成仏道に関しても、古来さまざまな考え方があったのではないかと思います。例えば、座禅を組み、瞑想に耽るというのも、よく知られた成仏への道の一つです。その点で、宮沢さんの成仏道におけるもう一つの方向性は、自然の中を散策し、自然に浸りながら、自然の心に触れ、自然の心を感じ、そして自然の心を読む旅をつづけることではなかったかと思います。まさしくそれは、詩や童話創作のための資料収集の旅ともなった、心象スケッチの旅です。この心象スケッチ法という宮沢さんの文学創作法に関しては、これまで数多くの研究や論評がおこなわれてきました。ただそれらの先行研究に触れても、これまでは何となくでも、あ、そうなのかと十分納得する議論には出会えていませんでした。しかし、今回、鳥山敏子さん著の『宇宙のこころを感じて生きる 賢治の学校』という書籍に出会うことができました。それを読み進めていくうちに、宮沢さんの成仏道とは、自然と交流・交感することによって自然と一体になる体験を積み重ねることだったのだと、納得していったのです。
この著書に出会って初めて知ったのですが、鳥山さんは、宮沢さんがめざした「教育」、すなわちすべての子どもたちの「天の才」を発揮させることをめざす教育を、ご自身の教員時代および退職後を通じて一貫して全国に広めようとして活動されてきた方です。その著書の著者紹介には、そのことが次のように記されています。
鳥山さんは、「八、九歳ごろ賢治の『雨ニモマケズ』に出会い、自分の生きたい姿勢を言葉化してもらった。一九六四年東京都の公立小学校の教諭としてスタートし、一九九四年三月退職するまでの三十年間、教室を『賢治の学校』にすべくさまざまな試みをする。……現在、雑誌『賢治の学校』(世編書房)編集代表。各地に賢治の学校を創立すべく東奔西走の日々を送」っていますと。
そうした経歴の基礎となっているのが、鳥山さんの宮沢さん理解です。鳥山さんは、宮沢さんは、自然と一体となることのできる体を有していたと論じています。すなわち、「自然をただの風景として眺めるのではなく、その全体が自分なのだと感じる。そう感じるからだを賢治はもっていたの」です。だから、宮沢さんにとって、「自分の目がとまる外界、こころひかれる外界はただの外界ではなく、自らの内界の表現でもあるのだ。賢治の外界描写は、すべて賢治の内界の表現そのもの」なのです。そうした体を持っている宮沢さんの生き方は、「自分のからだが感じたものに忠実であろうとした」生き方でした。
鳥山さんは、確信をもって、論じます。「賢治は、自分のからだが感じたものに忠実であろうとした。それを裏切ってまで人に理解されようとは考えなかった」。農学校の教師時代、「同僚の教師が『宮沢さんには本当は一人も友だちがいなかった』と証言しているが、自分を理解してくれる人がいるかどうかなどで賢治は生きてはいないのだ。賢治はもっと別次元で生きていた。そう、おそろしく真剣な生命の世界、生まれるべくして地上に生まれた自分のいのちとひたすら正直に向き合うことが賢治にとっていちばん大切なことだったから」ですと。
なるほど、確かに、宮沢さんの生き方は、鳥山さんが論じているように、人はどうすれば自分の「天の才」に気づき、そしてその「天の才」に従っていきることができるようになるのか、これからの子どもたちの教育にとって最も大切になるように思われる手本となるような生き方を示しているのですね。そして、その生き方こそ、宮沢さんの成仏道だったのではないでしょうか。鳥山さんのご示唆に感謝です。
しかし、鳥山さんの議論の中でひとつだけ納得できない議論がありました。それは、そうした生き方を自分のものとしていた宮沢さんは、全く孤独感を感じていなかったという議論です。個人的には、宮沢さんは、大きな孤独感を常に感じていた、非常なさびしがりやでもあったのではないかと推測しているからです。それも、宮沢さんの人生を理解する上で、大切なテーマだと考えます。ここでは、その議論には深入りせず鳥山さんの主張に耳を傾けておくことにしたいと思います。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン