唱へて輝く光です」とです。

 宮沢さんは法華経を唱えるとき、不可思議な光が世界の一切の現象と共に自分を包み込み、そのことによって自分は「一切の現象を自己のなかに包蔵する」ことができるようになると信じていたのです。その資格と力が自分にはあるとも信じていたのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン