シニアノマドのフィールドノート

生き生きと生きている人を訪ねる旅日記です

宮澤賢治さんと岩手の地との新たな出会い

 宮沢さんは、必ずしもはじめから岩手の地で一生をすごそうと考えていたわけではなかったように思えます。盛岡の高等農林学校卒業後は東京で人工宝石にかかわる商売をしたいとの希望を父に伝えています。

 また、国柱会で働くために東京に出奔したときには、田中智学さんの命令であれば、シベリアにいって法華経の布教のために一生をかける決意までしていたのです。

 そもそも、宮沢さんが生まれ育った花巻は、これも必ずしも宮沢さんにとって居心地のよかったところではなかったのではないでしょうか。自分が地方財閥の一族に属していることで、自分は地域の人たちから白眼視されていると感じていたことを告白する作品も残しているのです。

 では、宮沢さんはいつ、どのようにして、自分は岩手の地で生きていくことを決意したのでしょうか。そして、その後、岩手という地をどのように見ていくことになっていったのでしょうか。

 それは、国柱会の一員としてこの世に仏国土を建設するという夢に挫折し、岩手の地で一から自然を切り開き、自らの力で仏国土を建設しなければならなくなったからではないかと、考えます。そのことは、宮沢さんの、「純黒と蒼冷」という作品に表現されていたのではないかということに関して、以前言及しています。

 そして、そのときは、心友である保阪さんの助けを借りて、一緒にその事業ができないかを、これも夢見ていたのです。

 「純黒と蒼冷」では、保阪さんと考えられる蒼冷さんが岩手県で農業をする決意を次のように告白します。「いや岩手県だ。外山と云ふ高原だ。北上山のうちだ。俺は只一人で其処に畑を開こうと思ふ」とです。

 それを聞き、宮沢さんと考えられる純黒さんが次のように応じます。「ああ俺は行きたいんだぞ。君と一緒に行きたいんだぞ」とです。それは、宮沢さんが仏国土建設のために自分が生まれ育った岩手という地にあらためて真剣に向き合うことを決意したことを表明するものだったと考えられるのです。

 すなわち、宮沢さんは、そのとき、岩手の地に仏国土建設をという夢をもったのです。そして宮沢さんは、仏国土を建設しようとする岩手という地を見る目が以前とは違ってくるようになっていったものと推測します。

 自然界や人間の生活世界が、その後違って見えてくるようになっていったのではないかと思います。例えば、高等農林学校卒業後宮沢さんは研究生として岩手県の土性調査に従事していますが、それは自分の将来に役立ちそうもないということで、あまり気乗りがしなかったと言われています。

 しかし、その時点では進路が決まっていなかったこともあって、土性調査に参加しますが、しくじりも見られ、そんなに真剣であったようには思えません。事実1年もたたないうちに辞退しています。

 さらに、研究生終了時には助教授の推薦があったにも関わらず、それを辞退しているのです。そしてその直後の保阪さんへの手紙の中で、「専門はくすぐったい。学者はおかしい。」とまで酷評しているのです。宮沢さんにとって学者になることは決して夢ではなかったのです。仏意にかなった世界を創る、それが宮沢さんの夢だったと言えるのではないでしょうか。

 (少し横道に逸れますが、今回宮城県名取市の図書館で、井上寿彦さんの『賢治さんのイーハトヴ 宮沢賢治試論』という本に出合いました。井上さんは、この著書の中で、これまで国柱会で働くことをめざした東京への出奔の真の目的は、実は、童話作家として独り立ちすることだったのではないかと論じています。

その根拠は、当時鈴木三重吉さんが『赤い鳥』という日本の児童向けの童話本を発刊し、全国的に掲載する童話を募集していたことに宮沢さんが応じようとしたのではないかというものです。鈴木さんから10回掲載童話として選ばれた暁には「プロの作家」として遇することがその募集文には謳われていたのです。

これまで宮沢さんがなぜ童話を志すようになったのか漠然と疑問に思っていたので、井上さんの説は大いに勉強になりました。またまたいい出会いができたと感じます。少し横道に逸れ過ぎましたが、ここで再び元の文脈に戻りたいと思います。)

 では岩手の地で仏国土建設をという夢をもって岩手という地に向き合うことで、岩手という地は宮沢さんにはどのように見えてくるようになったのでしょうか。

 そのことを論じるキーワードは、「美しさ」と「聖性」の二つではないかと思います。宮沢さんは、岩手の地を「美しい」、「聖い」と表現するのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

フィールドワーカー作家宮沢賢治さん

 社会学者の目で宮沢さんの人生の歩みをたどっていくと、否応なく、宮沢さんという人は、フィールドワーカーであり、社会的実践者であろうとした人なのだなとつくづく実感します。それらは詩や童話の作家としても宮沢さんの特異性を構成するものとなっているのではないでしょうか。

 宮沢さんがよく読んでいたというアンデルセン童話やグリム童話の作家たちは、いずれも創作的童話なのだそうです。ただグリム童話の作家、「グリム兄弟はドイツ各地の農家を訪ねて歩き、古くからドイツに伝わる民話を、教養のない『農家のおばあさん』たちの口からじかに聞いて、それを書きとめ、いっさい手を加えずに(つまりアレンジをしたりせずに)出版したのだ、したがってこの童話集に収録されている話はいずれも純粋にドイツの昔話であると」、長い間信じられてきていたのだそうです。

 そう指摘しているのは、『グリム童話』(講談社現代新書)の著者である鈴木晶さんです。さらに鈴木さんによれば、そうしたグリム兄弟の童話創作に関する信仰は、その後の研究によって全くの神話であったことが明らかにされてきたと言います。庶民に伝わる昔話の収集と記録というグリム兄弟のフィールドワーク伝説は全くの虚構だったのです。

 そのことに比べると、宮沢さんの詩や童話創作法は、正真正銘のフィールドワークの賜物です。しかも宮沢さんのフィールドワークは、出会った自然と心的交流をするフィールドワークであるという特異性をもっています。

 宮沢さんはそのことを希求する気持ちが強かったにもかかわらず、人との関係性の中に身をおくよりも、ときにはその関係性から逃れるように自然との関係性に浸ってときをすごすことを好んでいたのではないかと感じます。

 そして自然との心的交流の中で自分の心空中に生じてくる心象風景をことばとして表現することを楽しんできたのではないかと思います。さらに、特徴的なことは、将来ある科学的な仕事につなげるためにそれらの心象風景を事実事象として忠実に記録しようと努めようとしていたということではないかと思います。

 高等農林学校のときには友人たちとの徒歩による小旅行や登山など、そして農学校の教師時代にも生徒たちとの自然散策や学校行事での旅行行事などで、高等農林学校卒業後の時期には恩師について岩手県各地の土性調査のためのフィールドワークなど、さまざまな形で宮沢さんは自然と触れ合うフィールドワークを経験してきているのです。

 さらに、それらに東北砕石工場のセールスマンとしての旅が加わることになるでしょう。しかも、それらの際には、常に折に触れた気持ちを作品にするため、自分の心象を記録するための手帳を携帯していたのです。このことも宮沢さんがフィールドワーカーであったことの証となっているのではないでしょうか。

 そうしたフィールドワーカー作家としての宮沢さんの歩みに、より興味を惹かれるようになったのは、渡部芳紀さんの『『宮沢賢治』名作の旅』に出会ったことによります。とくにその中の、「なめとこ山を歩く」にある「なめとこ山の熊」の作品に出てくる地名考の紹介が印象に残っています。

 渡部さんは、「『なめとこ山の熊』に出てくる大空の滝を見たいというのは私の長年の念願だった」そうです。そのため、渡部さん自身がある意味でのフィールドワーカーになり宮沢さんのその作品の舞台となった地を旅するのです。その結果、次のように言えるのだそうです。

 「『なめとこ山の熊』の舞台は複合されたものである。作品をそのままぴったり当てはめることができる舞台があるわけではない。けれども、なめとこ山といわれる山も、中山街道も、鉛温泉も大空の滝も、小十郎が死んだ白沢の尾根も実在する」のですと。

 このように、宮沢さんの作品は、体験したことそのままではなく宮沢さんの心象というプリズムを通して創作し直されたものという側面はあるのですが、宮沢さんのフィールドワークの体験にもとづいて創作されていると言ってよいのではないでしょうか。

 そのことで、宮沢さんの作品は、それを鑑賞するものにとって実際宮沢さんが歩いたフィールドワークの足跡を追体験するという楽しみに誘ってくれるという魅力があるのではないでしょうか。

 自分のすべての人生をかけて、仏国土建設の夢を追いかけた宮沢さんが、その地として選んだのは自分が生まれ育った岩手という地でした。しかし、宮沢さんは初めから岩手の地で仏国土建設をしようとしたのではありません。はじめは、国柱会の一員となってそれを実現しようとしたのです。

 ではどのようにして宮沢さんは自分の夢であった仏国土建設の地としての岩手という地に出会ったのでしょうか。そして岩手という地をどのようにとらえていったのでしょうか。またまた大きな興味が湧いてきました。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「オツベルと象」と自己犠牲

 「オツベルと象」という作品も、またどのような自己犠牲であれば、まことのみんなの幸せにつながるものなのかを考えようとした物語となっているのではないかと感じます。

 オツベルさんは「十六人の百姓(ひやくしよう)」を使って大規模な農業を営んでいる優秀な経営者です。「オツベルときたらたいしたもんだ。稲扱器械(いねこききかい)の六台も据えつけて、のんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。」のです。

 そこに気のいいい一頭の白象さんがやってきてオツベルのところで働くことになります。この白象さんの働く力は大したものだったのです。「二十馬力(ばりき)」もあったのです。オツベルさんは、白象さんにブリキの時計を首からかけさせ、400kgもある分銅を白象さんの足にはめ込みます。

 それでも、気のいい白象さんは、大喜びです。「『うん、なかなかいいね。』象は二あし歩いてみて、さもうれしそうにそういった。で、大よろこびであるいていった。」のです。ではなぜオツベルさんはそのようなことをしたのでしょうか。

 それは、白象さんを自分のものにし、大きな利益をあげようとしたからです。そのことを作品の中では、オツベルさんのところで働いていた百姓さんたちの見立てとして次のように描写されています。

 「どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産だ、いまに見たまえ、オツベルは、あの白象を、はたらかせるか、サーカス団に売りとばすか、どっちにしても万円以上もうけるぜ。」というようにです。

そ して、この百姓さんたちの見立ては現実のものとなって行きます。まず川からの水くみを白象は頼まれます。「象は眼(め)を細くしてよろこんで、そのひるすぎに五十だけ、川から水を汲んで来た。」のです。そして畑の菜っ葉に水をかけます。次の日は、森から薪をとってくるよう頼まれます。「半日に、象は九百把たきぎを運び」ます。次に、鍛冶場の炭火吹きを頼まれ、「ふいごの代わりに半日炭火を吹いた」のです。

 白象さんに仕事を頼むときのオツベルさんの決まり文句が「税金が高い」、「あがる」ということばです。そして、白象さんがたべる藁の数が減らされつづけていくのです。最初10把であったものが、8把、7把と減らされ、最終的に3把にまでになってしまいます。

 そのため白象さんは疲れ切って、「ふらふら倒れて地べたに座り」、「十一日の月を見て、/『もう、さようなら、サンタマリア。』と」言うまでになってしまいます。そして、そのつぶやきを聞いた月が、白象さんに仲間に手紙を書き、助けを求めることを助言するのです。

 その手紙にはこうありました。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで来て助けてくれ。」とです。ここで初めて宮沢さんはオツベルさんがひどい人であることを暗示する表現をするのです。

 ではそれまで白象さんはひどい扱いを受けながらも、オツベルさんをすごい人と評価し、その下で働くことに楽しみをもつことができていたのでしょうか。その理由に関して作品の中では、白象さんがつぶやく次のようなことばで表現されています。

 白象さんは、「『ああ、稼ぐのは愉快(ゆかい)だねえ、さっぱりするねえ。』といっていた。」というのがそのセリフです。白象さんは本当に疲れ切って死にそうになるまで、稼ぐ楽しさに浸っていたのです。

 そうした白象さんの物語を読んでいるときに、ふと頭に浮かんできた本があります。それは、社会学阿部真大さんの『搾取される若者たち――バイク便ライダーは見た!――』(集英社新書)と『働きすぎる若者たち 『自分探し』の果てに』(生活人新書)の二冊の本です。

 この二冊の中で、阿部さんは、現代の若者たちが宮沢さんの「オツベルと象」の中の白象さんと同じように自ら進んで自己犠牲的に働きすぎている姿を探究しています。前者の本では、稼ぐ喜びのために、後者の本では、自分探しのために自己犠牲的に働きすぎているのです。

 とくに宮沢さんの作品との関係で印象に残るセリフが前者の本の中に出てきます。それは、阿部さんが研究のためにインタビューしたあるバイク便ライダーのものです。なぜ自分の体がボロボロになるまで働きつづけてしまうのかという質問にたいする回答です。

 「長く続けないと分かんないだよな。この仕事、やばいよ。阿部さんも気づくよ。気をつけてくださいね」というのがそのセリフです。阿部さんはそうした心理状態を「ワーカホリックという『魔法』」と命名しています。

 「オツベルと象」の終わりの文章も次のようになっています。「『ああ、ありがとう。ほんとうにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそういった。」「おや、〔一字不明〕、川にはいっちゃいけないったら。」

 この終わり方に関して、折角仲間の象たちに助けてもらうことができたのに、なぜ白象はさびしくわらたのか、そして、最後の一文はどのようなことを意味しているのかに関してこれまで議論があったようなのです。

 阿部さんの研究に依拠して言うならば、前者のことに関しては、白象は人のよさからくる自分の軽率な行動で仲間たちに助けを求めざるをえなくなったことを後悔しているからであり、後者に関しては、自分が自己犠牲になることがどのような意味をもつのかを考えないで、「安易に自己犠牲になるような行動をしてはいかえないよ」、という宮沢さんからの忠告ではなかったかと考えます。

 そういえば、宮沢さん自身、「雨ニモマケズ手帳」の中に、(稼ぐことが楽しいからからといって)経済的利害がからむ友とは縁を断つという誓いが記されていたのではないかと記憶しています。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

地域の独立と自律を求めるという「まことのしあわせ」の形

 宮沢さんの「鳥の北斗七星」という作品との関係で、現在私たちが生きている娑婆世界で起こっているウクライナ危機に何を見るかということについて考えてみたいと思います。現在のウクライナ戦争で何よりも驚いたことは侵攻しているロシアと比較すると圧倒的な弱小国ウクライナ兵士の善戦の姿です。

 今般のロシアによるウクライナに対する軍事的侵攻という悲劇は、これまでの人類史のなかにおける強大な権力をもっている地域と弱小地域の間で繰り返し起こってきたことなのでしょう。その場合、弱小といえどもなお、自分たちの地域の自治と自律を守るために多くの尊い命を犠牲にして戦ってきたのではないかと思います。

 今般のロシアによるウクライナに対する軍事的侵攻に対する新たに志願した市民を含むウクライナ兵士の善戦はそうした歴史を否応なく彷彿させます。同時に自分たちが生活している地域の自治と自律がいかに人にとって重要なものとなるか、ウクライナの人々のそれを守ろうとする必死の行動に示されているのではないでしょうか。

 これまでのフィールドワークにおけるフィールドとして、自分はなぜスコットランドや沖縄という地域に惹かれてきたのか、そうだ〈地域の自治と自律〉というテーマを探究したかったのだということをいま感じています。

 スコットランドイングランドとフランスという強国にはさまれた弱小国として、そして沖縄は、中国と日本という強国に挟まれた弱小国として、いかに自分たちの地域の独立を実現するかを追い求めてきた地域なのではないかと思います。

 そうした歴史的過程で、沖縄の人たちはかつて自分たちの歴史を、自分たちを支配している権力者の移り変わりの歴史として認識してきたといいます。そのことを琉球処分によって日本の支配下の地域となった時代に生きた伊波普猶さんは次のように論じています。

 琉球時代に、「君主即ち国家」「国家即ち君主」という思想が生まれ、君主の交代を「よがわり(世替)と捉えてきたのです。また「易姓革命の国柄」から「琉球人は至って平和な人民で、古今古来『にがようあまようなす君』(『世なみ凶しきを吉きにかへす君』もしくは『悪い国家を良い国家にする統治者』の意)を渇望して已まない人民」(「古琉球の政治」『伊波普猶全集第一巻』平凡社)だったのですと。

 また元コザ市長で、『沖縄独立宣言【ヤマトは帰るべき祖国ではなかった】』の著者である大山朝常さんは、その著書の中で、沖縄出身の歌手である嘉手苅林昌さんの「時代の流れ」という歌の次のような一節を紹介しています。

 その一節とは、「唐ぬ世から大和の世/大和ぬ世からアメリカ世/ひるまさ変わたるくぬ沖縄……大和ぬ世から沖縄世/やっとぅ戻たるくぬ沖縄」というものです。大山さんはこの一節は、沖縄の独立宣言であると見るのです。

 沖縄の人たちはかつて「鳥の北斗七星」の少佐となった烏のように自分たちの住む世界の平和と安寧をただひたすら「神」ともとらえる「君主」の善政に祈りつづけていたのです。しかし、現在は、そうした歴史を経て自分たちの地域の運命を自分たちの意志で決めていこうとするようになってきているのではないでしょうか。まさしく、沖縄の歴史の大変大きな世替わりの時代を自分たちは生きているのだなと感じます。

 そうした目で宮沢さんが生きた岩手という地を見てみると、岩手もまたかつては奥州藤原氏によるいわば「独立国」であったと言ってもよいのではないかと思います。藤原清衡さん、基衡さん、そして秀衡さんという藤原氏三代にわたる国づくりの特徴は現世に極楽浄土世界を創りだす仏国土建設にあったということではないでしょうか。

 清衡さんの命により建設された「中尊寺建立供養願文」には、前九年後三年の役で「亡くなった全てのものを、敵味方の区別なく極楽浄土へと導きたい」という願いが記録されているといいます。

 さらに、そこには、「人だけでなく、けものや、鳥や、魚、貝」など戦争で犠牲になった霊魂の成仏を祈っているものだそうです。そうした奥州藤原氏の精神風土を宮沢さんもまた継承しようとしていたのではないか、イーハトーヴはそのことを象徴化する岩手の地への命名だったのではないかと思いを馳せてしまいます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「鳥の北斗七星」と自己犠牲

 「ほんとうのさいわいは一体何だろう。」それはジョバンニさんとカンパネルラさんの共通の問いです。「鳥の北斗七星」という作品はこの問いにどのような答えを用意しているのでしょうか。この作品では戦争の中の自己犠牲が探究されています。

 この作品は、烏(からす)の「神」であるマヂエル様によって運命づけられた烏(からす)と山烏(やまがらす)との間の戦争の物語です。主人公は、烏の義勇艦隊の大尉の烏です。「明日」戦死(「神」の命令により自己犠牲となる)することを覚悟しての戦いに挑むという場面から物語は始まります。

 この烏の大尉には許嫁がいます。同じ艦隊の砲艦です。明日の戦いの夜マヂエル様に祈っている夢見のとき、突如「非常招集」がかかります。「敵の山烏」が突如現れたのです。大尉とその部下は突如現れた山烏めがけて出撃するのです。

 そして戦いにみごと勝利します。山鳥たちを撃退し、討ち果たした山鳥の「死骸(しがい)を営舎(えいしや)までもって帰(かへ)る」ことができたのです。この勝利によって、大尉は少佐に昇進までします。

 しかし、少佐に昇進した烏は、「あの山鳥(やまがらす)を思(おも)ひ出(だ)して、あたらしい泪(なみだ)をこぼ」すのです。なぜならば、山鳥たちは鳥を攻撃しようとしてやってきたのではなく、「お腹(なか)が空(す)いて山(やま)から出(で)て来(き)」ただけだったからなのです。

 鳥の少佐はマヂエル様に祈ります。「(あゝ、マヂエル様(さま)、どうか憎(にく)むことのできない敵(てき)を殺(ころ)さないでいゝやうに早(はや)くこの世界(せかい)がなりますやうに、そのためならば、わたしのからだなどは、何(なん)べん引(ひ)き裂(さ)かれてもかまひません。)」とです。

 ここまで「鳥の北斗七星」のあらすじをみてきましたが、この作品では、戦争というできごとが人知の及ばない天の存在者であるマヂエル様のこの世界の秩序形成を差配する一環の出来事として描かれています。それでもなお、宮沢さんは、憎むことのできない敵を殺さざるを得ない戦争がなくなる世界の実現を祈ることを主題としているのです。

 だとすれば、人知のおよぶ人間の権力者や国家によって引き起こされる戦争の中の戦死という自己犠牲の問題はどのように捉えたらよいのでしょうか。そのことを現在起こっているウクライナ危機の戦争に置き換えて考えてみることにしたいと思います。そうすると烏の少佐の祈りは次のようになるかと思います。

 マヂエル様はロシアのプーチン大統領、そして烏はウクライナの親ロシア派住民、そして山鳥がロシア支配からの自由を求めるウクライナ住民という構図となるでしょう。鳥の少佐の祈りは、親ロシア兵士の次のような祈りとなるのではないでしょうか。

 「(あゝ、プーチン様(さま)、どうか憎(にく)むことのできない敵(てき)を殺(ころ)さないでいゝやうに早(はや)くこの世界(せかい)がなりますやうに、そのためならば、わたしのからだなどは、何(なん)べん引(ひ)き裂(さ)かれてもかまひません。)」とです。

 宮沢さんは、実はこの作品で、戦争において戦死するという自己犠牲は、決して「みんなのまことの幸せ」につながるものではないということを云いたかったのではないかと思います。むしろ親しい人または愛する人と平穏で安心できる日常生活がおくれることこそが「みんなのまことの幸せ」なのではないかと言いたかったように感じるのです。

 この作品のおわりの描写がそのことを示しているように思えます。それは山鳥との戦いで戦死することなく帰ることができたことでの生活風景を画いた文章です。

 少佐となった烏は「あしたから、また許嫁(いいなづけ)といつしよに、演習(えんしふ)ができるのです。あまりうれしいので、たびたび嘴(くちばし)を大(おお)きくあけて、まつ赤(か)に日光(につくおう)に透(す)かせましたが、それも砲艦長(ほうかんちやう)は横(よこ)を向(む)いて見逃(みの)がしてゐいました」。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「銀河鉄道の夜」と自己犠牲(2)

 繰り返しになりますが、「ほんとうのみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」との覚悟をもって生きていた宮沢さんでしたが、問題は、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ということでした。

 この問いに対して、少なくとも死後の幸福を願っての自己犠牲では、「ほんとうのさいわい」にはならないと、宮沢さんは感じていたのではないかと思います。それはジョバンニさんとカンパネルラさんが銀河鉄道の旅で出会った、タイタニック号の沈没事故で自己犠牲的に亡くなったアメリカの家庭教師の青年とその教え子である男の子と女の子二人の子どもたちとの会話の中に表現されています。

 それは銀河鉄道がサウザンクロス駅に到着する直前での会話です。男の子が「僕も少し汽車へ乗(の)ってるんだよ。」と駄々をこねたのです。「青年はきちっと口を結(むす)んで」、「ここでおりなけぁいけないのです」というのです。女の子も「ここで降りなけぁいけないのよ。天上へ行くところなんだから。」と「さびしそうに云いま」す。「だっておっ母(か)さんも行ってらっしゃるしそれに神(かみ)さまが仰(お)っしゃるんだわ。」というのがその理由です。

 そこでジョバンニさんがおもわず叫びだすのです。「そんな神さまうその神さまっだい。」とです。なぜなら、ジョバンニさんが受けていた教えとは、「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ってたよ。」というものだったからです。天上よりいいものをつくる、まさしく宮沢さんの夢であり、願いだったものです。

 横道にそれますが、「銀河鉄道の夜」のこの場面を読んでいると、宮沢さんも親しく読んだことだと思われるアンデルセン童話の「マッチ売りの少女」という作品が頭の中に浮かんできます。それは、「マッチ売りの少女」のテーマは、「銀河鉄道の夜」のテーマとは正反対ではなかったかと感じるからです。

 『アンデルセン童話の深層 作品と生いたちの分析』(ちくま学芸文庫)の著者である森省二さんによれば、「マッチ売りの少女」の主題は神のまえに召されることがその人にとって究極の幸福であるということを示すことなのだそうです。森さんの文章を引用しておきたいと思います。

 「この童話は、現実には何の救いもなく死に至る物語です。しかし、ここで語られる『死』は神に召されて昇天するという、宗教的な至福の極致に向かうものです」と。また次のようにも評価します。

 この童話は、「きわめて閉鎖的、『新しい幸福な世界』という死の幻想に溶け込んでいく物語です」というようにです。貧しく、その上父親からも虐待を受けそれこそ究極の孤独の身におかれていた薄幸の少女の死であっても、「神に召されて昇天」できたのであれば、その死は「宗教的な至福の極致」であること暗示している物語、それが「マッチ売りの少女」です。

 だとすれば、他者のために自己犠牲的に死んだ人の死は、さらに「宗教的な至福の極致」に導いてくれる死であるということになるでしょう。しかし、宮沢さんは、その「宗教的な至福の極致」という幸せを「まことのしあわせ」とは思ってはいなかったのではないかと推測します。上述の「銀河鉄道の夜」における会話に表現されているように感じるのです。

 宮沢さんの「銀河鉄道の夜」という作品は、そうしたアンデルセン童話の主題のような死後における「宗教的な至福の極致」という教えに疑義を提起することがテーマであるように思えます。

 そのことは、「銀河鉄道の夜」の最後の、カンパネルラさんの自己犠牲的死の場面にも示されているのではないかと感じます。川でおぼれている自分の学友であるザネリさんを助けるために川に飛び込みザネリさんを助けるのですが、自分は溺れ死んでしまうのです(ただし、作品の中ではそのことを知っているのはジョバンニさんだけなのですが。)。

 しかも自分の命をかけて助けた相手というのがいじめっ子のザネリさんです。カンパネルラさんの死は宗教的には、やはり究極的な自己犠牲であり、最も人間的美しさを示し ている死であると言えるのでしょうか。

 作品の中では簡単にそうであると言うことができないジョバンニさんがいます。「そこに学生たち町の人たちに囲(かこ)まれて青じろい尖(とが)ったあごをしたカンパネルラのお父さんが黒い服(ふく)を着(き)てまっすぐに立って右手に持(も)った時計をじっと見つめていたのです。」「みんなもじっと河を見ていました。誰(だれ)も一言も物(もの)を云(い)う人もありませんでした。」

 ジョバンニさんはカンパネルラさんがすでに亡くなって天上にいってしまっていることを知っています。しかし、カンパネルラさんの安否をかたずをのんで見守っているみんなに、ましてやカンパネルラのお父さんに告げることができませんでした。

 カンパネルラさんは立派だったよ。すでに「まことのしあわせ」をえるために天上にいったよ、と告げることができなかったのです。なぜならば、そうれを告げることがカンパネルラさんが助かることを願っているカンパネルラさんのお父さんをはじめ、「みんな」をどれだけ悲しませることになるか、宮沢さんは痛いほど経験し、知っていたからではないかと考えます。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

「銀河鉄道の夜」と自己犠牲(1)

 人間を含む生き物はすべて死ぬことによって生物界全体の利他的な存在となるというメッセージがあります。そのメッセージの送り主は、『生物はなぜ死ぬのか』の著者である小林武彦さんです。小林さんによれば、人間を含む生き物は、生き物世界全体の存続と多様性化のために死ななければならないのです。小林さんは言います、

 「私たちは次の世代のために死ななければならないのです」と。そのために生き物は生まれたときから死ぬことに向かって変化していくように自然によってプログラミングされているのです。

 しかし、自分自身も自分を取り囲んでいる世界も一瞬の休みもなく絶えず変化しつづけている(仏教的に言えば、諸行無常)にもかかわらず、自分は永遠的な存在であると感じ思い込んでしまう自我存在なのです。

 さらに、人間は感情をもつ生物です。それが死への恐怖につながっていると小林さんは言います。「ヒトは感情の生き物です。死は悲しいし、できればその恐怖から逃れたいと思うのは当然」なのですと。「やはり自分という存在を失う恐怖」は人間だれにも存在するものなのです。

 ではこの恐怖から逃れる道はあるのでしょうか。生物学者である小林さんの答えはとてもシンプルです。「この恐怖から逃れる方法はありません」と。なぜならば、「『死』の恐怖は、『共感』で繋がり、常に幸福感を与えてくれたヒトとの絆を喪失する恐怖」だからです。

 「自分という存在を失う恐怖」を乗り越え、自分の命をかけて利他的行為をする「自己犠牲」は、だからこそ尊いものと思われてきたのかもしれません。だとしても、利他的行為であるということで、いつでも、どこでも、どのようなものでも、そしてだれにたいしてでも、命をかけた「自己犠牲」は尊いもの、すべての人の本統の幸福につながるものなのでしょうか。

 自己犠牲の覚悟を数多く口やことばにしていた宮沢さんですが、その問いこそ宮沢さんが一生をかけてそのこたえを追い求めた問いだったように思われます。とくに、宮沢さんにとって「常に幸福感を与えてくれた」特別の存在であった妹のトシさんの死によってことばには表せないぐらいの大きな悲しみを経験しているのですから。

 銀河鉄道にのっての旅の中で出会ったさそり座のさそりの祈りに託して宮沢さんはその気もちを次のように吐露しています。「どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸せのために私のからだをおつかい下さい」とです。

 このさそりの祈りは、宮沢さんが死の前日に自分の願ってきた気もちを詠んだ、「病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てれば/うれしからまし」という短歌に込められた心情そのもののように思えます。

 この問いはジョバンニさんとカンパネラさんとの会話の中で再び取り上げられます。ジョバンニさんは言います。「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」のですと。カンパネラは応えます。「僕だってそうだ。」とです。

 しかし、つづけてジョバンニさんがさらに次のように問うのです。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」というようにです。カンパネラさんもつづいて、「僕わからない。」と「ぼんやり云いました」。

 さそりの祈りやジョバンニさんとカンパネラさんの会話のやりとりをじっと見つめていると、それらは、自分の命をかけた自己犠牲は安易に行うものではなく、それがほんとうのみんなの幸せになるものなのかどうかよくよく考えてみなければならないという宮沢さんのメッセージではないかと感じます。

 少なくとも死後の幸福を求めての「自己犠牲」は宮沢さんが考えている自己犠牲ではないものと推測できます。それは、タイタニック号の沈没事故で「自己犠牲」的に亡くなったことにより銀河鉄道で出会うことになった家庭教師とその教え子たちとの会話から推測できるのです。

 

                  竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン