シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮沢賢治さんはどのような教師であろうとしたか(2)

 トルストイさんの教育および教師論のすべてに応えることができそうでなかったとしても、農学校の教師時代は、宮沢さんにとって、人間関係という点で見れば、人生上最も充実し、幸福だった時期だったとのではないでしょうか。何と言っても自分が蘊蓄を傾け、修得してきたものを、喜び、ありがたがって聞いてもらえる生徒たちがいました。さらに、校長先生をはじめ、他の教師たちとも良好な関係を築けていたように思えます。というのも、校長先生が、自由主義的な教育を大いに奨励してくれていたからです。

 宮沢さんがどのような教師時代を送ったのかに関しては、松岡義和さんが『宮沢賢治 北紀行』の中で詳しく紹介しています。それを読んでいると、宮沢さんと生徒たちの関係は、まるでいたずら好きの兄と弟たちの関係のようです。とても楽しそうなエピソードに彩られています。

 授業に関しても、教材を十分に研究することで、教科書丸暗記的な教えではなく、生徒たちが自分で考え、自分の力で答えを見つけ出すことを促すようなものだったようです。ときとして、教室を飛び出し、野外で観察をするなど実際的経験を重視し、いたずらなどで楽しい時間を共有することも度々あったようです。

 また、宮沢さんは、この時代、生徒たちと演劇にも打ち込んでいます。松岡さんによれば、「賢治は演劇に熱中した。自作の『植物医師』と『飢餓陣営』……さらに『ポランの広場』、『種山ヶ原の夜』と四本の脚本を書い」ているのです。

 自分の信仰が込められた演劇を生徒と共に創る楽しみだけでなく、多くの人たちに鑑賞してもらえる喜びも味わったのではないでしょうか。松岡さんによれば、これらの演劇を演じたなかのある生徒は、「演劇の中のセリフが生涯を通しての処世訓とな」った者もいたのです。

 しかし、何と言っても、宮沢さんならではの教師としての在り方だなと感じたのは、どんな生徒をも見捨てることなく、とことん寄り添い、心配し、社会に巣立ててあげようと奮闘している姿でした。

 同じく松岡さんによれば、宮沢さんの教え子のひとりに盗癖のある生徒がいたそうです。宮沢さんはその生徒と真正面から向き合っていきます。その向き合い方とは、「今日からはっきり兄弟になろうと」言って、次のように諭したといいます。

 「ところでお前は何で人の物を取るのだ。金がほしかったら金、品物がほしかったら品物。何だって兄弟になったおれがやる。だからどうか人の物を盗むようなことをしてくれるな。……おれの月給は九〇円だが、入用ならば九〇円全部でもやる」というようにです。諭された生徒は涙を流して改心したのです。

 さらに宮沢さんは、その生徒の卒業後の就職斡旋のために樺太まで出かけていったのです。そうした宮沢さんの生徒との向き合い方を見ていると、親鸞さんの悪人正機説を思いおこします。宮沢さんにとって、教育とは、善人なおもて慈しみ育てることができる。いわんや悪人においておやなのではないでしょうか。

 学校や社会における規律や規則を破る者に対しては懲罰を課し、ときには排除することを厭わない現在の学校教育の在り方は、宮沢さんからすれば、実は最も教育を必要としているものから教育を奪っている、または教育を放棄しているものと見えるのではないでしょうか。

 すべての人に仏性が潜んでいる、宮沢さんにはそうした信念が意識することなく刻み込まれていると言えるのではないかと感じざるをえません。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんはどのような教師であろうとしたか(1)

 宮沢さんは、農学校の教師時代、どのような教育をめざし、どのような教師であろうとしたのでしょうか。この点でも、宮沢さんはトルストイさんの教育論から大きな影響を受けていたものと考えられます。

 トルストイさんが生き方でなによりも重視したのは、他人の労働を利用し、搾取する人間にはなるなということでした。教育論でそれを言えば、自分の生活は自分の力と労働によって実現しようとし、実際に実現できる人間に育てなさいというものではないかと思います。トルストイさんのそのことに関する主張は、

 「科学の奉仕者、つまり真理の奉仕者であり教師である人が自分自身でやれるはずのことを他人にやらせながら、時間の大半を美食や、喫煙や、無駄話で、自由主義的な饒舌や、新聞・小説の耽読や、観劇などにすごしていることが不思議に思え」ます。それは堕落であり、科学者であり、教師でもある自分は、「労働によって自他の生活に奉仕するという人間の義務からの免除を結びつけて」もよいとする特権意識に他ならないのですと。

 「何をなすべきか、という問いに対」する第一の答えは、「私自身に必要なこと――私のサモワール、私のペーチカ、私の水、私の衣服など――すべて私がみずからなし得ることを行うということ」なのです。

 さらにトルストイさんは言っていました。次世代を育てる教育にとって重要なことは、「人間の疑いない第一の義務は自他の生活のために自然との闘に参加することだということが理解される」ようにすることなのですと。このトルストイさんの言説は、農学校における教育活動に相応しいものであったと言えるのではないでしょうか。

 また、トルストイさんは、科学や芸術のもっている力を大変重視しました。ただし、それらは他者の労働に寄生し、他者の労働を搾取する生活の上に成り立つものであってはならないと強く主張していたのです。それゆえ、高等教育によって養った科学や芸術の力は「民衆」の生活に役立ち、奉仕するものでなければならないと言い切っていました。

 すなわち、「科学や芸術による民衆への奉仕は、人々が民衆の中で、民衆と同じように生活しつつ、なんらの権利をも主張することなしに自分の科学上や芸術上の奉仕を民衆に提供し、それを取るも取らぬもそれは民衆の意志次第になった時にはじめて行われることになるので」すと。

 このトルストイさんの主張は、あたかも宮沢さんが高等農学校の教師の職を辞し、本統の百姓になると言って羅須地人協会の活動を始めることを予言しているかのような言説なのではないでしょうか。

 ただし、トルストイさんの教育に関する議論には、宮沢さんが望んでもそれまで実現することができなかったことも含まれていました。その言説は、トルスロイさんが都会で貧困者たちの子どもたちの教育する試みを行っていたときの教訓でもあったものです。すなわち、子どもたちを「立派な勤労生活へと向けようとした私の努力のすべては、われわれやわれわれの子供たちの手本によって無にされてしまった」ことでした。

 トルストイさんはそのときの教訓を次のように振り返っています。「いろいろな学問を教えることもじつにたやすいことである。だが、自分のパンを稼ぐことを教えるのは、われわれのように自分が自分のパンを稼いでいないどころか、その反対のことをしている者にとっては、困難などころか、不可能なこと」なのですと。

 「というのは、われわれは自らの実例や、この少年の生活の、われわれにとってはなんらの犠牲にも値しない物質上の改善によってさえも、彼にその反対のことを教えているからである。犬っころならばこれを取り上げて、甘やかして育て、十分に食べさせ、物を運ぶことを教え込み、これを愛玩することができ」ます。

 しかし、「人間は、ただ甘やかして育て、十分に食べさせ、ギリシャ語を教えるだけでは十分とはいえない――人間には生きること、つまり、他人からはなるべく少なく取り、自分からはなるべく多く与える、ということを教えなければならない。が、われわれが少年を自宅へ引きとったり、あるいはそのために設けられた収容所へ入れたりすれば、その反対のことを教えないわけにはいかない」のです。

 こうしたトルストイさんの言説は、宮沢さんに、はたして自分は、「自分のパンを稼ぐ」こと、そして自分の労働で他者に奉仕するという「りっぱな勤労者生活」を生徒たちに教えることができる教師となりえるかどうかを問わずにはいられなくしたのではないのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

花巻に戻り農学校の教師になる

 岩手県の大地を開墾・開拓し、仏的コミュニティを建設するという夢は、このままでは叶いそうにないと知ったとき、ではどうすべきか宮沢さんは大いに迷ったのではないかと思います。そのときのことを振り返ったものと考えられる「過去情炎」という作品があります。それは、

 「截られた根から青じろい樹液がにじみ

  あたらしい腐植のにほひを嗅ぎながら

  きらびやかな雨あがりの中にはたらけば

  わたくしは移住の清教徒(ピュリタン)です

  ……

  いまはまんぞくしてたうぐわをおき

  わたくしは待つていゐたこひびとにあふやうに

  鷹揚(おうやう)にわらつてその木にしたへゆくのだけれども

  それはひとつの情炎(じやうえん)だ

  もう水いろの過去になつてゐる」

 この夢見ていたときのことを振り返った精神状態は、自ら「情炎」と名づけていることからも、かなり高ぶっていたのでしょう。なぜそれほど気持ちが高ぶっていたのか、さまざまに推測と解釈ができるのではないかと思います。ただこのとき、何をおいても帰郷しなければならない事態が生じます。それは、妹のトシさんが発病し、病臥に伏しているとの知らせを受け取ったことでした。

 この知らせを受け取るや、宮沢さんは、それまで書き溜めた作品を新しく買ったトランク一杯に詰めて、ただちに帰郷したのです。そして花巻に戻った宮沢さんは、花巻農学校の教師になるのです。それを取り計らったのは、またしても父親の正次郎さんでした。

 そのときの経緯をこれまでも参照してきた岡田純也さんの記述で確認しておきたいと思います。岡田さんによれば、「妹としの発病で帰郷した賢治は、再び東京へ戻ろうとはしなかった。というより、看病中も引き続いて童話原稿を執筆する賢治に業(ごう)をにやしていた父が、折よく稗貫郡々長の葛博と花巻農学校校長の畠山栄一郎とが賢治の家に持ってきた花巻農学校教師の就職口にとびついたからである。もちろん賢治とて不賛成ではなかった」のです。

 そしてこの教師時代に、宮沢さんは自分の人生上最も充実した日々を送ることになるのです。その内容に関しても、少々長い引用になるのですが、岡田さんの論述を参照しておきたいと思います。岡田さんの論述によれば、

 「賢治の短い生涯中、最も愉快な明るい日であった、と彼自身が後に言っているように、この農学校在職中の賢治にはその生涯全般にわたってつきまとっている痛ましさがない。初登校した十二月には、生前の賢治が原稿料を貰った唯一の童話『雪渡り』が雑誌『愛国婦人』に掲載されている。出発から幸先(さいさき)が良かった。また教育は彼の性格に向いていたようだ。生徒たちにはしたわれた。更に小さな学校であったことが幸いして、賢治の奔放(ほんぽう)なあらゆる教育方法が承認された。上京中のがむしゃらな貧しい生活の後だけに、適度の快適な労働は楽しいものであった。からだも健康であった。そして、更に自費出版ながら『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行と、意気まさに軒昂(けんこう)たるものがあった。

 賢治はこの農学校に大正十五年三月まで在職した」のでした。

 農学校の教師という仕事は、このときの宮沢さんにとって、文字通りうってつけの、そして渡りに舟の仕事だったのではないでしょうか。なぜならば、まず自分自身が仕事をすることで自分の生活の糧を稼ぐことができます。また、農業というものについて経験を重ねることができます。

 しかし、宮沢さんにとってより重要だったと思われる理由は、トルストイさんが「神の国」を建設のために極めて重要視していたのが、時代を担う子どもたちへの「教育」だったからです。法華経の布教者として生きて行きたいと常々願ってきた宮沢さんにとって「教育」する経験は貴重なものとなるはずだったのです。

 そのことを意味することは、岩手県の大地を一から切り開き、開墾し、仏的コミュニティ建設を実行するという計画は「過去炎上」となってしまいましたが、岩手県の自然を相手に闘い、仏的コミュニティを建設したいという願いは、まだあきらめてはいなかったということではないでしょうか。そうした宮沢さんにとって、そのための力を貯えていた時期こそ、農学校での教師時代だったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがゆめ見た開墾・開拓・仏的コミュニティ建設計画

 国柱会仏国土建設の「行」はないと悟り、去ろうとしたとき、トルストイさんの影響の下、今後どうすべきかに関して宮沢さんが最初に考えたことは、故郷岩手県に自分たちの手で仏国土とまではいかないにしても、仏国土建設につながるような仏コミュニティを建設するということではなかったかと推測します。その計画書こそ、完成していれば、「蒼冷と純黒」だったのではないでしょうか。

 ただ宮沢さんにとって、この計画には大きな課題が待ち受けていました。というのも、宮沢さん自身がリーダーとして率先して進めることができる事業ではなかったと考えられるからです。少なくとも、宮沢さん自身はそのように考えていたように思えます。

 なぜならば、第一に宮沢さんの体力と健康問題があります。農業経験がそれまで全くなかったことも不安材料だったのではないかと思います。さらに経営才覚の必要もあります。この点でも、そもそも、「もうけて」経済的利益をあげるという行為自体に自信がなかったのかもしれません。それは、長男としての家業継承という問題への向き合い方を見ても予測されることでしょう。

 一般的に言っても、社会づくりには他者の存在が欠かせません。ましてや宮沢さんが考える仏国土的コミュニティということであれば、その他者には法華経に帰依していることが条件となるのではないでしょうか。岩手県仏国土的コミュニティを建設するための仲間を、心友である保阪さんと妹のトシさんを考えていたように思えます。

 「蒼冷と純黒」創作のヒントを、宮沢さんは、トルストイさんの『光あるうち光の中を歩め』という作品からえていたのではないでしょうか。トルストイさんのこの作品は、訳者である原久一郎さんの息子さんである原卓也さんの解説によれば、(トルストイさんがキリストさん本来の教えを体現している)「古代キリスト教の世界に生きぬく青年パンフィリウスと、さまざまな欲望や野心、功名心などの渦まく俗世間にどっぷりつかっている青年ユリウスという二人の人物を中心」として展開する物語です。さらに、後にパンフィリウスさんと結婚することになる美女のエウラーリヤさんという女性が主要な登場人物です。そして、彼女は、パンフィリウスさんと志を共有している女性です。

 さらに、この物語の主題は、私たちが生きている「俗世界における性的愛とか、私有欲、名誉心などといったものが、いかに力強くわれわれを金縛りにしているか」、「現世に絶望したり、自己嫌悪(けんお)におちいったりして、何度かパンフィリウスの住む世界へ走ろうと志しながら、……ふたたび俗世界に舞いもどって」しまうユリウスさんの姿を通して描こうというものです。

 そして、最後の最後で、ユリウスさんがパンフィリウスさんの生活の正しさを悟り、パンフィリウスさんたちが営んでいる古代キリスト教の生活共同体(コミュニティ)に自分の人生を託そうとするのです。さらに、この物語には、宮沢さんが自分の生涯の探究テーマとした「本統の幸福」についてパンフィリウスさんが次のように語っているくだりがあります。

 「僕は国務に関して、全く何一つ知っていないし、また理解してもおりません。僕たちが知っているのは、ただ一つだ、その代り確かに知っている。ほかでもありませんが、われわれの幸福はもっぱら他のひとびとの幸福の存在する所に存在する、で僕たちはこの幸福を追求しているという一事です。あらゆる人の幸福は、彼らの合一の中に存します。そしてこの合一は、暴力によらず、愛によって達成されます」と、パンフィリウスさんは述べているのです。

 自然と闘い生活の糧をえることが志をもった人の義務であるというトルストイさんのことばを胸にきざみ、志ざしを共有する仲間と共に「あらゆる人の幸福」を追求する仏的コミュニティを建設する、それが帰花後の宮沢さんの夢だったのではないでしょうか。そして、その仲間というのが、宮沢さんの短い人生の中では唯一志を共有化できると思われた心友である保阪さんと妹のトシさんだったのではないかと思います。

 そうだとすると、「蒼冷と純黒」における「蒼冷」は保阪さんであり、「純黒」とは宮沢さんであったと考えられるのです。すなわち、自分に代わって岩手の自然と大地を開墾・開拓する先導役を保阪さんに託そうと考えたのではないかと思います。

ただし、その宮沢さんの作品の主題は上記のトルストイさんの作品の主題とは異なっています。トルストイさんの作品では、俗世間の価値観にどっぷりつかっている生き方をしているユリウスさんが、パンフィリウスさんたちの古代キリスト教の生き方をしている生き方こそ、真の生き方であると気づき、その仲間に参加していくかというのがテーマでした。宮沢さんの「蒼冷と純黒」の主題はそれとは違うものとならざるをえなかったのです。

 すなわち、俗世間とは異なった真の生き方のできる世界の創造ということで志を共有化している者同士が、しかし、信じている神を異にしている関係にあるというのが、「蒼冷と純黒」の作品だからです。異なる神をいただいている者どうしがはたして「すべての人の幸福」を実現するという共通の目的に向かって協力しながら歩んで行けるのかどうか、それが問題だったのです。しかも、キリスト教を信じている「蒼冷」さんに先陣をゆだねなければならなかったのです。

 この作品が完成していたなら、宮沢さんはその問題にどのような決着をつけていたのでしょうか。それは、非常に興味をそそられるテーマです。これも推測になりますが、このときは、宮沢さんはこの問題に納得する答えを見つけることができなかったのではないでしょうか。

 それよりも、現実には、上記の計画実現の命運を握っていた保阪さんに、計画をうちあけ、協力を依頼したものの、きっぱりと断られてしまったのではないかと思います。そして、その顛末を描いた作品が「図書館幻想」だったのではないかと考えます。この計画をうちあけ、協力を依頼にいった宮沢さんを、保阪さんと思われる「ダルケは振り向いて冷ややかにわらった」だけだったのです。

 保阪さんには保阪さんのゆめがありました。生まれ育った自分のふるさとに「神の国」を建設するというのがそれです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「蒼冷と純黒」は何を求めようとした作品だったのか

 トルストイさんが与えた影響を軸に宮沢さんの「思想と生涯」を探究しているのが柴田まどかさんです。柴田さんはその成果を、『宮沢賢治の思想と生涯 南へ走る汽車』の著作に表しています。

 その中で、柴田さんは宮沢さんのトルストイさん(の作品)との出会いとその意義に関し、次のように論じています。帰花後の宮沢さんの生涯を考察するのに非常に有効だと思いますので、長い引用となりますが、煩を惜しまず全文紹介しておこうと思います。

 「トルストイの全集が日本で刊行されたのは、一九一九年から翌年にかけての春秋社版が最初であった。一九二一年(大正十)初夏の頃に賢治は当時の帝国図書館、現在の国立国会図書館支部上野図書館で読んだと推測される。トルストイとの作品を通じての出会いが、賢治のその後の半生を形作ったといっても過言ではない。自らの信仰を文学を通して伝えると共に、人と人とが思いを伝えあうものとして芸術を認識し、農村の子弟のために実際の農業に役立つ豊かな教育をおこなったこと。更に、教職をなげうって向かった羅須地人協会の実践。これらの基底にはトルストイの思想と実践的生涯への共鳴があった。さらに言うならば、仏教もキリスト教もその教えの言わんとするところはひとつであることを感じ確信した感動が、そこに大きく存在したのである。賢治を新たな実践へと向かわせた大きな力は、宗教の違いも国の違いも越えて人の求め願うものはひとつであることを確信したその大きな感動であった」のですと。

 宮沢さんに関する研究は宇宙的規模の数ほど存在しており、今のところそれらのほんの一部だけしか参照することができていなのですが、トルストイさんの影響との関係で、宮沢さんの「思想と生涯」および作品を体系的に論じているものは、上記の柴田さんの著作が初めてでした。個人的には大いに刺激を受け、参考になり、感謝の念に堪えません。

 では、柴田さんは、帰花直前の1921年8月ころに「賢治が書いた戯曲断片『蒼冷と純黒』」をどのように位置づけていたのでしょうか。それは、帰花後の宮沢さんの人生を理解する上で重要となる作品ではないかと考えられるのです。国柱会を去ったあとどのように生きたらよいか悩んでいた宮沢さんに、「さらば われら 何をなすべきか」という問いにこたえをだすための一筋の光を投げかけてくれたのがトルストイさんだったのではないでしょうか。

 結論から先に紹介しておけば、国柱会を去ったあとの人生をトルストイさんと共に歩む決意を表明した作品が、「蒼冷と純黒」であると柴田さんは見ていました。柴田さんは、宮沢さんのその思索の道筋を次のように紹介しています。

 まず「仏教徒ではなくキリスト教徒の中に自分と同じ理想を抱き実践した者を発見した賢治の精神的混乱と苦悩が」あったと言います。しかし、同時に、「異なる国の異なる宗教を持つ者の中に、自分と同じ視点で貧しい人々を見つめ、なおかつそうした生き方を貫いた人がいたという事実は、賢治にとって新鮮な驚き」だったのです。

 さらに、トルストイさんの生き方に素直に新鮮な驚きを覚えることのできた宮沢さんには、「人の心に宿る美しい精神の存在を信じる」という共通の心があったからではないかと柴田さんは論じています。その上で、「人々皆の幸せを願い、現代社会の中で実践する姿勢が、何よりも彼ら(宮沢さんとトルストイさん)二人に共通するもの」[( )内は引用者によります。]なのです。

 柴田さんによれば、そのように、「法華経の教えこそが唯一絶対のものと確信していた賢治に対し、国や宗教の違いを越えてその求めるものの変わらぬことを伝えたのがトルストイ」さんだったのです。

 そして、宮沢さんは、それ以降、精神的にはトルストイさんと共に人生を歩むことを決意したのです。その決意を表明しようとしたのが、「蒼冷と純黒」という作品なのです。そこに「書かれた『純黒』とは賢治の心であり、『蒼冷』とはトルストイの心」なのです。

 そうした柴田さんの議論に出会い、ああなるほどそうした理解の仕方もあるのかと率直に感心しました。とくに、「人々皆の幸せを願い、現代社会の中で実践する姿勢」をもつだけでなく、どのように実践していったらよいのかについてトルストイさんからヒントをえたのではないでしょうか。法華経の言葉で言えば、国柱会においては失われてしまっていた仏国土建設のための「行」をいかに取り戻したらよいかについて、宮沢さんはトルストイさんからヒントをえたように思えます。

 とすると、「蒼冷と純黒」をどのように位置づけたらよいのでしょうか。これまで読んできた宮沢さんに関する著作では、「蒼冷と純黒」は宮沢さんと心友保阪さんとの恋愛的関係を念頭においたものと論じられていました。すなわち、「蒼冷」は保阪さんを、そして「純黒」は宮沢さんを表していると理解されてきたのです。このことをどのように考えたらよいのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

トルストイさんが語る性、愛、結婚

 少々しつこいようですが、宮沢さんの帰花後の行動の考察に入る前に、トルストイさんの性愛、恋愛、そして結婚に関する議論を参照しておきたいと思います。そしてその作業は、宮沢賢治さんと妹のトシさんおよび心友保阪さんとの関係を理解することにつながるのではないかと考えます。

 宮沢さんに関するこれまでの研究においては、上記の二人との関係性は主要な主題とされてきたのではないかと思います。そしてそれら二人との関係性とは、単なる兄妹および親友の関係ではなく、近親愛および同性愛という性愛の関係性であったのではないかと論じられてきたように思えます。また宮沢さんの女性関係も大きなテーマとされてきたように思います。それらのことをどのように理解したらよいのか、トルストイさんの議論と重ね合わせて考察しておきたいと思うのです。

 その考察をするに当たっては、ここでも、宮沢さんは苦しむ一切の衆生を救うという宗教的使命感をもって生きた人であるという視点を貫きたいと考えます。ところで、トルストイさんのそれらの主題に関する議論は、一般的なものではなく、神と人類に奉仕するという宗教的使命感をもっている人を対象にしています。

 例えば、トルストイさんは、「人がすでに、人間として精神的生活を送っているならば、恋愛とか、愛とか、結婚とかは、彼にとって堕落であるだろう」というように議論を展開するのです。さらにトルストイさんは議論をつづけます。

 それらに関する「いっさいの問題は禁欲のうちに、禁欲の訓練と養成のうちにある。人々が禁欲のうちに幸福を発見するにいたるやいなや、結婚も適宜にされるにいたるであろう」というようにです。

 これらのことを前提として、トルストイさんは、精神的愛、官能的愛、そして打算的愛というように三つの愛情論を使用し議論を進めています。精神的愛とは共通の人生目的をもち手を取り合って歩む人生のための愛情です。そしてその愛情による人生こそ、最高の喜びと幸福をもたらしてくれると論じます。

 トルストイさんは言います。「真の喜びは、人々が自分の生活を奉仕としてみずから理解した時――自分のほかに、自分の個人的幸福のほかに確固たる人生の目的を持ったときに、はじめてありうるので」す。しかも、人間というものは、他者とその目的を共有し、その目的に向かって手を取り合って進むとき、最高の幸福を感じする存在なのです。

 「すなわち、人が(人生の)道で出会って、『さあ、いっしょにまいりましょう』『さあ』と言うので、お互いに手を取りあって行くときに、はじめて幸福をもたらす」[( )内は引用者によります。]のです。愛情や結婚に関しても同じことが言えるとトルストイさんは主張します。すなわち、人生上の共通の目的をもたない場合には、「心をひきあった二人だけが、道からそれてしまう」ようになり、それは単に肉欲にもとづく喜びや幸福感であり、危険な欺きなのです。

 トルストイさんによれば、前者の場合は、精神的愛にもとづく恋愛や結婚となり、後者の場合は、官能愛にもとづく恋愛や結婚で、区別されなければならないものなのです。しかも、肉欲は性欲に限られるものではなく、「肉欲が目新しくて、とくに旺盛な時代」的特徴なのです。

 トルストイさんによれば、肉欲満足とは、「甘い食物とか、舟遊びとか、遊戯とか、衣裳とか、音楽とかいうものから受け取りなれた満足」のことで、ますます「目標を加えてゆかなければなるような」快楽欲求のことなのです。

 そして、「各種の肉欲のうち、もっとも強烈なものは、恋愛、寵愛、手淫、交接等において表現される性欲」なのです。それゆえ、宗教的使命に生きている人はとくに、精神的愛にもとづく恋愛や結婚を官能的愛にもとづくそれらと絶対に混同してはならないのです。

 なぜならば、「人が神の法則の実行に近づけば近づくほど、彼は(官能愛的)性的情欲から遠ざかり、情欲に近づけば近づくほど、神の法則から遠ざかる」からなのです。ここに宗教的使命感に生きる人にとって悩ましい問題があるのです。なぜなら、最も強烈な肉欲が性欲というだけでなく、恋愛や「結婚には、子供の誕生などあまりに多くの喜ばしい事件が目の前にぶらさがっている」からなのです。誘惑力と宗教的使命感を台無しにする欺き力の最大なものが、トルストイさんによれば、官能的愛にもとづく恋愛や結婚なのです。

 そこで、どうしても性欲やその誘惑力を絶つことができない場合は、それはもはや愛とは言えないのですが、打算による結婚で妥協するのがよいと、トルストイさんは言います。その場合は、致し方ない、

 「決して愛によってでなく、かならず打算によって結婚すべきである。……すなわち官能的の愛によらず、打算によって、それも、どこでどうして生活すべきかという打算ではなく、人間としての生活を送るのに未来の妻がどの程度自分を助けてくれ、その邪魔をしないであろうかを打算して、結婚すべきなの」です。

 この主張は、思わず、宗教的使命を優先するために未来の妻を手段視してもよいのだろうかと突っ込みたくなりますが、宮沢さんも同趣旨の結婚観を披歴していたと言われています。宗教的使命感をもった人の恋愛や結婚は難しいものなのですね。社会学では性愛的関係性も人としてのコミュニケションとして大切なものだと考えるのですが。

 トルストイさんの官能的愛に対する禁欲法も大変ユニークです。「性欲と闘うにはどんな方法がある」のでしょうか。トルストイさんが薦める方法は、「労働とか断食とかいった種類のささやかな方法のうちで、もっとも効果のある方法は貧である、金を持たないことである。乞食の外見を持つことである、明らかにどんな女をも引きつけることのできないような状態に身をおくことである」のです。

 宮沢さんもこれまでの研究が明らかにしてくれたところによれば、性欲と厳しく、そして徹底的に闘い、ある時には交際を迫ってくる女性を「追い払う」ために、トルストイさんが薦める上述のような方法を採ったとも言われてきました。

 トルストイさんが宮沢さんに与えた影響力は本当に大きなものだったのだなと感じないわけにはいきません。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

トルストイさんが百姓になることで目指したものは何だったのだろうか

 田舎に戻ったトルストイさんは都会での慈善活動の失敗の原因は何かを徹底的に探究します。そして、最初に到達した結論は、都会の貧困者の非誠実的な性格というものでした。トルストイさんは論じます。

 「都会の貧民に対する自分の態度を残らず思い起こしているうちに、私は、自分が都会の貧民を救えなかった原因の一つは、貧民たちに誠意がなく、私に対して不正直だったことにあった、と気づいた。彼らはいずれも私を人間としてではなく、手段として見ていた。私には彼らと接近することができなかった。これは自分にその能力がないのかもしれない、とも考えた。しかし、誠意のないところに救助は不可能だった。自分の立場をすっかり話そうとしない者をどうして救えようか?」というように考えたのです。

 そこでトルストイさんは、「最初、私はこの点で彼らを非難した(他人を非難すること――これはじつに自然である)」のです。しかし、トルストイさんは、「当時私の家に客に来ていたシュターエフという人物」と語り合う中で、自分の間違いに気づかされるのです。その語り合いは、自分の行きついた結論にシュターエフさんの共鳴を期待してのことでした。

 ところがシュターエフさんのトルストイさんのとった慈善行動への指摘は彼が予想もしなかったものだったのです。シュターエフさんは指摘します。

 「わかっています、わかっていますとも、ですが、あなたは見当はずれのことをしておいでです。いったいそんなことで人が助けられるものでしょうか?歩いて行くと、二十カペイカ玉をくれとせびられる。そこでそれをくれてやる。これがいったい、慈善でしょうか?それより、精神的な慈善を与えておやりになることですな。それを教えてやることですよ。物をくれてやるのが何でしょう?それはただの厄介払いにすぎないじゃありませんか」と。

 ではどうすればよいというのでしょうか。シュターエフさんは続けます。「私は金持ちじゃありませんが、すぐにでも二人ぐらいは引きとりましょう」。トルストイさんもすぐにそうしなさい。そして「われわれはいっしょに仕事にも出かけるのです。そうすれば相手は私の働きぶりを見て、どういうふうに暮らすべきか学ぶでしょう。またお茶も一つのテーブルで飲むようにすれば、私やあなたからの話も聞けるわけです。これこそが慈善というもので、それをやらないあなた方の団体なんかはまるで空っぽですよ」と言うのです。

 トルストイさんは、これらのシュターエフさんの言い分の「正しさを認めないわけにはいかなかった」のでした。そして、自分の都会での慈善活動の風景を次のように振り返ります。

 「たしかに私は高価な毛皮外套を着ていたり、自分の馬に乗っていたりするし、長靴さえなくて困っている人に二万ルーブルの私の邸宅を見せつけたりする。彼らはきっと、私が惜しげもなく五ルーブリの金をくれてやるのはただ私にそんな気まぐれが起こったからにすぎないことを見てとるだろう。私がそんなふうに金をやれるのも、自分ではだれにも与えることなしに、他人からばかりたやすく取り上げたために手もとに余分な金がたくさんあるからにすぎないことを相手が知らぬはずはない」のではないでしょうかと。

 この気づきを得て、トルストイさんは、「私が民衆から取り上げ、現に取り上げつつあるものに対して、この教養と才能をもっていかにして償うべきか?」「私は『何をなすべきか?』」という問いに納得いく回答を見つけ出そうとしていくのです。

 そして、得た回答とは、以下のものでした。民衆から取り上げてきたことについて、「自分自身に対してうそをつかぬこと」、「他人の前に己れの正義、特典、特長などを認めることを拒否し、みずからを罪あるものと認めること」、そして、「人類の永遠の、疑いなき法則を履行すること――己れの全存在をもって自他の生活維持のために自然と闘うこと」の三つのことを実行するというものでした。

 これらの回答をトルストイさんはさらにどのように敷衍して論じていたかについて、トルストイさん自身のことばを引用しておこうと思います。なぜならば、それは、帰花後の宮沢さんの行動を理解することにつながると考えられるからです。少々長い引用となりますが、宮沢さんの人生理解にとって重要と思われますので、要約ではない形で紹介させていただきます。

 「自分の第一の、疑いない仕事は、みずから養い、みずから着せ、みずから暖め、みずから建てることであり、そのことの中で他人に奉仕することである」、「この一事においてのみ人は己れの本来の肉体的および精神的要素を完全に満たすことができるのである」。「自分と肉親を養い、着せ、守ることは肉体的要求の充足であり、同じことを他人にすることは――精神的要求の満足だからである」。

 「生活の資を得るために自然と闘うという義務がつねにあらゆる他の義務の中でも第一の、疑いなきものとなる」。「自他の生活を維持するために自然との闘いに参加するという義務は、人間の理性にとっては必ずつねに第一のものとなるであろうという理由は、人人にとっては何よりもその生活が必要であり、したがって人人を擁護したり、教えたり、その生活をより快適なものとするためには、生活そのものを守らなければならず、もしこの闘いに参加しなければ、つまり、他人の労力を搾取するならば、それは他人の生活を破滅さすことになるからである」と、トルストイさんは主張していました。

 そして、トルストイさん自身、百姓となることで「私自身に必要なこと――私のサモワール、私のペーチカ、私の水、私の衣服など――すべて私がみずからなし得ることを行う」ことにしたのです。「聖書にも人の掟として――額に汗してパンを食(は)み、苦痛のうちに子を生むべし――と説かれてある」のです。

 そして、そのことを教えてくれたのは、「詩人でも、学者でも、説教家でも」なく、「いずれも農民だった――シュターエフとボンダリョフ」さんの二人だったというのです。トルストイさんが目指したのは、農業者としての農民というだけでなく、文筆家としての、芸術家としての、科学者としての、そして宗教家としての農民でした。すなわち、トルストイさんは現代的百姓をめざしたのです。

 なぜならば、「その時はじめて、現代社会に存在しているあやまれる分業はなくなり、人間の幸福を侵さない分業が打ち立てられるだろう」ことを展望することができると思われたからなのです。

 宮沢さんも、できることならトルストイさんが歩もうとした同じ道を歩みたかったのではないでしょうか。しかしそうするには宮沢さんには大きなハードルが立ちはだかっていたように思えます。そこに宮沢さんの「おれはひとりの修羅なのだ」と叫ばざるをえない苦悩があったのではないかと推測します。

 

          竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン