シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

内ヶ崎作三郎さんの『人生学』(2)

 内ヶ崎さんの『人生学』はどのようなものなのでしょうか。また、内ヶ崎さんの『人生学』は宮沢さんの思想を理解するためのよい参考書となるとはどのようなことなのでしょうか。さらに、内ヶ崎さんの『人生学』は現在の地域づくりのための思想としても意義あるものであるとはどうしてなのでしょうか。

 内ヶ崎さんは自著の『人生学』の冒頭のところで、人生学とはどのような学問であるかについて次のように論じていました。それは、人生学は処世術、すなわち、「人生学は出世の道、或いは立身の術ではない」のです。人生学は、地域繁栄のための人づくりのための学なのですというものです。

 宮沢さんは、岩手県に極楽浄土の世界を創るための人づくりのために奮闘しつづけて生きていました。内ヶ崎さんは、社会繁栄のための人づくりのために『人生学』を著していたのです。宮沢さんの極楽浄土建設のための人づくりと共通する要素が内ヶ崎さんの『人生学』にはあったのではないかと思います。

 内ヶ崎さんは言います。地域の「背景には、人がなければならぬ。立派な人が現れれば、その地方は繁栄する。今のような、政治的、社会的、経済的改革の時代に於て、我々は人となると云うことが第一の義務」なのです。内ヶ崎さんもまた、自分が生きていた時代を「政治的、社会的、経済的改革の時代」ととらえていたのです。

 その点においても、内ヶ崎さんと宮沢さんには共通点があったと感じます。しかし、宮沢さんは、なによりも自分自身が既存の社会体制を「改革」するために、それにふさわしい人物になるために自分の成仏のための道を極めることを優先しました。さらに、なによりも経済体制ではなく、目の前の経済的状況を変えるための実際上の活動を優先したのです。

 内ヶ崎さんは、政治的および社会的改革を優先しようとしたのでしょう。そのために政党を立ち上げ、政治家へと転身していったのです。ただ、自分が理想とする社会建設のためにはまず人づくりが大切であると考え、それぞれの方法でそのための活動を行っていこうとしたことは共通していたのではないかと思います。

 さらに、内ヶ崎さんと宮沢さんは、宗教、科学、そして宗教と科学の関係についての理解に共通するものがあったと感じます。それは、宮沢さんも、内ヶ崎さんも、ともに宇宙の全存在を律している究極の存在というものを仮定しているというのがそれです。宮沢さんの場合は、それは仏法(法)ですし、内ヶ崎さんの場合は、「実在」です。

 内ヶ崎さんは言います。『人生学』を論じるための基礎となる「自分の立場」すなわち「宇宙の実在に対する自己流の定義」をまず初めに明らかにしておきたいのですと。なぜならば、「私(内ヶ崎さん)の講義は大体この定義を基礎として、進んで行く」〔( )内は引用者によるものです。〕ことになるからです。

 そこで、内ヶ崎さんは「実在」を定義していきます。すなわち「実在」とは「宇宙根本の力」である。その「実在とは、万有に内在し、遍満して、始なく、終なく、生せず、減せず、自立し、自存し、破壊より建設へ、単純より複雑へ、低級より高級へと、不断に分化し、進化し、向上し、創造しつつある力、命、真、道の謂である」。

 「何となれば生命の源は常に此宇宙の中に存するからである。宇宙そのものが生きている。森羅万象は決して死物ではない。生命の泉はこの生きている物質のうちに潜んでいる」のです。

 以上が内ヶ崎さんの「実在」に関する定義となります。この内ケ崎さんの宇宙生命論とも言える「実在」の定義は、宮沢さんの宇宙論、すなわち仏法論と共通する考え方が示されているように感じます。では、この「実在」論を基礎にして宗教と科学との関係を、内ヶ崎さんはどのように論じようとしているのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン