シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんの自己研鑽(修行)の道

 宮沢さんの人生は、阿弥陀仏さんにも匹敵するような偉大な人物にたるために、それからはほど遠い存在でしかない現実の自分自身と闘いつづけなければならなかった人生だったように思えます。それは、「無主義な無秩序な世界」に替えて「新文明を建設」するためでした。

 そのためには、この世界の「一切の現象を自己のなかに包蔵する事」ことができるようにならなければならないと宮沢さんは考えていました。しかも、そのための方法は、「一切現象の当体妙法蓮華経」を唱えることで「世界と我と共に不可思議の光に包まれる」経験を積んでいくことだったのです。

 宮沢さんは非常に繊細な感情のもちぬしだったのでしょう。しかも、とても敏感に人の気持ちを感じてしまうだけでなく、意識的に人の感情を気にし、読もうとしてしまうところがあったのではないかと思います。しかもごく自然にそうしてしまうところがあったのではないでしょうか。

 そのことは、宮沢さんという人間は、人がいまどのような感情でいるのかを察するだけでなく、その人の感情によって容易に傷ついてしまう、ないしは容易に怒りの感情が噴出してしまう人だったように思います。しかも、一方では、そうした自分を責めてしまうところもあったように感じます。ある意味、宮沢さんには(自分一人の力ですべての人を救い、新文明を建設することができると考えるような)傲慢さと(ちょっとしたことでも自分を責めてしまう)自己卑下の感情が同居していたように思えます。

 宮沢さんの詩の作品の中に、「恋と病熱」があります。そしてその作品は宮沢さんの上述のような非常に繊細な感情を映し出しているのではないかと感じます。

 「けふはぼくのたましひは疾み/鳥(からす)さへ正視ができない/ あいつはちやうどいまごろから/ つめたい青銅(ブロンヅ)の病室で/透明薔薇(ばら)の火に燃される/ほんとうに、けれども〔妹〕よ/けふはぼくもあんまりひどいから/やなぎの花もとらない」

 この詩を詠んだとき、宮沢さんは誰にどのような恋をしていたのか、いろいろ推測されているようです。ただはっきりしていることは、そのことで宮沢さんの心がすっかり乱れてしまっていることです。後に、最愛の妹を亡くし、あれだけ悲しみに明け暮れ、嘆いた宮沢さんが、このときは病室で熱病に喘いでいる妹のことさえその苦しみを和らげるように対応するだけの余裕を失ってしまっています。宮沢さんはそうした自分の心の乱れを、忠実に詩にし、すべての人の苦しみを救う者としての自分の心の弱さを率直に表現しているのです。

 そうした自分の心の弱さに向かい合い、見つめつづけることが、宮沢さんの新文明建設者としての自己形成のための道だったのではないかと考えます。その方法が、心象スケッチという方法でした。しかも、その方法は、希望のもてる方法でもあったはずです。なぜならば、見つめつづけるなかで、いつの日か自分は妙法蓮華経を唱えることでこの世界の「一切の現象」を我が心に包蔵することのできる不可思議な光に包まれる瞬間を迎えられるはずであるという確信が宮沢さんにはあったからです。

 そしてその心の軌跡は、宮沢さんにとって新たな仏経典を創造する道でもあったと思われるのです。なぜならば、仏経典の内容のひとつは、いかにして凡夫としての人が悟りの道を歩み、仏となっていくかを記すものであったからです。宮沢さんは不可思議な光に包まれ一瞬にして悟りをえて仏となる瞬間までの自分と自分をとりまく一切の環境世界との交信の記録をとりつづけること、それが新文明を建設することのできる自分に生まれ変わるための自己研鑽の道だったのだと考えられるのです。

 ただそうした目標の実現という点から見れば、残念なことですが、そうした瞬間が訪れることはありませんでした。そのことで、宮沢さんは、自分の心象スケッチを綴りつづけるだけでなく、自分がめざす理想社会である仏国土建設の道を試行錯誤しながら歩んでいくことにもなっていくことになるのでした。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン