シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

内ヶ崎作三郎さんの『人生学』(1)

 内ヶ崎さんの『人生学』は、宮沢さんの地域づくりの思想とはどのようなものであったかを理解するための助けとなる方ではないかと考えます。さらに言えば彼が著した『人生学』は、宮沢さんの思想を理解するための参考書としても重要な著作ではないかと思います。

 内ヶ崎さんは、西南戦争が始まった年の1877年に、宮城県黒川郡富谷村に生をうけています。宮沢さん誕生に約20年先立つ年です。内ヶ崎さんの人生は宮沢さんのそれとは少し違ったところがあります。それは、内ヶ崎さんの場合は、着実に地方名士の道を歩みつづけていくのです。その歩みを、内ケ崎作三郎さんの『人生学(復刻版)』(富谷市発行、2021)にある略年表を参照して簡単に追っておきたいと思います。

 内ヶ崎さんは、1895年18歳のときに、第二高等学校予科1年に入学します。同時に、このとき、「栗原基の勧めでブゼル先生の聖書スクールを聞」きます。ちなみに宮沢さんはその一年後に誕生しています。1898年の第二高等学校卒業直前に、「島地雷夢、吉野作造と共に洗礼を受け、キリスト教に入信」します。さらに、同じ年、東京帝国大学英文科に入学します。

 1901年東京帝国大学卒業し、1902年「東京専門学校(後の早稲田大学)の英語講師に委嘱され」ます。1911年に早稲田大学教授になるとともに、東京のユニテリアン教会の牧師となっています。そして、1915年には、東京の女子音楽学校で「自由基督教会」を設立します。さらに、1924年、47歳のとき、「第十五回帝国議会衆議院議員選挙」に宮城県から立候補し、当選します。そうして政治家に転身し、1927年には、立憲民政党の結党に参加し、「政務調査会副会長」に就任します。

 ここまで簡単なものではありますが、内ヶ崎さんの人生の歩みをたどってきました。そこで、宮沢さんの地域づくりの思想の理解を深めるという視点で見たときの内ヶ崎さんの人生経歴で注目しておかなければことは、キリスト教信仰、とくに「自由基督教」信仰にもとづく社会づくり活動に携わっていたということではないかと思います。

 宮沢さんの場合、地域づくりの思想を手紙、詩や童話を材料として探究しようとするとき、そのあまりにも文学的な表現によって、しかしそのことが宮沢さんの大きな魅力でもあるのですが、他方でなかなか論理的な理解が難しいという難点がありました。その点で、内ヶ崎さんの『人生学』はその難点を乗り越えるためのかずかずのヒントを与えてくれる議論が学問的に展開されているのです。

 そうした関心で、内ヶ崎さんの『人生学』の目次のテーマを拾い上げて見てみましょう。まず「生命の神秘と物質の驚異」が論じられています。また「人類の発達」では、「物質的資源」、「気候と人生」、「人生と風」、そして「風と精力」について論じられているのです。人類の発達論に「風」およびその「精力」が論じられているのは非常にユニークではないかと感じます。

 さらに、「人生に於ける遊戯娯楽の意義」について論じられています。宮沢さんの幸福な生活論との関係でも興味ある議論が展開されているのではないかとの期待がふくらみます。また「宗教と科学との関係」および「人生終局の目的と霊魂不滅」に関する項目も、宮沢さんの思想理解のために内ヶ崎さんがどのような議論をしているのか、興味が尽きることがありません。

 「性の問題」の中では男女の恋愛や結婚制度、さらには性の教育の問題まで、宮沢さんがあまり語らなかった問題に関しても扱われており、関心が湧きます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

地域づくりを支える思想

 これも私事になりますが、自分が学生時代であったときには、社会づくりの思想と言えば、体制選択的、政治的なものであったと思います。それは、資本主義か社会主義か、保守か革新かという選択をめぐる思想ではなかったかと思います。当時は、いわゆる世界的にも政治の季節だったのです。

 現在はというと、とくに地域づくりをめぐっては、人と自然および人と人との関係性や、(ライフスタイルを含めた)個々人の生き方に関わる生活文化的な思想が大きな力となっているように感じます。

 この点でも、宮沢さんの詩や童話から感得される人と自然および人と人との関係性に関わるものをも含めた個々人の生き方に関する思想は、現代の地域づくりのための思想でもあると言えるのではないかと思います。

 岩手県を旅していて驚くのは、いたるところに宮沢さんに関係することばやキャッチフレーズがあふれていることです。それだけ、岩手県の地域性を表現するのに、宮沢さんが貢献しているのだと感じます。銀河鉄道イーハトーブなどはその代表的なものではないかと思います。

 なかには宮沢さんに関係するものと思われる自分たちの地域づくりの思想を示そうとするフレーズもあります。そのときは、このフレーズは宮沢さんに関係しているのではないかと感じたのですが、残念なことにそれをフィールドノートに記すことをしませんでした。だから全く正確ではないものと思います。

 それは、遠野の道の駅を訪れたときのことです。〝人は自然と離れたことで病むことになった〟という趣旨の、警告文とも読める文章が目に飛び込んできました。そのときは、それ以上あまりその文章について、その文章が示そうとした意味について考えようとせずに、遠野市の産物の売り場に急いでしまったのです。

 その道の駅をさったあとになって、もう一度その文章がふと思い出され、もしかしたら、その文章は、自分たちは自然とかかわることで(とくに精神的に)健康に生きていこうとしていますという地域の人たちの宣言文だったのではないかと受け止めたのです。そして、その文章に書かれていた内容と言うのは、遠野の住民の人たちの地域づくり、道の駅づくりの高く掲げられた一つの思想なのではないかとも感じたのです。

 そのことをキッカケとして、各地でくりひろげられている地域づくりは、それぞれどのような思想にもとづいて地域づくりをしているのだろうかということが気になるようになったのです。そしてそのことを探究していくことで、宮沢さんは現代の地域づくりのためにどのような思想的遺産を提供してくれているのかを剔出することができるのではないかとも考えるようになったのです。

 そうした折に、たまたま宮城県富谷市の「とみやど」という「観光交流ステーション」を訪れる機会がありました。そのときは、その施設内にある飲食店に関するチラシを見てランチを食べるためにいったのです。行ってみると、それは単なる飲食店街の施設ではないことが分かりました。

 その施設は、かつての奥州街道のひとつ「富谷宿」に建設されたまさしく「観光交流」のための施設だったのです。とみやどは、「しんまち地区の内ケ崎醤油店跡地」に建設された施設で、2021年5月にオープンしています。

 興味をもったのは、この施設建設と運営の精神的バックボーンとなっているのが、この施設建設に土地を提供した内ケ崎醬油店の当主であった内ケ崎作三郎さんの『人生学』であったということです。それは、内ケ崎作三郎さんの生き方論が、とみやどという観光交流ステーションを核とするこの地区の地域づくりの思想となっていることを示していると思われたのです。

 では、内ケ崎作三郎さんとはどのような人物なのでしょうか、そして彼の『人生学』が説いている思想とはどのようなものなのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

表裏一体の関係としてある極楽浄土と地獄

 平泉を訪れ、藤原一族の人たちが、それほどまでにこの世に極楽浄土世界を築こうとしたのかについて考えをめぐらすなかで思い至ったのが、藤原一族の人たちにとって現実世界があまりにも地獄であったからではないかということでした。このことは、後の時代の宮沢さんが直面した現実と希求したこととの関係性にもあてはまることなのではないかと感じるようになりました。

 極楽浄土と地獄、それはまさしく表裏一体の関係性を有しているものなのです。宮沢さんが詩や童話という表現方法で探究したテーマとは、そうした表裏一体の関係にあるテーマだったのではないでしょうか。

 極楽浄土と地獄、平和と戦争、宗教と科学、生(この世)と死(あの世)、民衆と為政者、そして自然と人間(生活)が、宮沢さんが挑んだテーマ群であったように思います。しかも、宮沢さんはそれらのテーマを、それぞれバラバラに、抽象的に探究したのではなく、この世に極楽浄土を建設するという目標に向かって闘いつづけるなかに位置づけていたのです。

 さらに、男と女の関係性に関しても触れていました。しかし、ないものねだりをするならば、もっともっと宮沢さんがそのテーマをどのように考えていたかについて考察できる材料を残してくれていたらなと願ってしまいます。

 この表裏一体としての関係性という視点で見ると、宮沢さんが愛した郷土である岩手県社会の歴史は、一面では、地獄絵図的世界の歴史でもあったということになろうかと思います。そして、事実そうであったことを、岡本さんの本が紹介しています。

 そのことをキーワードで示すならば、岩手県社会における地獄史とは、飢饉、中央政府による侵略、そして地元為政者による苛斂誅求というものではないかと思います。岩手県社会の人々の歴史は、それらの地獄的状況との闘争史でもあったと見ることができるように思います。

 その一端を、岡本さんの著作から、江戸時代の状況に関して確認しておこうと思います。ただその歴史を全面的に見ていくということはとてもできませんので、安易な方法ですが、つまみ食い的に書き抜きするということで満足したいと思います。蛇足ですが、ここに、学術的な論文ではなく、基本的には自分の思考・試行の記録をつづり残しておくためのブログということの気軽さと楽しさがあります。

 ここでは岡本さんの「三度の大飢饉」の叙述を参照させていただこうと思います。岡本さんによれば、「江戸時代の東北は三度、大飢饉に見舞われた。元禄(げんろく)飢饉(一六九五~九八年)、天明天明)飢饉(一七八二~八三年)、天保(てんぽう)飢饉(一八三三~三七年)で」す。これらは、天災ではありますが、岡本さんによれば、ヤマセと呼ばれる夏の冷たい季節風が吹く気候条件の下で、「新田開発」を急いだという人災の側面もあったと言います。

 さらに、そうした飢饉のときには、為政者たちは「炊き出しや年貢の減免、米を使う酒造の禁止などの対処療法」をおこなっていたのですが、当時の岩手県社会の為政者であった盛岡藩は、そうした救済策が不十分で、かつ庶民が納めなければならなかった税も重かったというのです。

 そのため、「とくに盛岡藩は、飢饉による一揆が突出して多発した藩として有名」で、「飢饉のたびに一揆が起き」ていたのです。例えば、「『三閉伊(さんへい)一揆』では、一万六千人もの住民が集結し、数千人が仙台藩に逃散した」と言われています。

 ではなぜ盛岡藩では飢饉の際に一揆が多発したのでしょうか。岡本さんによれば、盛岡藩は新田開発の余地が少ない地質的特徴を基盤としているにもかかわらず、他の藩との家格をめぐる序列争いのために見栄をはったためであると説明しています。

 すなわち、かつては表高10万石であった盛岡藩は、他の藩も10万石になったため家格が同格になってしまうことを嫌い、表高20万石に変更したのです。しかし、「盛岡藩のもつ海岸は、三陸海岸のリアス式で、埋め立てには向かない。実高の上乗せは数万石程度だったようだ。結果として領民の祖全負担は重くなり、飢饉などには弱い体質」となってしまったのです。

 そのために、飢饉のときの藩による救済策も他藩と比較して薄いものとならざるをえなかったのです。岩手県社会の人々は、厳しい気候条件に加え、為政者による苛斂誅求の政治とも戦い抜き、現在の岩手県社会を創りあげてきたのです。宮沢さんが向き合わなければならなかったのは、そうした闘いの歴史を潜り抜けてきた人たちでした。個人的にも、岡本さんの本に出合い、岩手県社会の人々の歴史的歩みについて少しは知ることができたことで、岩手県をみる目がかわりました。

 それまでは、岩手県は自然にめぐまれその景観だけでなく、自然がもたらしてくれる恵みの豊かさに目を奪われていたのです。とくに、宮沢さんのように自分の信念によってではなく、単に生理的な性質によって生ものが苦手な自分にとって、海産物ではなく、農産物の豊かさに惹かれてきました。

 とくに、リンゴ、お米、日本酒とビール、そして牛乳の加工製品に魅力を感じてきました。しかし、その豊かさやすばらしさを得るまでに地獄的状況を一歩一歩切り開いてきた人々の闘いがあったことの重みをあらためて知ることになりました。岡本さんに感謝します。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

極楽浄土という心象風景

 宮沢さんに関心をもつようになって、極楽浄土の存在とはなにかということも考えるようになってきました。現在のところ、仮説にすぎませんが、極楽浄土とは、宮沢さんが感じていたように死後の世界にあるのではなく、祈りと自然の美しさの中に霊意や神意を感じる人間の心の中に存在しているのではないかと考えるようになっています。

 それは宗教心に通じている心なのかもしれません。すなわち、人は、自然の示してくれる美しさや神秘さにふれたとき、自分の心の奥底に抱いている願いや夢、そして希望を「祈り」という形で自然にたいして捧げようとするのではないかと思うのです。そしてそれらの願いや夢・希望がかなえられる世界が極楽浄土の世界なのではないでしょうか。

 しかも、人間存在の面白いところは、心にあることを心の外に客観的な世界として具体的に実現しようとするところにあると思います。すなわち、人は、この世に極楽浄土世界を実現しようとする存在なのです。

 それは、特別な感受性をもっている人だけに限られたものではありません。普通の日常生活の中で無意識に行われている行為ではないかとも思います。温泉につかり、不断のストレスや疲れが癒されるとき、おもわず、〝ごくらくごくらく〟と口ずさみます。おいしいものを食べたときも、〝ごくらくごくらく〟という気分になります。

 少しまえ、久しぶりに平泉を訪れました。極楽浄土世界を再現しようとする〝まちづくり〟の風景を再度見てみたいと思ったからです。その中で、今回は、とくに無量光院跡の風景を見ながら建設当時どのような風景を見せていたのかに思いを馳せてみました。それは、無量光院には、その見せ方の中に、極楽浄土を感じることのできる自然美の風景の創作があるからです。

 あらためて、地域づくりには日常生活の風景づくりという要素が重要なものとしてあるのだと感じることができました。その風景に関して、平泉のパンフレットには次のように解説されていました。

 無量光院は、「三代秀衡が、宇治平等院鳳凰堂を模して建立した寺院」で、「建物の中心線は西の金鶏山と結ばれており、その稜線上には沈む夕日」が光り輝いて見えるように設計されているのですと。

 そうした無量光院を創造する営みとは、人が自然から感じとった生命に関する真理とは何かつについての表現活動でもあるように感じます。なぜならば、藤原一族の人たちが平泉という地にそうした極楽浄土の世界を築かねばならなかった背景には、自分たちが経験した骨肉相食む地獄絵図の世界を経験していたという背景があるからです。

 それがどのようなものであったか、関心のある方は、岡本公樹さんの著した『東北不屈の歴史をひもとく』を参照していただければと思います。現実の人間社会を生きるということがいかに痛みをともない、数々の苦しみを生みだし、地獄とさえ感じるような世界とならざるをえないのか、大いに考えさせられます。

 それにしても、そうした世界の中で、自然が与えてくれるのは、癒しだけでなく、新たな社会建設に向けての構想でもあるということに惹かれます。宮沢さんが、仏国土建設の構想として、決して金銀財宝に満ち溢れた世界ではなく、自然美と人々の支え合う社会生活の姿を大切な要素としていたことに魅力を感じています。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

自然とともに生きる

 岡本さんは、東北人の不屈の精神を育んできたもののひとつが、「東北の自然の美しさ」であると指摘しました。そして、次のような文章をつづけます。

 東北の自然の美しさに「魅了されたのは東北人だけでない。辺境でありながら、都人は東北の地にあこがれを抱いてきた。旅人たちも、そして、長い旅の結果、東北に移住してきた人たちも、この東北の自然に抱かれることをのぞんだ。時に、厳しすぎる姿を見せるこの美しい自然に。」というのがその文章です。

 宮沢さんも、東北の自然の美しさに抱かれることを望んだひとりです。宮沢さんにとって極楽浄土とは、自然の美しさに抱かれるということだったのかもしれません。そして、その美しさは、宇宙史的自然の精神史の中で発酵し、育まれてくるものなのでしょう。

 さらに、自然の美しさには、人の自然とのかかわり、人と人とのかかわりにおける振る舞いの美しさも含まれているのでしょう。宮沢さんにとって、自然とのかかわり、そして人と人とのかかわりにおける振る舞いの美しさとはどのようなものであるか、それが重要なテーマであったように感じます。

 そこで問題となるのは、自然が有している精神性とは何かということではないかと考えます。近代科学的に考えれば自然に精神性が宿っていると考えるのはとんでもない間違いということになるでしょう。しかし、もしかしたらそうした考え方がとんでもない間違いなのかもしれません。

 では、精神性とは何なのでしょうか。社会学的に考えてみると、それは、関係性にあるものの間に存在している作用・反作用の関係性のことではないかと考えます。そしてこの世に存在する万物は、すべてが関係性をもち、しかも、その間での絶えまのない作用・反作用の関係性の中でこれも絶え間のない変化を遂げつつ存在しているのです。

 これまで、人は、人間の理性や目的意識性という精神性だけを何か特別なもの、しかも至高のものであると理解してきたのではないでしょうか。しかし、現代社会においては、そうした理解でよいかが問われているのではないかと思います。すなわち、それは、人間存在だけが、万物の中で特別な存在であるとする捉え方に通じているのです。しかし、人間も人間だけでは存在しえません。

 自然の美しさは、人が感じる美しさです。そして、それは、人が生活を通じて自然とかかわり、自然に働きかけることを通して自然が見せてくれる美しさです。さらに、社会学的に言えば、自然の美しさとは、人と人との関係性を媒介とする生活を通して人が自然にかかわり、働きかけをすることを通して自然が見せてくれる美しさです。

 そのために自然は人に対して常に美しさだけを見せてくれる訳ではないのです。ときには、岡本さんが言う厳しすぎる姿を見せるのです。しかも、不断に変化していくものでもあります。それにもかかわらず、自然が常に人に対してその美しさを見せてくれているとするならば、それは人の自然に対するかかわりや働きかけが自然の美しさを維持するような形をもちつづけていることの証だと言えるのです。すなわち、自然の美しさは、容易に損なわれるものでもあります。

 宮沢さんは、それらのことを、「小岩井農場」という詩の作品の中で、次のように表現しています。

 「はたけの馬は二ひき/ひとはふたりで赤い/雲に〔濾(こ)〕された日光のために/いよいよあかく灼(や)けてゐる/冬にきたときはまるでべつだ/みんなすつかり変つてゐる/変つたとはいへそれは雪が往き/雲が展(ひら)けてつちが呼吸し/幹や芽のなかに燐光や樹液(じゆえき)がながれ/あおじろい春になつただけだ/それよりもこんなにせわしい心象の明滅をつらね/すみやかなすみやかな万邦流転(ばんぽうるてん)のなかに/小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が/いかにも確かに継起(けいき)するといふことが/どんなに新鮮な奇蹟だらう」

 以上がその文章です。そして、この文章にある「新鮮な奇蹟」をもたらしているものこそ、小岩井農場の人たちの日々の暮らしとその中での生活活動だと言えるのではないでしょうか。

 

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われらみな「東北人」

 宮沢賢治さんに関心をもつようになったことで、これまでであれば出会うことがなかったかもしれない本との出会いが増えてきました。その一つが、ここで紹介する読売新聞記者の岡本公樹さんの著した『東北不屈の歴史をひもとく』です。

 この本は、2011年3月11日の東日本大震災後の状況を取材するなかで誕生した本です。この本は、東北の人々の震災からの復興活動を支えようとして著されたものです。そしてその内容は、2万年に及ぶ東北の歴史を通観するものです。では、2万年に及ぶ東北の歴史を通観することが、どうして東北の人々の震災復興の活動を支えることになるのでしょうか。

 岡本さんは言います。「津波で多くの同僚を亡くした学芸員は、『文化のない復興は本物の復興でない』と言う。東北の歴史を知ることが、復興しようとする東北の人たちに、遠くから支えようとする人たちにとって、力になると信じて、この本を書きあげた」のですと。

 ではこの本は、どのようにして震災からの復興活動をしている東北の人たちの力になろうとしたのでしょうか。それは、数々の「天災」・「人災」を乗り越えてきた東北の人たちの闘いをあらためて振り返ることで、復興に向けて歩み出した人々を勇気づけるためのエールを送ることによってです。

 岡本さんによれば、「東北人が、地震津波、噴火など数多くの天災を乗り越えるだけでなく、時には利用したことは、現在の東北の人間にもあまり知られていない」のです。「まして『人災』といえる度重なる中央からの侵略と敗北が必然であるはずはない」のです。

 それらのことを知ることは、「積みあげたものをすべてなくした絶望の大きさは、被害にあっていない人間には想像するのも難しい。にもかかわらず東北の人たちは、復興に向けて小さな歩みをはじめた。それはなぜだろう」という問いに答えることができるようになることでもあります。

 東北2万年の歴史を振り返り、辿ってきた岡本さんのその問いに対する答えは次のようなものでした。すなわち、岡本さんによれば、東北の人たちの不屈の精神の秘密の「ひとつには、きっと東北の自然の美しさがある」のです。

 岡本さんのこの一文を目にしたとき、瞬時に宮沢さんが頭の中にうかんできました。なぜならば、宮沢さんも「この美しい岩手県を自分の庭園のやうに考へて夜は少しくセロを弾きでたらめな詩を書き本を読んでゐれば文句はないのです」(1931.3.21日付の工藤藤一宛の手紙)と書いていたからです。

 東北の自然の美しさと東北の人々の精神史との関係性を、岡本さんも、そして宮沢さんもともに強く意識しているのです。そして、宮沢さんの場合は、自然そのものに極楽浄土を創りだそうとする精神が宿っていると認識していたのです。しかも、その実現は間近に迫っているとも考えていたのではないかと思います。

 岡本さんは、東北人の2万年にもおよぶ「天災」と「人災」との闘いによって培われ、刻み込まれてきた「不屈の精神」は、きっと2011年3月11日の大震災をも乗り越える際にも発揮されるであろうことを明らかにしようとしました。

 宮沢さんも、また岩手の自然および人々は、宇宙史的展望の中で、いまや極楽浄土の世界を築きあげることになるであろうことを経典として示そうとしたのではないかと思います。なんというスケールの大きな自然のものをも含む岩手の精神史の創造の試みだったのでしょう。

 宮沢さんの詩や童話をどのように読んでいけばよいのか、これまで全く不明でした。そのため、そのための手がかりを求めてあれこれと迷い道を歩んできました。だいぶ時間もついやしてきました。やっと、いま、宮沢さんの詩や童話に向き合うための仮説的な視座を得たように感じます。あらためて宮沢さんの詩や童話にその仮説的な視座から親しんでみようと思います。

 

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人のために生きる

 宮沢さんを修羅としての存在から不軽菩薩のような存在になることを願うような自己へとの自己形成の歩みを導いていった宮沢さんに内在していた力とはどのようなものだったのでしょうか。宮沢さんという人を知るために欠かせない問いです。

 一つの仮説ですが、その問いへの答えは、以下の4つの力ではなかったのではないかと考えます。人の幸福を心から願うことができた人間力。人の喜びを自己の喜びとし、人の悲しみを自己の悲しみとし、人の苦しみを自己の苦しみとすることができたまれにみる共感力。自分を謙虚にみつめ、失敗や挫折の経験から自分を素直に見つめ直すことができる反省力、そして思っているだけ、考えているだけでなく、目の前の人の苦しみを見過ごしておくことができず躊躇なく救いの手をさしのべてしまう行動力。それらの力が、宮沢さんの自己形成を導いていった力だったのではないかと考えます。

 そして、それら4つの力を動因とした宮沢さんの自己形成とは、自分を特別な存在者と感じていたために社会的に孤立していた者から人の(輪)中に入り、関りをもつことのできる者へ、人を教え導く者から人から学ぶことができる者へという軌跡の自己形成だったのではいかと思います。

 そうした自己形成を歩むことになった外的要因は、ひとつは、自己形成の基準として日蓮さんを師として法華経においていたこと、そして二つ目は、実際に人のために救済する活動に飛び込んでいったことではないかと考えます。

 とくに後者の要因は、夜回り先生と呼ばれている水谷修さんが自分の居場所をもてず夜の都会の繁華街をさまよっている子供たちや若者たちにかけることばを想起させるものではないかと感じます。

 水谷さんは、自分の居場所をもてず、絶望にもちかい孤独感をかかえている子どもたちや若者たちに呼びかけます。

 「つらいとき、哀しいときは/人のために何かしてみましょう。/まわりに優しさをくばってみましょう。」

 「みんなの笑顔が、あなたの哀しい心を癒してくれます。/人のために生きることが、これからの自分のためになります。/『ありがとう』と言われることが、あなたの生きる力です。」〔水谷修『こどもたちへ 夜回り先生からのメッセージ』サンクチュアリ出版、2006年(7刷)〕とです。

 この水谷さんの呼びかけは、まるで高等農林学校を卒業したものの自分の去就が定まらず、自己卑下、苛立ち、そして孤独感にさいなまれた宮沢さんに向かって呼びかけられたかのように感じます。宮沢さんへの呼びかけは自分自身でおこなわれたのですが。そのときとは、人を幸福にするために何かしなければならないが何をしたらよいかまるで思いつかない、どうしたらよいのだろうかと悶々としていたある日、日蓮さんの書物が宮沢さんの身に落ちてきた瞬間だったのでしょう。その瞬間こそ、人の幸福実現のための仏国土建設の実践者としての宮沢さんの新たな旅立ちの瞬間でした。

 そして、宮沢さんは、水谷さんの呼びかけに応えて人のために生きるための人生の指針となる二つの心情のもちぬしでした。ひとつは、人をだますくらいなら人にだまされるくらいお人よしな方がよいというものではなかったかと思います。そしてその心情は、トルストイさんから学んだものではなかったかと推測します。

 もう一つの心情は、「強きをくじき、弱きを助ける」というものではなかったかと思います。そしてその心情は、高度経済成長期以前の、勧善懲悪的風潮がまだ日本社会における心象風景となっていた時代における人々の社会的心情としてある程度共有化されていたものではなかったかと思います。

 現代社会では、これらの心情は絶滅危惧種の心情となってしまいました。そしてそれらの心情がなくなるにつれて、世の中はとても生きづらい世の中へと変わっていったのではないかと思います。とくに、現代社会における心象風景が「強きについて、弱きをくじく」というものに変化してしまったことで、大変生きづらくなってしまったように感じます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン