シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

人のために生きる

 宮沢さんを修羅としての存在から不軽菩薩のような存在になることを願うような自己へとの自己形成の歩みを導いていった宮沢さんに内在していた力とはどのようなものだったのでしょうか。宮沢さんという人を知るために欠かせない問いです。

 一つの仮説ですが、その問いへの答えは、以下の4つの力ではなかったのではないかと考えます。人の幸福を心から願うことができた人間力。人の喜びを自己の喜びとし、人の悲しみを自己の悲しみとし、人の苦しみを自己の苦しみとすることができたまれにみる共感力。自分を謙虚にみつめ、失敗や挫折の経験から自分を素直に見つめ直すことができる反省力、そして思っているだけ、考えているだけでなく、目の前の人の苦しみを見過ごしておくことができず躊躇なく救いの手をさしのべてしまう行動力。それらの力が、宮沢さんの自己形成を導いていった力だったのではないかと考えます。

 そして、それら4つの力を動因とした宮沢さんの自己形成とは、自分を特別な存在者と感じていたために社会的に孤立していた者から人の(輪)中に入り、関りをもつことのできる者へ、人を教え導く者から人から学ぶことができる者へという軌跡の自己形成だったのではいかと思います。

 そうした自己形成を歩むことになった外的要因は、ひとつは、自己形成の基準として日蓮さんを師として法華経においていたこと、そして二つ目は、実際に人のために救済する活動に飛び込んでいったことではないかと考えます。

 とくに後者の要因は、夜回り先生と呼ばれている水谷修さんが自分の居場所をもてず夜の都会の繁華街をさまよっている子供たちや若者たちにかけることばを想起させるものではないかと感じます。

 水谷さんは、自分の居場所をもてず、絶望にもちかい孤独感をかかえている子どもたちや若者たちに呼びかけます。

 「つらいとき、哀しいときは/人のために何かしてみましょう。/まわりに優しさをくばってみましょう。」

 「みんなの笑顔が、あなたの哀しい心を癒してくれます。/人のために生きることが、これからの自分のためになります。/『ありがとう』と言われることが、あなたの生きる力です。」〔水谷修『こどもたちへ 夜回り先生からのメッセージ』サンクチュアリ出版、2006年(7刷)〕とです。

 この水谷さんの呼びかけは、まるで高等農林学校を卒業したものの自分の去就が定まらず、自己卑下、苛立ち、そして孤独感にさいなまれた宮沢さんに向かって呼びかけられたかのように感じます。宮沢さんへの呼びかけは自分自身でおこなわれたのですが。そのときとは、人を幸福にするために何かしなければならないが何をしたらよいかまるで思いつかない、どうしたらよいのだろうかと悶々としていたある日、日蓮さんの書物が宮沢さんの身に落ちてきた瞬間だったのでしょう。その瞬間こそ、人の幸福実現のための仏国土建設の実践者としての宮沢さんの新たな旅立ちの瞬間でした。

 そして、宮沢さんは、水谷さんの呼びかけに応えて人のために生きるための人生の指針となる二つの心情のもちぬしでした。ひとつは、人をだますくらいなら人にだまされるくらいお人よしな方がよいというものではなかったかと思います。そしてその心情は、トルストイさんから学んだものではなかったかと推測します。

 もう一つの心情は、「強きをくじき、弱きを助ける」というものではなかったかと思います。そしてその心情は、高度経済成長期以前の、勧善懲悪的風潮がまだ日本社会における心象風景となっていた時代における人々の社会的心情としてある程度共有化されていたものではなかったかと思います。

 現代社会では、これらの心情は絶滅危惧種の心情となってしまいました。そしてそれらの心情がなくなるにつれて、世の中はとても生きづらい世の中へと変わっていったのではないかと思います。とくに、現代社会における心象風景が「強きについて、弱きをくじく」というものに変化してしまったことで、大変生きづらくなってしまったように感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン