シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

良寛さんと宮沢賢治さん(1)

 宮沢さんの人生を理解することは非常に難しいと感じます。なぜそのような行動をとったのか、なぜそのような言動をとり、文章を綴ったのか、そしてその基底にある信仰とはどのようなものであったか、とくに仏教に疎い自分には全く理解不能で、謎となっているもの、ことにあまりにも多く出会います。それでこれまで、それらのものやことを少しでも理解可能としようとして宮沢さんの思いを映し出す鏡としてブッダさんの教えを参照して見てきました。

 それでもなお、宮沢さんの人生・言動・文章には多くの謎が残ってしまいます。今回は、その謎を解き、自分にとって理解可能とするようにするために、宮沢さんの人生を良寛さんの人生と比較・対照してみようと思います。幸いなことに通っている図書館で阿部龍一さんの大著である『評伝 良寛 わけへだてのない世を開く乞食僧』に出会うことができました。この著書の力を借りて宮沢さんの人生の謎解きに挑んでみようと思います。

 まずなによりも、できれば自分だけでも納得する理解をしたいと思いつづけてきたことですが、宮沢さんはなぜ死の直前になって、それまでの、自分の力と働きによって苦しむ衆生を救おうとしてきた人生とは180度違う真逆の人生を歩むことになる「デクノボー」になりたいと思うようになったのかという謎解きをしたいのです。そもそも、デクノボーとは宮沢さんにとって何を意味するものだったのか、そしてどのような心情の変化によってそのようなものになりたいと思うようになったのか、自分なりに納得する回答をえたいと感じます。

 それは、阿部さんの上述の良寛さんの著書を読み進めて行く中で触発された関心事でもあります。その著作には、良寛さんは、地域の人たちの布施によって生活している自分を、役立たずのデクノボーと自認していたと紹介されていました。そのことを知り、なるほどデクノボーにはそうした全くの他者の労働に依拠した生活という意味もあるのだと、感心したのです。宮沢さんがめざしたデクノボーとはどのような意味での存在者だったのか、あらためて関心が湧いた次第です。

 一般的には、良寛さんのイメージは、暮らしていた村の子供たちと遊び惚けたり、地域の人たちと「酒を酌み交わしつつ歓談し、また詩、歌、書を楽しむ乞食僧(こつじきそう)」という、極めて「牧歌的で心安らぐ」人物であったというものでしょう。しかし、阿部さんによれば、そのイメージは良寛さんの人生の一部でしかないのです。阿部さんは言います、

 そうしたイメージの生き方が「良寛の生き方として当たり前のものだったのだと、安易に考えるべきではない。良寛がそこに辿り着くまでには、まさに血のにじむような努力が必要だった」のですと。牧歌的で、心安らぐ乞食僧良寛さんはどのようにして誕生してきたのでしょうか。

 宮沢さんと良寛さんの大きな違いの一つは、宮沢さんが世俗の人として成仏の悟りをめざしたのに対し、良寛さんは、出家し、厳しい修行を積むことで成仏の悟りを探求しようとしたことではないかと思います。その際、良寛さんは、禅宗に属する曹洞宗の修行僧となる道を選びました。それはどのような理由によるものなのでしょうか。

 阿部さんによれば、禅宗の修行僧としての修行を積むことで、「質素であっても人間性豊かな暮らしを営むという理想」を実現するためでした。良寛さんが出家を志した時代は、新たな商工業の発達を見ていた時期で、何でもお金次第の世相となっていた時代だったそうです。地域の名望家層の新旧の交代劇も起こっていたのです。

 そうした時代風潮の中、良寛さんの生家は、旧勢力の名望家であり、長男として生まれた良寛さんが継承者となるころには、没落の道を辿っていたのです。良寛さんにはその立て直しが期待されていたのですが、良寛さんが選んだ人生は、その役割を放棄し、出家するというものでした。

 良寛さんは、「尼瀬の曹洞宗光照寺」に入門し、さらに「備中玉島の円通寺」において本格的な禅僧としての修行生活に入っていったのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(11)

 ここまで見てきたように、1927年8月20日の日付の入った詩の作品群に表現されていた宮沢さんにとっての大きな試練以降の宮沢さんの精神的・身体的状況は、本当に厳しい状況の連続でした。そして、その試練とは、苦しむ衆生を救い岩手の地に仏国土建設を自らの働きによって建設するという立願に対するものでした。しかし、宮沢さんは、どんな厳しい病状が襲ってきても、今自分ができる精一杯の働きを続けようと必死に活動しつづけていました。その不屈の人生は、仏教のどのような教えを受け止めたものだったのでしょうか。大いに気になります。

 「発句経」の17、18、19、そして20がその教えとなったものではないかと推測します。そして、その推測は、またまた小池龍之介さんの『超訳 ブッダの言葉』を読んだことでヒントをえたことによるものです。ここでは、「発句経」の17と18だけを参照することにしたいと思います。「発句経」17とは、以下のような教えです。

 「悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。『わたくしは悪いことをしました』といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。」

 「発句経」の18は、「善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。『わたくしは善いことをしました』といって歓喜し、幸(さち)あるところ(=天の世界)におもむいてさらに喜ぶ」です。

 これら二つの教えを、小池さんは次のように超訳しています。まず、「発句経」17に関しては、それは、最初の文章のところだけに関する部分になりますが、「君がネガティブな行動・ネガティブな言葉・ネガティブな思考をするのがクセになってしまい、それらを通じて悪い業(カルマ)を心に刻み込んできたならば、生きている間から、その業(カルマ)のエネルギーにより、いつもイライラして不幸な日々を送る」と超訳しています。

 「発句経」18に関しては、同じく最初の文章のところだけになりますが、「君がポジティブな行動・ポジティブな言葉・ポジティブな思考を通じて善い業(カルマ)を心に刻み込んできたなら、生きている間から、その業(カルマ)のエネルギーによりいつも幸福でいられる」と超訳しているのです。

 以上の「発句経」17と18に関する小池さんの超訳は、「悪いこと」・「善いこと」の意味を通俗道徳における善悪という意味ではなく、ネガティブ・ポジティブという生き方の姿勢という意味として受け止めています。この小池さんの超訳に触れ、本当にブッダさんの教えは、千変万化、無限の解釈可能性がある教えなのだなと、あらためて感じます。

 宮沢さんの、自分の立願に対して生涯ポジティブな生き方を貫いた基礎には、ピンポイントで上記の「発句経」17および18からであると断定はできませんが、何らかのブッダさんの教えを宮沢さん独自の受け止め方をしたことにあったのではないかと感じます。宮沢さんも、小池さんがそうであったように、例えば、自然から、風から透明なエネルギーをもらうというような表現をたびたび使っていたのではないかと感じます。

 それにしても、そうした宮沢さんの仏教と生き方の関係を探究してくると、ブッダさんの教えは、人が自分の生き方に迷いが生じたとき、新たな生き方を模索する上で、いかに力となるかを実感します。また、宮沢さんが、詩や童話、そしてその他の作品や手紙などで表現していることが何を意味しているものなのかは、宮沢さんブッダさんの教えをはじめとする仏教の教えをどのように受け止めていたのかを分からないと理解できないということもあらためて感じました。

 また、ここまでの作業を通して感じたことは、宮沢さんの仏教の教えに対する受け止め方を理解するには、日本における山岳信仰、すなわち簡単にでも修験道とはどういうものかについて理解を深めなければならないのではないかとも感じました。さらに、宮沢さんの生き方を理解するためには、宮沢さんの生き方を照らし出す鏡として良寛さんの生き方とはどのようなものであったについても知る必要があるのではないかとも感じました。

 終活の一環として宮沢さんの人生に関心をもったのですが、そのことについてのテーマが無限に広がっていくことに、またまた驚いています。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(10)

 宮沢さんは、自分が住む岩手という地を、何とか自分の働きによって、経済的に支えたいとの思いが強かったのではないかと推測します。なぜならば、当時、その地は、宮沢さんの認識によれば疲弊の極みにあったからです。しかも、その考えは、繰り返しになりますが、トルストイさんの、聖なる人は、自活し、さらにそれを上回る余剰で他者の生活を支える人であれとの教えを自分のものとしていたことによるものではないかと推測します。すなわち、宮沢さんにとって、聖なる人とは、布施を受ける人ではなく、苦しんでいる他者や地域に布施する人であったのです。それは、初期仏教者の生活様式とは正反対の考え方で、そのことも宮沢さんのユニークさではないかと感じます。宮沢さんは、文字通り、独自の菩薩道の道を歩みたかったのだと感じます。

 東北砕石工場代表の鈴木東蔵さんに出会い、彼の事業を手伝うことで、宮沢さんは、疲弊しきっていた岩手の地域経済を救いたいと考えたのではないでしょうか。しかし、それは、またもや宮沢さんにとって、身体的にだけでなく、精神的にも非常に辛い道だったのです。

 宮沢さんがこの時期石灰砕石のセールスの旅の中で綴ったであろう「王冠印手帳」に、その精神的辛さが、数々記されています。「王冠印手帳」の77・78頁には、「あしたはいづこの組合へ/一事を向けんなど思ふ/さこそはこヽろうらぶれ」たりと記されています。

 85・86頁には、「卑しくも身を/     へりくだし/ひとひつかれしとて/夜汽車のなかに/    まどろめば……/病ふたヽび/ 来しやと思ひ」との弱り切っていく心情風景が描写されています。

 さらに、121・122頁には、「農民ら病みてはかなき/    われを嘲り……/あヽあざけりと/    屈辱の」と、石灰砕石のセールスが宮沢さんにとって精神的にどれほどしんどい活動であったかと感ぜずにはおれない心情の吐露が綴られています。

 そうした精神的な苦痛は、身体の健康も徐々に蝕んでいったことでしょう。この時期、東北砕石工場代表の鈴木東蔵さんと出会い、新たな活動への期待がふくらんでいった時期ですが、気管支炎に悩まされたことが「書簡」に綴られています。1931年9月25日、または26日と推定されている鈴木東蔵さんあての「封書」に、宮沢さんの便りを心待ちしている鈴木さんへ、気管支炎による高熱のために何らの知らせもできなかったことにたいするお詫びを次のように記しています。

 すなわち、「当地着廿日夜烈しく発熱致し今日今日と思ひて三十九度を最高に三十七度四分を最低とし八度台の熱も三日にて屡々昏迷致し候へ共心配を掛け度くなき為家へも報ぜず貴方へも申し上げ居り」ましたとです。そして、この気管支炎を患ったときには、宮沢さんは、自らの死をも覚悟したと言われています。すなわち、上記の鈴木さんへの報告に先立つ、9月21日付の「封書」の中で、父母の宮沢政次郎・イチさんあてに、今生の別れを告げようとしていたのです。すなわち、

 「この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたヾきながら、いつも我慢でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又はその次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします」とです。

 このときは、幸いにも死に至ることはなかったのですが、その病状は、時間がたつにつれ悪化していくことになります。しかも、そうした精神的・身体的病状の悪化という状態の中でも、宮沢さんは、どうしたら苦しむ衆生を救うという自分の立願を成就できるかを探究しつづけていくのです。

 1932年5月10日付、母木光さんあての「封書」には、「昨冬肺炎を再び患ひましていまだに起居談話自由ならず」、「どうも気管支炎などが悪いと少しの感情でも生理的にもてあましてしまふので困ります」との病状が記されています。

同年6月と推定されているあて先不明の「封書」の下書きには、そのときの病状の記述とそのことにおける心境を読んだ「詩」が詠まれています。「病気はこんども結核の徴候は現はさず、気管支炎だけがいつまでも頑固に残って、咳と息切れが動作を阻げます。/火雲 むらがり翔(と)べば/わがまなこはばみてうつろ/火雲 むらがり却(さ)れば/のんどこそしづにたゆたへ」とです。

 さらに、この下書きには、地域の窮状とそのことに対して何もできないことへの嘆きも綴られています。「まうかうなっては村も町も丈夫な人も病人も一日生きれば一日の幸せと思ふより仕方がないやうに存じます。……それにしてもどうしてもこのまヽではいけないと思ひながら、敗残の私にはもう物を云ふ資格もありません」とです。

 その後、宮沢さんの病状は、悪化の一途をたどっていくことになります。同年、夏ごろと推定されているあて先不明の「封書」の下書きには、「私も去年の秋から寝たきり、咳と痰がひどくもう死んだ方がいヽと何べん思ったか知れません。けれどもやっぱり一日生きれば一日の得です」と綴られていたのです。

 そうした中で、宮沢さんは、自らのかつての立願を諦めることなく、何としても実現しようとする執念をもちつづけていくのです。1932年9月23日付と推定されている、元同僚の藤原嘉藤治さんあての「封書」には、藤原さんの演奏の放送を聴いた感想を次のように書き送っています。すなわち、「今夕の放送之を聽けり。/……身顫ひ胸熱してその全きを禱る。事恍として更に進めり。最后の曲後半に至りて伴奏殆んど神(しん)に会す。奏了りて声を挙げてよろこび泣く。弟妹亦枕頭に来って祝せり」とあります。その記述には、藤原さんの芸術をエネルギーとして、何としても生きて自分の立願を追い求めようとする宮沢さんの気持ちが感じられるのです。

 それでもなお、この時期には、宮沢さんの病状は回復の兆しを見せないものとなっています。1933年8月30日付、伊藤与蔵さんあての「封書」には、何とか自分の社会活動を再開したいとの思いが次のように綴られています。

 「私もお陰で昨秋からは余程よく、尤も只今でも時々喀血もあり殊に咳が初まれば全身のたうつやうになって二時間半ぐらゐ続いたりしますが、その他の時は、弱く意気地ないながらも、どうやらあたり前らしく書きものをしたり石灰工場の事務をやったりして居ります。しかしもう只今どこへ顔を出す訳にもいかず殆んど社会からは葬られた形です」とです。しかし、同じ「封書」の中で、「それでも何でも生きている間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきとなってゐる所で我ながら浅間しい姿です」と、力のかぎり「昔の立願」を実現しようとしているのです。

 そして、死がまじかに迫っていた1933年6月5日と推定されているあて先不明の「封書」の下書きに、自分に言い聞かせるように次のような表現が綴られているのです。

 「もはや教になって貧乏のはなし、前途に光明あるはなし、何かの目論見みなはやりません。東洋人はいかなる物質の条件でもその中で楽しむことを工夫しそれができるのです。その工夫こそあなた方の立場から村を救ふ道であり自らを救ふ道でもあると思ひます」とです。

 この宮沢さんの、どんなに貧しい中でも、厳しい状況の中でも、「楽しむことを工夫」することが、「村を救」い、「自らを救」う道であるとのことばか心に響きます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(9)

 終活の一環として宮沢さんの人生をフォローしていくことで、あらためて宮沢さんのすばらしさの一端にふれることができます。その中で、とくに、宮沢さんのすばらしさは、ただ単に自分の命を削ってまで地域の農民たちの窮状を救おうとしたという人間的な立派さだけではなく、個人的な感想になるかもしれませんが、なによりもどんな困難や挫折に直面しても何としても生き抜こうとしたところにあると感じます。さらに、苦しむ衆生を救うという初期の立願を貫き通した人生であったところにも宮沢さんのすばらしさを実感しています。しかも、それは、自分が主人公になろうとする人生ではなく、農民たち自身が自分たちの力でいかに幸せになるかを探究しつづけた人生でもあったと思います。

 ここでは、宮沢さんが可能な限り生き抜こうとしたその原動力となった仏教の教えとは何だったのかについて考えてみたいと思います。宮沢さんは、1927年8月20日付の詩の作品群に表現されている極楽浄土建設の立願への試練以降に限っても、幾度かの精神的、身体的危機に直面しています。それらは、社会との接点を失ってしまうだけでなく、ときには死にたいとさえ思うような危機でもあったようです。しかし、そのたびに、宮沢さんは、それを乗り越えていっただけでなく、社会状況と己の経験の積み重ねを基礎に、新たな目標とそれを実現するための自己変革を遂げ、極楽浄土建設の立願を達成しつづけようとしています。それは、本当にすごいことだと感じます。そこで、以下、簡単にその軌跡を、宮沢さんの全集に収録されている書簡を手がかりにフォローしておきたいと思います。

 まず1928年「春頃」と推定されている高橋慶吾さんへの封書に次のような一文があります。「もうわたくしもすっかり世間を狭くしてしまいました。弱いこと不具なことはお互ひです」と。同年、9月23日付、沢里武治さん宛の封書には、「六月中東京に出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまヽで、七月畑へでたり村を歩いたり」したたために、「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦し」んだとの近況が記されています。同年12月と推定されている「あて先不明」の「下書」の手紙には、「何分神経症の突発的な病状でございましたためこの八月までもこの冬は越せないものと覚悟いた」したという記述が残っています。1928年のこれらの手紙の文章を読んでいると、宮沢さんは、このころ、とくに精神的に大分病み、衰弱していたことが分かるのです。

 さらに、そうした精神的に弱った状況は、1929年に入ってもしばらくつづいたのではないかと感じます。全集の書簡集にも9月までの書簡がない状態になっています。この年、最初に掲載されている書簡は、9月18日と推定されている、斎藤貞一さんあての「葉書」です。そのには「近日漸くに病勢怠り多少の仕事も致し居り候」とあり、徐々にではありますが回復傾向にあることが示されています。そして、12月と推定されている「あて先不明」の手紙の「下書」には、「私ことお陰さまでまづは全快の形でございますがまだ寒さに弱く室外へは出兼ねるやうな次第でございます」と、心身ともに快方に向かっていることが記されているのです。そして、その時期は、東北砕石工場の創業者である鈴木東蔵さんと出会い、新たな活動舞台が生まれようとしていた時期と重なっていたのです。

 1930年に入ると、それまでの精神的・身体的病状もすっかり回復し、意欲的に社会的活動をしようとする意欲も示すようになっていきます。同年1月1日の冨手一さんへの「謹賀新年」の挨拶の「葉書」には、「お陰で療りました。お序でお目にかヽりたいですが」としたためられています。2月9日、沢里武治さんあての「葉書」では、「わたくしすっかり療って仕事してゐます。命を一つ拾ったやうな訳です」と。すでに社会的活動を再開している近況を知らせています。同年、3月4日付の森佐一さんあての「封書」では、精神的にもすっかり回復した様子が記されています。すなわち、その「封書」には、「ご来訪以来わたくしも気分大へん明るくなり昨日も今日も半日づつ起きて今度こそはとわざと風に吹かれて見たりして居ります」との、自分の回復ぶりを知らせる記述があるのです。

 同年、3月30日付の菊池信一さんあての「封書」には、それまでの自分の活動の在り方を見つめ直し、新たな挑戦に向かをうとする心情が綴られています。「私の幸福を祈って下すってありがたう、が、人はまわりへの義理さへきちんと立つなら一番幸福です。私は今まで少し行き過ぎてゐたと思ひます」とです。「少し行き過ぎてゐた」とは、きちんとした成果もだせないまま、自分が浄土建設のためよかれと思うことを、あまりにも自分の思いを優先し、主導してそのための活動を進めてきてしまったということへの反省ではないかと推測します。

 しかし、1931年には、東北砕石工場で働くという新たな活動へ向かうことへの希望が生まれていったのです。同年、1月15日の沢里武治さんあての「封書」に、「実は私は釜石行きはやめて三月から東磐井郡松川の東北砕石工場の仕事をすることになりました」との近況を知らせているのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(8)

 ここまで思いつくままに宮沢さんがめざした仏教の教えとは何かについて見てきました。その中で、宮沢さんがめざした仏教の教えの特徴をもう少し体系だって理解するためにはどのような視点で見ていけばよいかという思いが浮かんできました。

 とくに、その視点には、宮沢さんの思いと地域の農民の人たちとの関係性をとらえることができるものであることも重要と考えます。ここでは、まだ仮説的ですが、そのための視点として、仏教の教えに関する願い・祈り・救い(救済)・心の平和(平穏)・(快楽ではない)楽しむという五つの要素の内容と関係性という視点を立ててみたいと思います。そして、その視点で、自分が救済しようとしている農民の人たちとの関係性において宮沢さんが抱えたジレンマを考察していければと思います。

 すなわち、上述の仏教の教えに関する五つの要素の内容と関係性において、宮沢さんの考えるものと農民たちの心の中にあるものとには、重なる部分と(大きくまたは小さく)ずれてしまう部分が、どうしてもでてくるのですが、そのことに宮沢さんは苦しんでいたと感じるのです。とくに、1927年8月20日の日付が入った詩の作品群には、そのずれに苦悩する宮沢さんの心情が綴られていたことはこれまで参照してきた通りです。

 『春と修羅 第三集補遺』の「心象スケッチ、退耕」と「雲」という作品もそうしたずれに悩む宮沢さんの心情が綴られています。前者の作品から参照してみたいと思います。

 「黒い雲が暖かく妊んで/一きれ一きれ/野ばらの藪を渉って行く。/そのあるものは/あらたな交会を望んで/ほとんど地面を這うばかり/その間を縫って/ひとはオートの種子をまく/いきなり船が下流から出る/ぼろぼろの南京袋で帆をはって/山の鉛の溶けてきた/いっぱいの黒い流れを/からの酒樽をいくつかつけ/睡さや春にさからって/雲に吹かれて/のろのろともぼってくれば/金貨を護送する兵隊のやうに/人が三人乗ってゐる/一人はともに膝をかヽえ/二人は岸のはたけや藪を見ながら/身構えをして立ってゐる/みんなずゐぶんいやな眼だ/じぶんだけ放蕩するだけ放蕩して/それでも不平で仕方がないとでもいふ風/憎悪の瞳も結構ながら/あんなのをいくら集めたところで/あらたな文化ができはしない/どんより澱む光のなかで/上着の裾がそもそもやぶけ/どんどん翔ける雲の上で/ひばりがくるはしくないてゐる」

 この「心象スケッチ、退耕」という作品にも、あの1927年8月20日付の作品群と同じように、宮沢さんが感じ取った、黒い雲を挟んでの宮沢さんと農民の人たちとの間の心情的な対峙が表現されているように感じます。すなわち、この作品でも、農民の人たちの生活を少しでもよいものとしようとして始めた肥料設計を、たまたま偶然の気候変動によって無に帰することになってしまった事態において、農民の人たちは宮沢さんを「憎悪の瞳」で見るような所業にでるのか、なぜか、なぜかと宮沢さんが問うているように感じます。

 上述の後者の「雲」という作品にもその宮沢さんのジレンマに陥っている心情が表現されているように思います。

 「青白い天椀のこっちに/まっしろに雪をかぶって/早池峰山がたってゐる/白くうるんだ二すじの雲が/そのいたヾきを擦めてゐる/雲はぼんやりふしぎなものをうつしてゐる/誰かサラーに属する女(ひと)が/いまあの雲をみてゐるのだ/それは北西の野原のなかのひとところから/信仰と譎詐とのふしぎなモザイクになって/白くその雲にうつってゐる/  (いましがわれをみるごとく/  そのひといましわれをみる/  みなるまことはさとれども/ 

 みのたくらみはしりがたし)/  ……さう/    信仰と譎詐との混合体が/    時に白玉を擬ひ得る/    その混合体はたヾ/よりよい生活(くらし)を考へる……/信仰をさへ装はねばならぬ/よりよい生のこのねがひを/どうしてひとは悟らないかと/をはりにぼんやりうらみながら/雲のおもひは消えうせる/うすくにごった葱いろの水が/けむりのなかをながれてゐる」

 この雲という作品には、宮沢さんがめざした仏教の教えの特徴の一つが明瞭に表現されているように感じます。それをひとことで言えば、宮沢さんがめざしていた仏教の教えとは、自然信仰に基礎をおく仏教の教えだったというものです。

 この作品では、霊峰早池峰山にかかる二すじの雲が主人公になっています。そして、その雲の思いが、人々の「よりよい生活(くらし)を考へ」ている、すなわち、自然は人間たちの「よりよい生活(くらし)」を考えている存在であると宮沢さんは考えているのです。しかし、そうであればなぜ、自然はときに人間生活に壊滅的な打撃を与えるような荒ぶれた姿で人間を追い詰めるような暴挙にでるのでしょうか。そのことに関しては、宮沢さん自身も、その「たくらみはしりがた」いと、この作品は表現しています。それでもなお、自然は、基本的には、人間の、人間だけでなくこの世のすべての存在にたいして、それらの「よりよい生活(くらし)」を願っているのです。

 宮沢さんは自問します、「どうしてひとは(そのことを)悟らないかと」です。宮沢さんも、そうした自然同様、農民たちの「よりよい生活(くらし)」を願って、肥料設計などの活動をしているのです。しかし、そのことを当の農民の多くの人たちは「悟って」くれません。なぜか、なぜか、そこに宮沢さんの苦悩があるのです。

 その宮沢さんの苦悩に関して言えば、宮沢さんは後に、農民たちは自分がその人たちのよりよい生活を願って、ときには命をかけて活動していることを理解してくれないのはなぜかと考えること自体、自分がいかに高慢な考えに陥っていたかと気づき、反省していくことになるのです。そこが塔を建てる者としての矜持を有している宮沢さんの宮沢さんたる所以です。

 ここまで宮沢さんがめざした仏教の教えとは何かを追いかけることで、宮沢さんはもしかしたら日本古来の山岳信仰を基礎に仏教の教えを受け止めようとしていたのではないか、そして、1927年8月20日の試練およびその後の東北砕石工場との関り以降、宮沢さんの自分の生き方に関する模索の方向性は、比較という視点で見ると、良寛さんの人生の歩みに類似するものとなっていったように感じます。

 それらの点に関しても今後考察していければと思います。がその前に、宮沢さんがどのような試練に直面しても常に前向きに自分の生き方を方向づけしようとしていたことに関して参照しておければと思います。それは、どのような仏教の教えと関係していたのでしょうか。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン 

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(7)

 この世に生きている個人が、仏教の教えを修得し、この世に極楽浄土的世界を創造することができるというような教えが、既成の仏教の教えの世界にあるのかな、と思っていたところ、青山俊董さんの『泥があるから、花が咲く』という本に出会ったのです。

 青山さんは、この著書の中で、「地獄・極楽は自分の心一つに開いてゆく世界」であることを説いています。その例として、「金沢の近郊、松任(まつとう)の本誓寺(ほんせいじ)」の歴史を示しています。本誓寺は、「千年の歴史を持つ古刹(こさつ)」ですが、親鸞聖人さんの越後への流罪を契機として、天台宗から浄土真宗に改宗したお寺だったのです。

 それは、「親鸞聖人が越後(えちご)に流される途中、手取川(てどりがわ)が氾濫して足止めを食い、しばらくこの寺に滞在された」際に、「その親鸞さまのお人柄にほれこん」だことによってだったというのです。そうした話を聞いた青山さんは、その本誓寺の歴史的由来を次のように受け止めています。

 すなわち、「深い感動の中に、私はこの話を聞きました。一般的にいえば、(親鸞聖人さんは、)受け入れ側としては流罪人だから歓迎したくない客。行くほうとしては流罪地だからよいところではないはず。親鸞さまほどの方になると、そんなことはどうでもよいのです。その方の行くところ、とどまるところが浄土になる、お浄土になる。そういうことであったな、と気づかせていただくことができました」〔( )内は引用者によるものです。〕とです。

 さらに、青山さんはそれを次のように敷衍するのです。「思うに地獄、極楽は向こうにあるのではなく、私の心一つ、生き方一つで自ら展開してゆくものであったということに気づきました」とです。その青山さんの気づきは、まさしく宮沢さんの求めようとしていた極楽浄土建設の方向性と同じものであったように感じます。

 では、そうした極楽浄土建設の方向性は、ブッダさん自身の教えの中にはどのように存在しているのでしょうか。青山さんは、「発句経」98がそのことに関わるブッダさん自身の教えであったことを示唆しています。すなわち、「発句経」98は、「村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい」(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫青302-1)というのが、それです。

 ここまで宮沢さんがめざした仏教の教えとはどのようなものだったのだろうか、という素朴な疑問を自分なりに探索することを通して気づいたことがあります。それは、とくにブッダさんの「発句経」は、宗教という形をまとった生活文化哲学ではないかということです。しかも、それは、ただ一つの絶対的な真理を述べたものというのではなく、その教えを受け止める人それぞれに解釈可能な、全く融通無碍な性格をもった生活文化哲学のように感じます。

 すなわち、100億人の人がいたら、ブッダさんの教えを100億通りに解釈することも可能だと感じます。そのことは、それだけ多くの人たちに影響をもつことができる可能性を、ブッダさんの教えはもっているということでもあると思います。とくに、現代のグローバル社会における経済的利害至上主義的風潮の中で苦しんでいる人たちへの救済の教えとなるように感じるのです。

 宮沢さんもまた、ブッダさんの教えをそのように受け止めていたのではないかと推測します。その宮沢さんがめざした仏教の教えということで言えば、宮沢さんは「楽しむ」ということを重視してブッダさんの教えを受け止めていたように感じます。個人的に言えば、宮沢さんに関心をもつまでは、ずっと、仏教は、人の死に関わる宗教だと思っていたのです。なぜならば、それまでは、葬式との関係のときに現実的に関わることになる宗教というイメージが強かったからです。

 それが、宮沢さんに関心をもつようになって、仏教に関する著作を手にするようになるにつれて、仏教は苦しみ多いこの世の中でいかに生きるか、ということを主題とした生活文化哲学的宗教ではないかというように受け止め方が変わってきました。とくに、宮沢さんは、人生いかに「楽しむ」のかということを重視していたように感じます。それも、宮沢さんがめざした仏教の教えだったのではないかと思います。

 それは、青山さんが示してくれた「発句経」98をたどっていたら、「発句経」99が目に止まったことで、よりいっそうそう感じるようになったのです。「発句経」99は次のような教えです。

 「人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛着(煩悩)なき人々は楽しむであろう。かれらは快楽を求めないからである」〔( )内は引用者によるものです。〕。

 この教えを目にしたとき、宮沢さんがよく山野を歩きめぐっていたというエピソードが心の中に浮かんできました。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

宮沢賢治さんがめざした仏教の教えとは(6)

 ところで、宮沢さんの、自分は塔を建てる者であるとの矜持はどこから出てくるものなのでしょうか。結論から言えば、この世における「釈尊常在」の『法華経』の教えではないかと推測します。釈尊さんが存在するところ、それは極楽浄土なのです。それは、宮沢さんがブッダさんと同じように成仏することができるならば、宮沢さんがいるところ、すなわち極楽浄土となります。

 そのためには、宮沢さんが生き仏とならなければならないのですが、果たしてそのようなことは、理論上だけでも、可能なことなのでしょうか。そのようなことを考えていたら、岩鼻通明さんの『出羽三山 山岳信仰の歴史を歩く』(岩波新書1681)という本にであったのです。それは、出羽三山山岳信仰の歴史を辿った本です。

 この本を読み進めて行く中で、第五章「湯殿山即身仏――『一世行人』の足跡をたずねて――」の論述内容に目がとまったのです。それまで、即身仏とは、自分の修行の証として、または自分の修行僧の栄誉として、いかに自分は立派な修行僧であったかを世に知らしむために行うものと考えていました。ところが、岩鼻さんの本と出合ったことで、即身仏とはそのような自己名誉のための行為ではなく、「代受苦(だいじゅく)」のための行為だと分かったのです。岩鼻さんは叙述しています、

 「出羽三山における即身仏とは、湯殿山の仙人沢で、『一世行人(いっせいぎょうにん)』と呼ばれる宗教者が、人々の苦しみや悩みを一身に受けとめる『代受苦(だいじゅく)』という考えのもと、木食行(もくじきぎょう)と呼ばれる厳しい穀断(こくだ)ちの修行を続けたのちに、生きたまま入棺して念仏を唱えながら成仏したものをいう」のですと。

 さらに、岩鼻さんによれば、近世を通じて「よく知られていた即身仏があった。それは越後国寺泊(てらどまり)の弘智法印(こうちほういん)の即身仏であり」、俳人曽良さんや江戸の旅行家であった菅江真澄さんなどもその即身仏を拝観していたといいます。菅江さんは、弘智法印さんの即身仏のことを、彼の紀行文中において、「生菩薩」と記していたといいます。

 同じく岩鼻さんによれば、山岳信仰においては、「近代以前において信者の崇敬をより集めていたのは、宗教活動を展開していた生身の宗教者としての一世行人」さんまたは弘智法印さんたちであったのです。それが、明治の神仏分離政策によって近代以降に即身仏信仰が再び崇拝されるようになってきたのです。

 岩鼻さんは、即身仏に関する松本昭さんの研究を紹介し、現在日本各地に十六体の即身仏があること、「十三体が東北地方および新潟県に存在し、なかでも、庄内地方には六体の即身仏が残ることが知られている」ことを紹介しています。

 ではそうした即身仏信仰が、宮沢さんがめざした仏教の教えとどのように関係するのでしょうか。この点に関しては、これも岩鼻さんが自著の中で紹介しているのですが、佐藤弘夫さんの次のような研究が参考になりといいます。すなわち、岩鼻さんの紹介によれば、佐藤さんは、即身仏信仰は現世利益的であり、「即身仏はそれ自体の聖性は有していても、その背後に彼岸世界をもたない」ことを、そして「それは、中世的な浄土信仰の拠点から近世的な現世利益の祈祷寺へという、本質レベルでの霊場の性格の変容」が起こったことを指摘していたのです。しかも、岩鼻さんは、その佐藤さんの指摘に関して、「その変容はむしろ明治以降のことではなかろうか」とコメントしています。

 もしその岩鼻さんの山岳信仰の歴史に関する指摘が事実的なものであったとしたならば、まさしく宮沢さんが、自分が悟りを開き成仏することによって、自分の郷土岩手の地に極楽浄土を建設するという大望を抱くということあっても不思議ではないと感じます。

 

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