宮沢さんの、自分の心の中に忍び寄ってくる悪魔との闘いのテーマとしてもう一つ重要なテーマがあったのではないかと思います。それは性愛に関わる本能という悪魔との闘いです。そして、その闘いを自らの人生上の主要なテーマとしていたのが、島崎さんでした。
それは、宮沢さんにとっても重要なテーマだったように思います。そのことに関しては、「雨ニモマケズ手帳」71~74頁の「土偶坊」という演劇のための脚本構想に示されています。それによると、この演劇は、「ワレワレ〈ハ〉カウイフモノニナリタイ」という宮沢さんにとって理想の人物の行状を示すためのものと位置づけられています。
そして、その演劇の終盤の第八景から第十景までが、性愛における本能という悪魔との闘いが演じられる構想になっていたのではないかと考えられるのです。第八景の表題は、「恋スル女」となっており、つづいて、第九景が「青年ラ害セントス」、そして第十景が「帰依者/ 帰依の女」となっています。これら8~10の演劇の中でどのような内容が演じられようとしていたのか、全くわからないのですが、性愛というものとどのように向き合うかということは、宮沢さんにとっても非常に重要な課題だったのではないかと思います。
島崎さんの場合は、まさしく性愛の問題で重大な人生上の危機に直面してしまっていたようです。それは、愛妻の病死後、手伝いにきてくれていた姪の女性と不倫したことによる長くつづいた後悔の苦悩に象徴されています。その苦悩は、他の島崎さんの精神を悩ます諸事情も重なることで、一度は自ら死ぬことも考えるほど深刻なものだったと言います(『新潮日本文学アルバム4 島崎藤村』新潮社、1984年)。
さらに、今回参考にした文献である新潮社刊行の『新潮日本文学アルバム4 島崎藤村』によれば、島崎さんは、性愛に関する本能というものに恐れさえ抱いていたと言います。そのことは、次のように論じられています。すなわち、
島崎さんは、「少年期における情欲のめざめと、それがすぐさま〈憂鬱〉と結びつくような資質」があった。「藤村が一種の性的頽廃を旧家の血の宿命として認識するのは『家』まで待たなければならないが、そうした認識の成立以前の事実として、彼は早くから、本能に対する固有の恐怖をなかば無意識に、自覚していたのである。このとき以後、藤村は内なる自己を凝視して放たぬ目を獲得した」のですと。
なるほど、この議論を読んで、島崎さんは、性愛の本能というものに、一方ではそれまでの個人の意思や自由を束縛する規範からの解放を導く、生き生きとした生命の息吹を期待しながら、しかし、それは、他方では、人間としての尊厳を傷つけ、頽廃の奈落に誘惑しかねない危うい性格を併せ持っていることに、これも本能的・潜在的に気づいていたように感じました。では、宮沢さんは、この性愛の本能をどのように捉えていたのでしょうか。
この点に関しては、宮沢さんは、早熟で、少年期にあたる中学校卒業後熱烈な初恋の経験をしているのです。それは、鼻炎の手術のために岩手病院に入院した際、宮沢さんの担当者だった「ひとりの看護婦」さんに対するものでした。それはどのようなものであったかについて、『宮沢賢治の俳句 その生涯と全句鑑賞』(PHP研究所、1995年)の著者である石寒太さんは次のように論じています。
宮沢さんは、「入院中、ひとりの看護婦と初恋をした。Erste Liebe(初恋)と賢治自身がドイツ語で、ノートに書きつけていくつかの恋歌(短歌と文語詩)が、このころの日々に生まれた」。
「『短歌』の中で、量的にもっとも注目すべき豊かさを示す『大正三年四月』という見出しの歌群は、この入院発熱時の歌ではじまり、やがておさなくも切実な恋の歌、初恋に苦悶する少年賢治の、精神のゆらぎが、高らかに歌いあげられている。詩人の少年期最後に訪れたこの初恋体験は、のちの詩や童話に、さまざまな主題や影響を与えてよみがえっている」とです。
しかも、石さんによると、宮沢さんは、その病院の退院後、父親にその初恋の人と結婚したいと申し出たというのです。そのときは、お互いまだ若すぎるという父親の説得によりその結婚を断念したのです。そのときの宮沢さんの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。気になります。少なくとも、少年期の宮沢さんは、性愛というものに強いあこがれを抱いていたということは言えそうです。
しかし、宮沢さんの場合には、その後、法華経に出会い、この世に極楽浄土としての仏国土を建設することを自分の使命と考えるようになっていくなかで性愛に関する考え方が180度変化していくことになったのではないかと思います。例えば、羅須地人協会の活動期には、宮沢さんに好意を寄せる女性に対して悪魔呼ばわりし、その女性の感情だけでなく、尊厳や人権さえをも傷つけたという厳しい批判さえ招いているのです(この点に関しては、鈴木守さんの『本統の賢治と本当の露』や『筑摩書房への公開質問状 『賢治年譜』等に異議あり』などの著書を参照していただければと思います)。
このように、宮沢さんの場合、少年晩期から青年期にかけて性愛観が大きく変化しているのです。それはどのような変化であったのか、その過程をつまびらかに明らかにしている文献には、残念なことにまだ出会っていません。これから出会えることを楽しみにしたいと思います。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン