シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(8)

 ここまで思いつくままに宮沢さんがめざした仏教の教えとは何かについて見てきました。その中で、宮沢さんがめざした仏教の教えの特徴をもう少し体系だって理解するためにはどのような視点で見ていけばよいかという思いが浮かんできました。

 とくに、その視点には、宮沢さんの思いと地域の農民の人たちとの関係性をとらえることができるものであることも重要と考えます。ここでは、まだ仮説的ですが、そのための視点として、仏教の教えに関する願い・祈り・救い(救済)・心の平和(平穏)・(快楽ではない)楽しむという五つの要素の内容と関係性という視点を立ててみたいと思います。そして、その視点で、自分が救済しようとしている農民の人たちとの関係性において宮沢さんが抱えたジレンマを考察していければと思います。

 すなわち、上述の仏教の教えに関する五つの要素の内容と関係性において、宮沢さんの考えるものと農民たちの心の中にあるものとには、重なる部分と(大きくまたは小さく)ずれてしまう部分が、どうしてもでてくるのですが、そのことに宮沢さんは苦しんでいたと感じるのです。とくに、1927年8月20日の日付が入った詩の作品群には、そのずれに苦悩する宮沢さんの心情が綴られていたことはこれまで参照してきた通りです。

 『春と修羅 第三集補遺』の「心象スケッチ、退耕」と「雲」という作品もそうしたずれに悩む宮沢さんの心情が綴られています。前者の作品から参照してみたいと思います。

 「黒い雲が暖かく妊んで/一きれ一きれ/野ばらの藪を渉って行く。/そのあるものは/あらたな交会を望んで/ほとんど地面を這うばかり/その間を縫って/ひとはオートの種子をまく/いきなり船が下流から出る/ぼろぼろの南京袋で帆をはって/山の鉛の溶けてきた/いっぱいの黒い流れを/からの酒樽をいくつかつけ/睡さや春にさからって/雲に吹かれて/のろのろともぼってくれば/金貨を護送する兵隊のやうに/人が三人乗ってゐる/一人はともに膝をかヽえ/二人は岸のはたけや藪を見ながら/身構えをして立ってゐる/みんなずゐぶんいやな眼だ/じぶんだけ放蕩するだけ放蕩して/それでも不平で仕方がないとでもいふ風/憎悪の瞳も結構ながら/あんなのをいくら集めたところで/あらたな文化ができはしない/どんより澱む光のなかで/上着の裾がそもそもやぶけ/どんどん翔ける雲の上で/ひばりがくるはしくないてゐる」

 この「心象スケッチ、退耕」という作品にも、あの1927年8月20日付の作品群と同じように、宮沢さんが感じ取った、黒い雲を挟んでの宮沢さんと農民の人たちとの間の心情的な対峙が表現されているように感じます。すなわち、この作品でも、農民の人たちの生活を少しでもよいものとしようとして始めた肥料設計を、たまたま偶然の気候変動によって無に帰することになってしまった事態において、農民の人たちは宮沢さんを「憎悪の瞳」で見るような所業にでるのか、なぜか、なぜかと宮沢さんが問うているように感じます。

 上述の後者の「雲」という作品にもその宮沢さんのジレンマに陥っている心情が表現されているように思います。

 「青白い天椀のこっちに/まっしろに雪をかぶって/早池峰山がたってゐる/白くうるんだ二すじの雲が/そのいたヾきを擦めてゐる/雲はぼんやりふしぎなものをうつしてゐる/誰かサラーに属する女(ひと)が/いまあの雲をみてゐるのだ/それは北西の野原のなかのひとところから/信仰と譎詐とのふしぎなモザイクになって/白くその雲にうつってゐる/  (いましがわれをみるごとく/  そのひといましわれをみる/  みなるまことはさとれども/ 

 みのたくらみはしりがたし)/  ……さう/    信仰と譎詐との混合体が/    時に白玉を擬ひ得る/    その混合体はたヾ/よりよい生活(くらし)を考へる……/信仰をさへ装はねばならぬ/よりよい生のこのねがひを/どうしてひとは悟らないかと/をはりにぼんやりうらみながら/雲のおもひは消えうせる/うすくにごった葱いろの水が/けむりのなかをながれてゐる」

 この雲という作品には、宮沢さんがめざした仏教の教えの特徴の一つが明瞭に表現されているように感じます。それをひとことで言えば、宮沢さんがめざしていた仏教の教えとは、自然信仰に基礎をおく仏教の教えだったというものです。

 この作品では、霊峰早池峰山にかかる二すじの雲が主人公になっています。そして、その雲の思いが、人々の「よりよい生活(くらし)を考へ」ている、すなわち、自然は人間たちの「よりよい生活(くらし)」を考えている存在であると宮沢さんは考えているのです。しかし、そうであればなぜ、自然はときに人間生活に壊滅的な打撃を与えるような荒ぶれた姿で人間を追い詰めるような暴挙にでるのでしょうか。そのことに関しては、宮沢さん自身も、その「たくらみはしりがた」いと、この作品は表現しています。それでもなお、自然は、基本的には、人間の、人間だけでなくこの世のすべての存在にたいして、それらの「よりよい生活(くらし)」を願っているのです。

 宮沢さんは自問します、「どうしてひとは(そのことを)悟らないかと」です。宮沢さんも、そうした自然同様、農民たちの「よりよい生活(くらし)」を願って、肥料設計などの活動をしているのです。しかし、そのことを当の農民の多くの人たちは「悟って」くれません。なぜか、なぜか、そこに宮沢さんの苦悩があるのです。

 その宮沢さんの苦悩に関して言えば、宮沢さんは後に、農民たちは自分がその人たちのよりよい生活を願って、ときには命をかけて活動していることを理解してくれないのはなぜかと考えること自体、自分がいかに高慢な考えに陥っていたかと気づき、反省していくことになるのです。そこが塔を建てる者としての矜持を有している宮沢さんの宮沢さんたる所以です。

 ここまで宮沢さんがめざした仏教の教えとは何かを追いかけることで、宮沢さんはもしかしたら日本古来の山岳信仰を基礎に仏教の教えを受け止めようとしていたのではないか、そして、1927年8月20日の試練およびその後の東北砕石工場との関り以降、宮沢さんの自分の生き方に関する模索の方向性は、比較という視点で見ると、良寛さんの人生の歩みに類似するものとなっていったように感じます。

 それらの点に関しても今後考察していければと思います。がその前に、宮沢さんがどのような試練に直面しても常に前向きに自分の生き方を方向づけしようとしていたことに関して参照しておければと思います。それは、どのような仏教の教えと関係していたのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン 

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(7)

 この世に生きている個人が、仏教の教えを修得し、この世に極楽浄土的世界を創造することができるというような教えが、既成の仏教の教えの世界にあるのかな、と思っていたところ、青山俊董さんの『泥があるから、花が咲く』という本に出会ったのです。

 青山さんは、この著書の中で、「地獄・極楽は自分の心一つに開いてゆく世界」であることを説いています。その例として、「金沢の近郊、松任(まつとう)の本誓寺(ほんせいじ)」の歴史を示しています。本誓寺は、「千年の歴史を持つ古刹(こさつ)」ですが、親鸞聖人さんの越後への流罪を契機として、天台宗から浄土真宗に改宗したお寺だったのです。

 それは、「親鸞聖人が越後(えちご)に流される途中、手取川(てどりがわ)が氾濫して足止めを食い、しばらくこの寺に滞在された」際に、「その親鸞さまのお人柄にほれこん」だことによってだったというのです。そうした話を聞いた青山さんは、その本誓寺の歴史的由来を次のように受け止めています。

 すなわち、「深い感動の中に、私はこの話を聞きました。一般的にいえば、(親鸞聖人さんは、)受け入れ側としては流罪人だから歓迎したくない客。行くほうとしては流罪地だからよいところではないはず。親鸞さまほどの方になると、そんなことはどうでもよいのです。その方の行くところ、とどまるところが浄土になる、お浄土になる。そういうことであったな、と気づかせていただくことができました」〔( )内は引用者によるものです。〕とです。

 さらに、青山さんはそれを次のように敷衍するのです。「思うに地獄、極楽は向こうにあるのではなく、私の心一つ、生き方一つで自ら展開してゆくものであったということに気づきました」とです。その青山さんの気づきは、まさしく宮沢さんの求めようとしていた極楽浄土建設の方向性と同じものであったように感じます。

 では、そうした極楽浄土建設の方向性は、ブッダさん自身の教えの中にはどのように存在しているのでしょうか。青山さんは、「発句経」98がそのことに関わるブッダさん自身の教えであったことを示唆しています。すなわち、「発句経」98は、「村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい」(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫青302-1)というのが、それです。

 ここまで宮沢さんがめざした仏教の教えとはどのようなものだったのだろうか、という素朴な疑問を自分なりに探索することを通して気づいたことがあります。それは、とくにブッダさんの「発句経」は、宗教という形をまとった生活文化哲学ではないかということです。しかも、それは、ただ一つの絶対的な真理を述べたものというのではなく、その教えを受け止める人それぞれに解釈可能な、全く融通無碍な性格をもった生活文化哲学のように感じます。

 すなわち、100億人の人がいたら、ブッダさんの教えを100億通りに解釈することも可能だと感じます。そのことは、それだけ多くの人たちに影響をもつことができる可能性を、ブッダさんの教えはもっているということでもあると思います。とくに、現代のグローバル社会における経済的利害至上主義的風潮の中で苦しんでいる人たちへの救済の教えとなるように感じるのです。

 宮沢さんもまた、ブッダさんの教えをそのように受け止めていたのではないかと推測します。その宮沢さんがめざした仏教の教えということで言えば、宮沢さんは「楽しむ」ということを重視してブッダさんの教えを受け止めていたように感じます。個人的に言えば、宮沢さんに関心をもつまでは、ずっと、仏教は、人の死に関わる宗教だと思っていたのです。なぜならば、それまでは、葬式との関係のときに現実的に関わることになる宗教というイメージが強かったからです。

 それが、宮沢さんに関心をもつようになって、仏教に関する著作を手にするようになるにつれて、仏教は苦しみ多いこの世の中でいかに生きるか、ということを主題とした生活文化哲学的宗教ではないかというように受け止め方が変わってきました。とくに、宮沢さんは、人生いかに「楽しむ」のかということを重視していたように感じます。それも、宮沢さんがめざした仏教の教えだったのではないかと思います。

 それは、青山さんが示してくれた「発句経」98をたどっていたら、「発句経」99が目に止まったことで、よりいっそうそう感じるようになったのです。「発句経」99は次のような教えです。

 「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着(煩悩)なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである」〔( )内は引用者によるものです。〕。

 この教えを目にしたとき、宮沢さんがよく山野を歩きめぐっていたというエピソードが心の中に浮かんできました。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(6)

 ところで、宮沢さんの、自分は塔を建てる者であるとの矜持はどこから出てくるものなのでしょうか。結論から言えば、この世における「釈尊常在」の『法華経』の教えではないかと推測します。釈尊さんが存在するところ、それは極楽浄土なのです。それは、宮沢さんがブッダさんと同じように成仏することができるならば、宮沢さんがいるところ、すなわち極楽浄土となります。

 そのためには、宮沢さんが生き仏とならなければならないのですが、果たしてそのようなことは、理論上だけでも、可能なことなのでしょうか。そのようなことを考えていたら、岩鼻通明さんの『出羽三山 山岳信仰の歴史を歩く』(岩波新書1681)という本にであったのです。それは、出羽三山山岳信仰の歴史を辿った本です。

 この本を読み進めて行く中で、第五章「湯殿山即身仏――『一世行人』の足跡をたずねて――」の論述内容に目がとまったのです。それまで、即身仏とは、自分の修行の証として、または自分の修行僧の栄誉として、いかに自分は立派な修行僧であったかを世に知らしむために行うものと考えていました。ところが、岩鼻さんの本と出合ったことで、即身仏とはそのような自己名誉のための行為ではなく、「代受苦(だいじゅく)」のための行為だと分かったのです。岩鼻さんは叙述しています、

 「出羽三山における即身仏とは、湯殿山の仙人沢で、『一世行人(いっせいぎょうにん)』と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみや悩みを一身に受けとめる『代受苦(だいじゅく)』という考えのもと、木食行(もくじきぎょう)と呼ばれる厳しい穀断(こくだ)ちの修行を続けたのちに、生きたまま入棺して念仏を唱えながら成仏したものをいう」のですと。

 さらに、岩鼻さんによれば、近世を通じて「よく知られていた即身仏があった。それは越後国寺泊(てらどまり)の弘智法印(こうちほういん)の即身仏であり」、俳人曽良さんや江戸の旅行家であった菅江真澄さんなどもその即身仏を拝観していたといいます。菅江さんは、弘智法印さんの即身仏のことを、彼の紀行文中において、「生菩薩」と記していたといいます。

 同じく岩鼻さんによれば、山岳信仰においては、「近代以前において信者の崇敬をより集めていたのは、宗教活動を展開していた生身の宗教者としての一世行人」さんまたは弘智法印さんたちであったのです。それが、明治の神仏分離政策によって近代以降に即身仏信仰が再び崇拝されるようになってきたのです。

 岩鼻さんは、即身仏に関する松本昭さんの研究を紹介し、現在日本各地に十六体の即身仏があること、「十三体が東北地方および新潟県に存在し、なかでも、庄内地方には六体の即身仏が残ることが知られている」ことを紹介しています。

 ではそうした即身仏信仰が、宮沢さんがめざした仏教の教えとどのように関係するのでしょうか。この点に関しては、これも岩鼻さんが自著の中で紹介しているのですが、佐藤弘夫さんの次のような研究が参考になりといいます。すなわち、岩鼻さんの紹介によれば、佐藤さんは、即身仏信仰は現世利益的であり、「即身仏はそれ自体の聖性は有していても、その背後に彼岸世界をもたない」ことを、そして「それは、中世的な浄土信仰の拠点から近世的な現世利益の祈祷寺へという、本質レベルでの霊場の性格の変容」が起こったことを指摘していたのです。しかも、岩鼻さんは、その佐藤さんの指摘に関して、「その変容はむしろ明治以降のことではなかろうか」とコメントしています。

 もしその岩鼻さんの山岳信仰の歴史に関する指摘が事実的なものであったとしたならば、まさしく宮沢さんが、自分が悟りを開き成仏することによって、自分の郷土岩手の地に極楽浄土を建設するという大望を抱くということあっても不思議ではないと感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(5)

 宮沢さんが、宗教家に求めたものは、宗教家は芸術家であれ、とくに自分の人生の芸術家であれ、ということではなかったかと感じます。そのためには、自分の「苦」から逃れることばかりを考えるのではなく、自ら「苦」を引き受け、それを乗り超えることで自己の芸術家としての人生の花を開かせよと自分に言い聞かせたのではないかと思います。

 (ただ、蛇足となりますが、上述の「自分の『苦』から逃れることばかり考えるのではなく」という文章は、宮沢さんはそのように考えていたのではないかという推測です。社会学的に見ると、自分の「苦」と自分自身をひたすら見つめ、自分の人生をどう生きるかを探究する人と、それを社会的に支える人たちがいる、または社会となっていることは、結論だけから言えば、社会学的には非常に素晴らしい社会と個人との関係が生まれている社会だと評価できるのです。)

 そのためには「発句経」の243から245までのブッダの教えで自分を律する道を選ぼうと、宮沢さんは考えたのではないかと考えます。「発句経」の243の教えは、「無明(むみよう)こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れの無き者となれ」というものです。

 「発句経」244の教えは、「心のよごれた者(ひと)は、生活し易い」です。「発句経」245の教えは、「真理を見て清く暮す者(ひと)は、生活し難い」です。『超訳ブッダの言葉』の著者である小池龍之介さんは、「発句経」の244と245のそれらの教えの意味を、次のように超訳しています。

 小池さんは、「発句経」244に「容易(イージー)な道を選ぶ人」という表題をつけています。そして、「かれらは、自分の心を向上させようとする難しい道のりを捨てた。堕落しつつ苦しみを増やしてゆくという、安易(イージー)な道を選んだのだから」と超訳しています。

 「発句経」245には、「困難(ハード)な道を選ぶ人」という表題をつけています。そして、「かれらは自分の心とわたり合い、苦しみを取り除いてゆこうとする大冒険の道をあえて選び取った。それゆえその人生は、困難(ハード)で挑戦しがいのあるものとなる」と超訳するのです。

 小池さんの、「発句経」244と245のそれらの超訳には、「苦」のパラドックスが存在しています。「安易な道」を選んだ人は、「苦しみを増やし」、その苦しみを取り除くために「困難な道」を選んだ人も、生きる苦しみからは逃れることは出来ず、困難な人生となるというパラドックスです。やはり、誰であっても、生きる「苦」からは逃れられないのだと感じます。

 ただ、「困難な道」を選んだ人は、自分の死に直面したときに、自分の人生を振り返り、充実感をもって自分の死を受け止めることができるようになるような気がします。終活中の身からそのように感じます。

 また、宮沢さんは、「困難(ハード)で挑戦しがいのある」道を選んだのだなと、あらためて感じます。すなわち、小池さんが、「発句経」245の超訳で、「自分の心とわたり合い、苦しみを取り除いてゆこうとする大冒険の道」という文章は、宮沢さんの『春と修羅』の中の「春と修羅」の冒頭部にある「おれはひとりの修羅なのだ」という一文が、これから「大冒険の道」を選択し、歩んでいくことのへの宮沢さん自身の宣言文ではなかったか、ということを推測させてくれます。

 そして、「おれはひとりの修羅なのだ」という一文をそのような意味であると受け取るならば、その一文には、宮沢さんの「塔を建てる者」としての矜持が表現されていたのだな、との解釈もできるように感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(4)

 宮沢さんに関心をもったことでまだ数は極めて少ないのですが、仏教関係の文献を読んできた限りで言えば、仏教がめざしている「抜苦」における「苦」の捉え方に宮沢さんの仏教に向き合うユニークさがあるように感じます。

 例えば、「苦」の原因を、「仏教の思想でいう真理」=「因縁の道理」を知っているかどうかで定義づけすることのできる、賢者・愚者論によって論じることがあるようです。『仏教を読む➅迷いを超える 発句経』の著者である松原泰三さんは賢者・愚者と「苦」の関係性を次のように説いています。

 仏教では、「因縁の道理」を知らない人を「おろか者」と呼びます。また、「愚痴(愚痴)の人」とも呼びます。そして、この「おろか者」にあっては、自分の「尊い人生を憎しみと怨(うら)みと悲しみ」の日々をおくらなければならないのですと。

 それに対し、「因縁の道理」を知っている人を「心ある人」・「智者」と呼びます。そして、「智者」は、すべての「苦」から自由になり、心の平穏をえるだけでなく、「自分を本当に愛する」ことができるようになるのですと。

 この「愚者」・「智者」論によって「苦」からの自由を説くのは、仏教の教えをよく理解している者には大きな誤解を与えかねないものなのではないかと感じます。例えば、その教えは、安易に社会的地位とお金を儲けて、労働苦から自由となり、美味しいものをたらふく食べ、安楽な生活をおくることが賢い生き方で、労働苦をはじめ何かと苦労・苦悩しなければならない生き方をおくらなければならないのは「おろか者」だからだというように誤解されかねないのです。

 宮沢さんもそうした誤解の恐れを感じていたのではないかと推測します。なぜならば、宮沢さんは、そうした安易、安逸、そして安楽な生き方に辛辣な批判的精神のもちぬしだったからです。また、宮沢さんは、「おろか者」=ほんものの聖人を主人公とする多くの童話を創作しています。さらに、宮沢さんは、生きていく中での痛み、悲しみ、苦労と苦しみは真剣・真摯に生きている証であり、それらの「苦」を乗り越えてくなかで人間としての成長がある(宮沢さんにとっては成仏と極楽浄土建設への道が開かれてくる)と考えていたように思います。

 宮沢さんは農学校の教師時代、教え子にこれからどう生きたらよいかについて次のように諭しています。それは、「しっかりやるんだよ/これからの本統の勉強はねえ/テニスをしながら 商売の先生から/きまった時間で習ふことではないんだよ/きみようにさ/吹雪やわづかな仕事のひまで/泣きながら/からだに刻んで行く勉強が/あたらしい芽をぐんぐん噴いて/どこまで延びるかわからない/それがあたらしい時代の百姓全体の学問なんだ」というものです。

 宮沢さんは、全くの推測にすぎないかもしれませんが、成仏と極楽浄土建設のプロである出家者ではなく、当たり前の社会生活をおくっている誰もが、成仏と極楽浄土建設の主人公となれる道を求めていたのではないかと思います。そうした宮沢さんの思いを後押ししたブッダの教えというものはあるのでしょうか。

 この点について宮沢さんの思いを後押ししたブッダさんの教えとは、『発句経』の244と245の詩句ではないかと思います。ではそれぞれどのような詩句なのでしょうか。244のそれは以下の句です。

 「恥を知らず、鳥(からす)のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者(ひと)は、生活し易い」〔『ブッダの真理のことば感興のことば』中村元訳、岩波文庫青302-1、2023年(第69刷)〕

 そして、245の詩句は以下の句です。

 「恥を知り、常に清きをもとめ、執着をはなれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者(ひと)は、生活し難い」

 このアイデアは、仏教に不案内な私が自分だけで思いついたのではなく、小池龍之介さんの『超訳 ブッダの言葉』という本に出会ったことで閃いたことによるものです。

 

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宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(3)

 社会学的に見ると、社会における日常生活の中での自他の感情交流における他者の目の内面化よって形成される自我は、それゆえ、自己内自己と自己内他者との関係構造をもっています。すなわち、自我とは全くの個人的な、または個体的なものではなく、自分の内面世界における自他の関係性と交流によって不断に変化していくという性質をもつものとして存在しているのです。

 内面世界の自他の交流にとって重要な働きをしているものがことば(言語)です。それは言語学の分野ですが、人間に特有のコミュニケーションメディアとしての言語の発生もまた、人間の社会生活の賜物です。ことば(言語)のお陰で、人間は、個人的経験をことば(言語)によって他者もまた共有化することを可能とすることによって、社会的な経験にまで拡張していくことができるのです。それは、宗教における教えの社会化、すなわち布教にとっても土台となっている要素ではないかと思います。

 このことばは個人の内面世界における自己内自己と自己内他者との間のコミュニケーションツールとして重要な働きをしています。すなわち、内言です。そして、その内言は、またまた単なる個人的なものではなく、自己の外的世界の自己の感覚諸機関による認知を他者にも伝達可能な形に翻訳する形での認識にまで精整・製し、外的他者とのことばを通したコミュニケーションによる社会的共有化の土台でもあるのです。

 また、この内言の経験の積み重ねによって、人間個人の内面世界に発生史に大きな変化が誕生することになります。すなわち、自分は他の何物(者)でもない自分であるという私(わたくし)意識や、思考、そして意志・意思の働きが個人の内面世界に誕生してくるのです。そうした諸働きを含めて、社会学は個人における内面世界の機能を自我と呼ぶのです。ここまでの簡単な考察からも分かるように、この世に自我なるものが実体として存在し、個人はその自我を自動的に自分の内面世界に装着して生まれてくるわけではないと社会学は見ます。そのことを踏まえると、社会学の自我論は、実体としての自我の存在を否定しているという意味で「無我」論的性格を有していると言えるでしょう。さらに言えば、自我とは、現実的には、この世の人間世界に、個々人の誕生と死を通して、不断に誕生しては消えていくという形で明滅しつづけている存在なのです。

 以上のように、社会学的には、自我とは他ならない社会的自我です。さらに、社会学は、その社会的自我を、限りなく非社会的な社会的自我と限りなく社会的な社会的自我の性格を帯びるものに分類して把握しようとします。すなわち、自我は、限りなく自己の内側に閉じこもろうとする性質と、限りなく外へ、外へと開かれていこうとする性質の、二律背反的な方向へと動いていく性質を有しています。仏教との関りで言えば、仏教においては個人の生老病死を四大苦と見ているようですが、上記の社会学的視点から言えば、限りなく社会的な性格を有するようになっていく社会的自我にとっては、苦しんでいる他者の存在を見ることこそが最大の苦となるものと把握できるのです。

 そのため、社会学的に見ると、仏教がめざしている「抜苦与楽」という教えは、限りなく自己内面に閉じていく方向性と限りなく他者の救済に向く方向性の背反する二つの方向性に分化していくものとなることが予想されるのです。宮沢さんの場合はというと、これら二つの二律背反する二つの方向性をともに引き受けようとしていたと推測できるのです。そのため、宮沢さんは、大きな苦悩を抱え込まざるをえなかったのではないでしょうか。しかし、同時に、そうだからこそ、それらの分化によって誕生してきていたさまざまな宗派間における仏教的「真理」や「正統性」をめぐる争いからは自由な立場に立って自分のめざす仏教像を想像しようとする意欲をたぎらせることにつながっていったのではないかと考えるのです。

 

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宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(2)

 いわゆる煩悩と言われていることを、一般的に見たとき、まず念頭に浮かぶのは、生物学的自己保存本能に関連することがらのように思います。例えば、生きるための食欲や子孫再生のための性欲を含む(いわゆる縄張りを意味する)占有欲や怒りの感情にもとづく闘争欲などなどがそれらに相当するものとなります。社会学的に言う自我とは、それらの生物学的自己保存本能とは全く別ものなのです。社会学的見れば、自我とは、何よりも社会的なものなのであり、生物学的な自己保存本能を社会生活に支障をきたさないように制御するための社会的・心的装置なのです。そのため、自我を亡(失・無)くすことは、生物学的な自己保存本能の奴隷となり、社会生活を乱す要因となることを意味します。しかも、その社会的・心的装置としての機能は、実際にはこれも構成メンバー間の感情交流を基礎とする社会生活の中で形成、発達してきた脳における神経細胞のネットワーク間の相互作用によって生じる働きだと社会学は考えます。すなわち、社会学も、自我とは、個々の人間の心の中に宿っている永遠不滅の実体として存在しているものではないと理解しているのです。

 そのように社会学的に見ると、自我とはまず社会的なものなのです。すなわち、自我は生まれながらに誰にも存在しているのではないのです。人は、ある社会の中で誕生し、日常の社会生活において他者と感情交流するなかで自己の自我を構築していきます。社会生活において重要となるのが、同じ社会のメンバーがいまどのような感情状態にあるかを理解し、それらの感情状態に自分はどのように応答し、ふるまえばよいかを選択し、柔軟に自分の感情表現と行動を変えていくことのできる力です。その方向性として求められるのは、社会的動物としての人間存在にとっては、なるべく軋轢と対立を避け、協働するにはどうしたらよいかということなのです。

 そして、この側面における自我の重要な機能が、他のメンバーの感情状態を理解する社会的・心的装置としての機能です。そうした機能を有する自我は、他者、とくに自分にとって重要となる他者の喜怒哀楽の諸感情への共感を通した感情交流によって誕生していきます。すなわち、自分が向き合っている相手がなぜ、どのような原因によって、ある感情状態となっているのか、自分自身が想像上で相手の立場に立ち、そうした場合自分だったらどのような感情になるかを想像する努力をする(感情交流の社会理論の生みの親であるアダム・スミスさんはそうした努力を感受性の努力と呼んでいました。)ことで、相手と同じ感情を経験しようとするのです。そしてその経験が、当の相手の実際の感情と一致する限りで共感が生まれるのです。そのためには、自分の感情を共感してもらう側では、自分の感情に共感しようとしてくれている他者が、自分の感情についてこれるよう、自分の感情を抑制する努力をしようとするのです。共感はそうしたお互いの感情状態に関心をもつもの同士の自他の感情交流の賜物なのです。

 そうした日常生活における感情交流の経験の積み重ねの中で、自分の欲望を制御する社会的・心的装置や他者の感情を理解するための社会的・心的装置というような上述してきた個人の内面世界を律する装置が形成されていくのです。それらの装置を総称して、社会学は自我と把握します。その自我形成のメカニズムは、共感的な感情交流における他者の観点の内化です。すなわち、人は、他者の観点を自分の内面世界に取り込むことによって、他者の感情を理解し、自己の感情をコントロールする社会的・心的装置を形成していくのです。そのため、自我は、自分の我と名づけられているのですが、純粋な個人的な性格の我ではなく、実に社会的性格の我なのです。

 仏教においては、とかく自我や我は、生きていく中で直面しなければならない苦しみの根源として、否定的、ときには悪者と見られているようです。しかし、社会学的に見れば、自我や我こそが社会的動物としての人間に特有の、すなわち人間を人間たらしめているものなのです。そのために、自我を無くすことはもはや人間ではなくなることを意味することになります。

 

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